Diary
June 30, 2003 =Mon=
一泊した八尾の家を、バス停まで送っていくと言う母と10時前に出る。東京から疎開先の埼玉・深谷を経て、父の友人で八尾の隣の駅・山本でカメラ工場を経営していた人の一間を間借りし、そのうちに今の家が大阪府の分譲の抽選に当たって引っ越したのが1951年。それからすでに半世紀が経つ。生粋の江戸っ子だった祖母も父もここで亡くなった。わが家と同じブロックで同じ通りに面した6軒のうち、当時から住んでいるのは2軒だけ。3軒は空き家になっている。
帰りの新幹線で、先日買った石井花子の「人間ゾルゲ」を読む。筆者とゾルゲとの奇妙な日本語による心の交流もさることながら、戦後、筆者が逮捕されたゾルゲの刑死を知り、放心の日々のうちに書店で「ゾルゲ事件の真相」に触れた小冊子を見つけ、回想録を出版する傍ら無縁墓地に埋葬されたゾルゲの遺骨を発掘し多磨霊園に埋葬するくだりでは、車中なのに不覚にも涙がこぼれそうになった。
八尾を早くに出たのは、長男が戸籍謄本が至急に必要となるので、区役所の開いているうちに窓口に言って謄本を取るため。新幹線で東京に着くと、その足で大手町から半蔵門線の水天宮で降り、日本橋蛎殻町の中央区役所日本橋と区別出張所へ。謄本を貰って人形町の郵便局から沖縄へ郵送する。
帰り道、新宿のビックカメラにより、この前から悩んでいたPDAを見る。決断して東芝のGenio-eに決める。カメラのない機種で59,800円。まず使い方を覚えなければ。
ようやく家に着き、メールを開けると、金曜日に用意した「お別れメール」をTさんが約束どおり流してくれたらしく、その返信が30通余り入っている。やはりメールは便利だ。でも、メールを使っていない人にはやはり挨拶状を出さなければならないか・・・面倒!
June 29, 2003 =Sun=
沖縄の長男に送る郵パックを新宿郵便局に持ち込み、その足で新宿駅へ。13時03分発のひかりなら間に合うというので切符を買い、中央線のホームに行くと、現在停車中の東京行き快速電車は車両点検のため暫く停車するとのこと。慌てて総武線のホームに移り、時計を気にしながら御茶ノ水まで来るとさっき止まっていた快速が追いつく。とにかくぎりぎりでひかりに飛び乗った。
近鉄八尾駅に着くと、母が妹夫婦と車で迎えに来ている。今回は一泊だけなので、何か材料を買っていって晩飯を作ってやろうと思っていたが、外食のほうが世話がないからと近くのホテル2階の中華料理店へ。母の動脈瘤はあまり大したことはなく(と言っても年が年だからどうなるか分からないが)むしろコレステロールで血管が細くなっているいるのが問題で、時々意識を失うのもそのためらしい。日赤病院で検査したときに、いろんな質問への応答で頭脳の働きを調べたらしいが、この方は55歳の水準とのことで、頭はしっかりしている。同じ病院で同じテストを受けた78歳の友達が60歳相当と言われて自慢していたのが、90歳の母が55歳相当と聞いてしゅんとしてしまったという。母は妹が買ってきてやる「漢字クロスワードパズル」のような雑誌を見ながら、空欄に漢字を埋める作業をしている。これも頭の働きを維持するのに役立っているのかもしれない。
私の、おそらく最も古い記憶は、戦時中に地下鉄かビルの地下室から外に出る階段を這い這いしながら上がっているというもの。本当の記憶か他人から聞いたことが記憶のイメージになったものか分からなかった。この前見た「スパイ・ゾルゲ」で、空襲時に人々がビルの地下に避難する場面があった。母にこれを聞いて見たら、「日本橋茅場町に住んでいた時に空襲を受けて、幼い私の手を引いて、家の前の市場通り(今の新大橋通り)を渡ったビルの地下室に避難したことがある。市場通りは広いので、渡るのがとても怖かった。」という。やはりこの記憶は間違っていなかった。
June 28, 2003 =Sat=
来月からの新しい仕事では、スケジュール管理など自分でやらなければならないだろうから、PDAを買おうと思っている。幸い、妻も「退職記念に何か欲しいものを買えば」と言ってくれている。ヨドバシカメラとビックカメラを見て回ったが、大体売れ筋は59.800円でポイント還元10〜13%といったところ。カメラはあれば便利だろうが、別に必需品ではないし、それよりも軽い方がいい。カタログを集めて比較した限りでは、ソニーのClie PEG-TG50という機種が売れ筋より2万円ほど安く、ビジネス向きという感じだったが、店頭で手にとって見るとどうも液晶に映る文字が小さくて見難い気がする。店頭で気に入ったのは東芝のGenio-e550GDというやつ。59,800円と高いが重量170gと軽く、何よりもRAMの容量が125MB(TG-50は16MB)と大きい。OSはソニーがPalmOS5に対して東芝はマイクロソフトのPocketPC。PDAでは機種のラインアップから見てソニーがメジャーになりそうな感じだし、PDFファイルが読めるという点でもTG-50が捨てがたい。悩ましいところだ。
大阪・八尾にいる母に電話したら、先日受けた検診の結果、脳に動脈瘤ができているとのこと。明日から1泊で行ってこようと思っている。今現在自覚症状があるわけではないが、いつ破裂するか分からないらしい。本人は90歳まで生きたのだからどうなってもいいと言っているが。昨年、外出中に泥棒に入られたことからセコムと契約して防犯装置を付け、同時にセコムへの緊急通報用の首から下げる端末も用意してもらった。今では甥が二階に同居してくれているので、一応の緊急体制はできている。
June 27, 2003 =Fri=
お別れのメールを3通作成。1通は部内、1通はその他の会社関係者、もう1通はニューヨークやアテネの現地社員あて。月曜は休暇をとっているが、今日送信するのも間が抜けているので、月曜に私のPCから送信してもらうようにお願いする。この3通のメールを残して、過去のすべての送受信メールやデータをPCのハードディスクからすべて削除。これで完全に後片付けが終わった。会社のほうは今日が株主総会だし、定年後1年半もたっていまさら挨拶でもないので、すべてメールで済ますことにし、挨拶回りは省略した。
お昼は、24日の送別会に出られなかったMさんからのオファーで、東京国際フォーラムの地下でイタリアン。夜は八丁堀倶楽部で部としての正式の送別会。送別されるのは先月関係会社に常勤監査役として出向したK氏と私の二人。こちらが面映くなる送別の辞を頂いたあと、お別れのスピーチでこれから勤務する会社を紹介する。お開きのあと、数名で近くの「陣屋」で二次会。
正式には今月末の退職だが、月曜日は休暇なので、実質上今日が最後。40年近く勤めたあとの退職だが、すぐ次の仕事が控えていることもあって、あまり感慨は湧かない。
June 26, 2003 =Thu=
机やサイドキャビネットの整理が終わり、ほとんど空っぽになった。パソコンのデータや過去のメールもほとんど消去した。まだ少し仕事が残っているが、さっぱりした感じ。人事に確かめたら、健康保険証、社員証、使い残りの名刺などは退職後に返却すればよいとのこと。
今日の送別会は今チームを組んでいる3人と。丸ビル5階の「醍醐味」。炉辺焼というイメージとはかなり離れた上品な店。4人ずつの掘り炬燵式テーブルで落ち着ける。
夕方は雨が上がっていたのに9時頃店を出ると土砂降りの豪雨。
June 25, 2003 =Wed=
今夜も部内有志による送別会。大手町のフィナンシャルセンター地下の「北大路」、10人がちょうど入れる個室で。普段良く一緒に飲むメンバーも居るが、余りそうでない人たちも居る。みんなで飲むのが習慣でない人たちも私の送別会ということで来てくれたのはありがたい。
June 24, 2003 =Tue=
丸の内での勤務は、ギリシャから帰国してからパナマに赴任するまでの5年、パナマから帰り関連会社に出向するまでの1年、関連会社が蒲田に移転するまでの2年、そして今の部に戻ってきたからの8年と、通算16年になる。でもその間、こんな近くにこんな店があるのは知らなかった。東京駅南口地下の「さつき」。ここである人からお昼に「究極の親子丼」をご馳走になる。そして退職記念にこんなプレゼントを頂いた。
夜は同じ部に中央線で通勤している仲間8人による送別会。四谷のサルサ・カバナというメキシコ料理店。マルガリータ、サングリア、テキーラなど飲み放題。職場が変わっても多分中央線で通うことになるので、この会には引き続き呼んでいただけるとありがたい。今夜の会をアレンジしていただいたOさん、Many
thanks! 次回幹事のCさん、よろしく。
June 23, 2003 =Mon=
今月で退職すると会社の診療室も使えなくなるので、午後に診療室を訪ね、藤代健太郎先生に他の医者への紹介状を書いてもらう。いつも、コレステロール値を抑える「リポバス」と、逆流性胃炎の薬「パリエット」の投与を受けている。
今日は第二次大戦での沖縄戦から58周年の「慰霊の日」にあたる。先週沖縄に行ったとき、琉球大学病院から乗ったタクシーの年配の運転手が、自衛隊の海外派遣を認めるイラク復興特別措置法案を憤っていた。沖縄戦は彼の子供の頃だった。「今の政治家は戦争がどんなものか何も知らない。兵隊は敵と戦うのではない。防空壕から一般市民を追い出して、蓄えてある食糧を貪り食うんだ。彼らも飢えている。そこら中に死体がごろごろしている。埋葬している余裕などない。木の葉っぱを上にかけてやるくらいが精一杯だ。夜になると死体につまづく。恐怖など感じない。匂いもすぐに慣れて平気になる・・・」
June 22, 2003 =Sun=
スポーツジムに行くのは土曜か日曜のいずれか。行ってやるのはまずエアロバイクを15〜20分漕いで、そのあと4時からプールで水中エアロビを30分、それから風呂とサウナに入る。水中エアロビは結構運動量が多いのだが、水の中だから身体に負担がかからないので中高年者が多い。
その中でいつも会う外国人がいる。水中エアロビの終わったあと水中歩行をしているときに彼とすれ違ったので、どこから来たのかたずねて見ると、パキスタンとの返事。パキスタンなら去年行ったよというと、「どこへ?カラチ、ラホール、イスラマバード?」「その3つとも行った。日本は長いの?」「10年以上になる。」「じゃあ日本語は?」「できるよ。こっちで結婚してるんだ。」とのこと。
パキスタンへ行ったのは去年の5月。アフガン戦争の余波が残り、治安が悪かった。予約していたカラチのシェラトンホテルでは、到着の1週間ほど前にマイクロバスが爆破され、ホテルから港に向かおうとしていたフランス人のエンジニア10数名が死亡、ホテルも損傷を受けたので、同じカラチのパール・コンチネンタルホテルに変更した。われわれが帰国して1週間後に、今度はパール・コンチの隣にあるアメリカ総領事館に車が突っ込み、警備していたパキスタン人が死亡するという事件が起きた。
June 21, 2003 =Sat=
昨日の今日だが、さっそく新宿コマ東宝で「スパイ ゾルゲ」を観る。ビデオでなく劇場映画を観るのは久しぶりだが、見ごたえがあった。妻も観たいというので一緒に行ったが、妻のほうは今日は女性税理士連盟の主催で松井久子監督作品を千駄ヶ谷の税理士会館で2本(「折り梅」と「ユキエ」という、いずれもアルツハイマー病をテーマにしたもの)を観ているので、一日に3本観ることになる。
映画は、1941年、太平洋戦争勃発前にゾルゲと尾崎秀実が特高に逮捕されるシーンから始まり、取調べ中の回想から上海でのゾルゲと尾崎の出会いに遡る。アグネス・スメドレー、宮城与徳や、昨日買った本の著者である石井花子(映画では三宅華子)なども登場するが、脇役ながら宮城与徳に存在感があった。時代と歴史をしっかりと捉え、篠田正浩監督が自ら「最後の作品」と称しているだけのことはある。ラストは「国際共産主義万歳」の言葉を残して絞首刑になったゾルゲに、ソ連崩壊で倒されるレーニン像とベルリンの壁崩壊をテレビで見つめる三宅華子がダブる。最後に演奏されるのがジョン・レノンの「イマジン」なのも良い。
劇場の入りは午後5時半からの最終公演で4割程度。ゆっくりと観ることができたが、若い人たちには重過ぎるテーマなのだろう、近くの映画館の「マトリックス・リローデッド」には深夜公演にもかかわらず行列が出来ていたのとは対照的だった。
ゾルゲ事件に関しては、昨日書いた「斥候よ 夜はなお長きや」のほかに、やはり1960年代に劇団民芸の公演で「オットーと呼ばれる日本人」を観たのを思い出す。たしか主演は滝沢修だった。
June 20, 2003 =Fri=
今の会社での最後の仕事もほぼ纏まりつつあるので、書類整理を始める。といっても事務所移転の際にかなりのものを整理しているので、あまり手間はかからない。個人で持っていた書籍類も、部の掲示板に出したらほとんどは引き取り手が見付かった。
昼休みに本屋を覗き、目に付いた文庫本、石井花子著「人間ゾルゲ」を手に取る。少し立ち読みすると面白そうなので700円で購入。著者はゾルゲの日本人妻で、西銀座の酒場・ラインゴールドのホステスとして働いているときにゾルゲと出会い、処刑後行方不明だったゾルゲの遺体を戦後になって雑司が谷の共同墓地から探し出し多磨霊園に埋葬。2000年に89歳で亡くなったとある。
「スパイ・ゾルゲ」の映画が封切られているので、本屋でもゾルゲものがよく目に付く。でも今なぜゾルゲなのか。映画はぜひ見たいと思うが、どういう視点からゾルゲを捉えているのだろう。ずっと昔に読んだ、いいだもも著「斥候よ、夜はなお長きや」という本がゾルゲの時代を描いている。本棚で黄色に変色している本を引っ張り出して見ると、1966年に芳賀書店から刊行されているが、初版は角川書店で1961年とのこと。あの頃に比べて最近は本当に本を読むことが少なくなった。だが、あの頃の本はどれも捨てられず、引越しの度に置き場に困っている。
松田道雄が後書きの中で次のように書いている。
《「斥候よ 夜はなお長きや」という長編は、(昭和)十年代の暗黒の底にうめいた精神のコーラスである。
十年代の夜を経験した覚めた精神は、自己のうめきをソロとして記憶している。しかし、いま「斥候よ 夜はなお長きや」を読んで、そのうめきのソロが、実は荘厳なコーラスの一部であったことを、あらためて感じる。
(中略)早合点してはならぬ。これはゾルゲ事件の「真相」を推理する小説ではない。ゾルゲも尾崎もその表面の一つの波にすぎぬ十年代の精神の流れをえがいたものである。》
われわれにとって、ソロが振り返って見ればコーラスであった時代というのはあるだろうか。あるとすれば1960年代か?それとも、そんな時代はなかったのだろうか。
June 19, 2003 =Thu=
今の仕事の仲間4人とポールスターで送別ランチ。ポールスターは以前は新丸ビルの地下にあったが、三菱信託銀行の本社ビルと日本工業倶楽部ビルが合体して今年完成したビルに移ってからは初めて。だんだんと送別会モードになってくる。
夜は新橋の「五六八」で。今は食品関係の上場会社の監査役をしている前々部長も参加。
June 18, 2003 =Wed=
友人と築地の聖路加タワーのレストランで会食。ここは初めてだが、隣の聖路加病院は私の生まれたところ。汐留方面の高層ビルや東京タワー、屋形船の浮かぶ隅田川などの夜景が美しい。
June 17, 2003 =Tue=
昨日は強行軍だったので、遅めにホテルを出て、首里城へ。ここはすでに何度か来ている。昼食のあと、オプショナルツアーで玉泉洞という鍾乳洞を含む沖縄ワールドとグラスボートということだったが、台風接近でグラスボートは中止となり、代わりにサボテン園。平日で長男は大学があるので仕方なくオプショナルツアーを申し込んだが、初めてと思っていた鍾乳洞も入って見るとどこかで見た覚えがある。デジャヴという奴かと思いながらある場所に来てみると前回長女と一緒に来たときにここで写真を撮った場所だと気づく。妻などは、そのほかに市議時代に視察で来たこともあるとのことで、都合三度目。鍾乳洞を出るとやはり前回来た記憶のある熱帯植物園をへて、ガラス工芸の実演販売や、昔の沖縄の民家を復元した民芸店がある。その一軒で泡の立ったお茶を飲んだあと、エイサー会場へ。最後に少しだけ踊りの輪に加わる。
台風はだいぶ西に逸れるとともにスピードも鈍り、沖縄に近づくのは明日になりそう。バスガイドの説明を備忘録代わりに書きとめておくと、沖縄の県花はハイビスカスやブーゲンビリアではなくマメ科植物のデイゴ。県木もガジュマルではなく琉球松だとのこと。デイゴは3月から5月初めにかけて花が咲くが、デイゴの花が多く咲く年は台風の直撃が多いらしい。昨年はデイゴがいっせいに咲いて、台風が多かったが、今年はデイゴの花の数が少なく、まだ台風の直撃は受けていないし、今度の台風も沖縄本島は逸れるだろうと。
このバスガイド、顔を見ると若そうだが歯切れがよく、言うこともしっかりしている。沖縄の米軍基地に関する説明などとても説得力がある。広大な米軍基地の維持はいわゆる「思い遣り予算」で賄われ、その規模は米軍軍人一人当たり1500万円にのぼること、当初は基礎的なインフラが対象だったが、今では映画館やボーリング場など基地内の娯楽施設にも「思い遣り予算」が使われていること。その出所は当然のことながら日本国民の税金であること等々。後で聞くとまだ20代前半とのこと。
帰りのフライトは台風の影響もなく予定時刻前に羽田に着陸。
June 16, 2003 =Mon=
長男と話をするという目的は達したが、それだけで帰るわけにもいかないので、二日目からは観光にjoin。結構きついスケジュールで、石積みの城壁が世界遺産になっている座喜味城跡、サトウキビから黒糖を作る黒糖工場、ハブセンターや沖縄の古い家を再現した琉球村、パイナップルの試食で食べ放題の名護パイナップルパーク、昼食の後、蝶が飛び交う蝶々園、海洋博記念公園の中にあり、世界最大級という沖縄美(ちゅ)ら海水族館、白亜紀を思わせるシダ類が密生するやんばる亜熱帯園、断崖の上に一万人が座れるという平原が続く万座毛と、このすべてをバスから降りて見てまわり、夕刻にムーンビーチホテル着。観光コースの中の圧巻は、巨大なジンベイザメやマンタが泳ぎ回る、7000dの水槽。

途中、長男から電話がかかってきて、明日の夜に台風が直撃するらしいとのこと。ちょうど明日夜の飛行機で帰る予定なので彼も心配しているらしい。添乗員やガイドにそのことを話したら、台風の接近は明後日にずれ込む見込みだとのこと。この日も日が射したり小雨が降ったりと、天気は変わりやすい。
ムーンビーチホテルは、以前は今勤めている会社が厚生施設用の部屋を持っていて、プライベートビーチのある高級リゾートのイメージがあったが、この日はシーズンオフのせいか、高校生の団体が泊まっていた。部屋はツインベッドのほか、四畳半の和室や自炊用のキッチンも付いているが、少しカビ臭いにおいがした。夜はマッサージを頼む。結構力を入れてやってくれた。
June 15, 2003 =Sun=
お昼前羽田発の全日空便で沖縄へ。正規料金で片道31,400円の航空運賃だが、申し込んだツアーでは往復航空券とホテル2泊(日航那覇グランドキャッスルとムーンビーチホテル)に観光バスが込みで29,800円。航空運賃の料金体系って一体何なんだろうと思わせる。今回は琉球大の学生(医学部6年)である長男に会うことが目的なので、空港到着以降一日目の観光をすべてキャンセル。長男の行っている大学のキャンパスを是非もう一度見たいとの妻の主張で、西原町の琉大医学部と付属病院を訪れる。日曜日なので閑散としているが、妻もまあ満足した様子。夕刻、やってきた長男とホテルで夕食を取りながら進路の問題等を話す。
June 14, 2003 =Sat=
何度も失敗を繰り返したが、ようやくホームページにアクセスカウンタと掲示板を設置することに成功。有料サイトや無料の広告付きのものを借りてくるなら簡単だが、自分で設置するとなると結構面倒。日本の大手プロバイダならいろいろと親切な解説があるが、あいにくこのホームページのサーバはアメリカのInterland社。大手ではあるが個人ユーザーの評判では余り親切とは言えないようだ。カウンタと掲示板で苦労したのもcgiスクリプトの最初の行に書くperlへのパスがInterlandのサポートサイトを探しても出ていなかったこと。最初に開設した時のサーバはDegiweb社だったのがInteriant社に吸収され、それがさらにInterland社に買収された。Degiwebの時はカウンタなど同社が提供していたのだが。こんなシェアードサーバーの変遷からもアメリカのIT社会のM&Aの凄まじさを実感できただけでも価値はあったかも知れない。
だが、こうした試みにトライし、成功した際の高揚感というのを、最近は余り感じなくなった。昔はニフティに加入した時、パソコン通信の世界からインターネットに移行したとき、MS-DOSからWindowsへ、Windows3.1から95へアップグレードしたときなど、「わくわく感」のようなものがあったが、今はそれもない。こちらが年を取ったせいもあるが、ITでは何でも「出来て当たり前」の世界に入ってしまったのではないか。そうなると、新しくかなりの程度の技術革新があっても、それは予め予定されていたことであり、物珍しささえ感じられなくなってしまうのだろう。そして技術革新が消費を拡大するインパクトもだんだんと薄れていく。
June 13, 2003 =Fri=
昨夜寝る前は何ともなかったのに、夜中に目が覚めると悪酔い気味。今日も一日中二日酔いの気分だった。少しセーブしなければと思いつつも、6時からオフィス引越しの打ち上げパーティで茅台酒を勧められ、また調子よく飲んでしまう。
このWEB日記、今でもサーバーにはアップしているが公開してはいない。今の職場を退職後には公開しようと思っているが、それまでにいろんな用意が整うかどうか。
June 12,2003 =Thu=
次のの勤務先の前任者であるKさんを訪ねる。中小企業に対する銀行の対応など、かなり深刻そう。
汐留のカレッタ汐留というビルの46階にある「響」で大学の同期会。この間までサントリーの専務をやっていた井詰君が、子会社であるダイナックの会長になり、ここはそのダイナックの経営する店。「響」の丸の内店はよく昼食に行くし、今度の勤め先の隣にも「響」の店がある。1964年卒業で「むしの会」と名づけ、12回生であることから毎月12日に集まることにしているが、今日はチッソの社長に就任した岡田君の激励会と、年金生活でタイのチェンマイに移住した中西君の一時帰国報告がメインテーマとなる。昔の遊び仲間では、奥藤、森島、藤本が出席。最後は佐世保重工の専務をやっている森島君が締める。彼が日商岩井のソウル支店長をやっていた昨年、妻と訪問して韓国財政部の幹部を紹介してもらい、韓国における公会計改革の状況を教えてもらった。今度、私の退職をきっかけに八丁堀で集まろうとしているが、今日の3人はいずれも出張や旅行の予定が入っていたりして欠席。上田、宇高なども都合がつかず、決行するかどうか悩ましいところ。
June 11, 2003 =Wed=
今朝の新聞によると、世田谷にあった国立小児病院の跡地に多量の医療廃棄物が埋められているのが見つかったとある。50リットル缶で2万以上というから半端ではない。国立小児病院がなくなったことは知らなかった。国立大蔵病院というのと統合して、大蔵病院の跡地に国立成育医療センターとして再出発し、小児病院の跡地32千平方メートルは都市基盤整備公団に売却されたそうだ。
この国立小児病院には思い出がある。アトピー治療で有名な先生がいるということで、重症のアトピーだった長男が治療を受けていた。長男が中学三年のある日、様子が変なのに気づいた妻が、アトピー治療で縁のあったこの病院に自分の車で運び込むと、即入院ということになった。ギランバレー症候群という奇病で、神経がウィルスに冒され、呼吸を司る神経まで麻痺してしまうという。つまり、少し遅ければ命に関わる病で、余り一般的でない病気だから他の病院だったら誤診される可能性もあったかも知れない。事実、長男は入院と同時に人工呼吸器を付けられた。当時、私はパナマから帰任する直前で、社宅を引き払って泊まっていたホテルに妻から入院を知らせる電話がかかり、帰国するや成田から直接病院に駆けつけた。適切な治療のおかげで、心配していた後遺症もほとんど出なかったが、今でも時々身体の力が持続しないことがある様子だ。入院中に台風が来たことがある。人工呼吸器を付けているので口がきけず、五十音表を指差しながらの筆談だが、台風で停電になったら呼吸器がどうなるのか、とても心配していたのを思い出す。長男が医者になると言い出し、医学部に進学を決めたのも、この病気にかかってからだ。身体をいたわりながら二浪して琉球大学の医学部に入学し、その後も2年留年して、やっと6年生になったが、今は医療研修についていけるかどうかが本人の悩みである。今週の日曜日から長男に会いに沖縄に行く予定。
11時に、次の勤務先へ打ち合わせに赴く。社長と、先日のSさんに会うが、前任者たる人が仕事で出かけているので、明日また訪問することにする。
June 10, 2003 =Tue=
夜、松戸の「ひよし」で久しぶりに浜野さんたちと会う。6時半頃に着いたらすでに皆揃っていた。日租研の事務局をやっていた浜野さんを中心としたグループは、昔、商社や銀行、メーカーの税務を担当していたメンバーが集まっているが、殆どが引退年齢を迎えている。浜野さん自身、日租研を辞めて以来個人で続けていた館山の障害者施設を今年はじめにたたみ、今は医学関係の翻訳の仕事をやっているとか。今日集まったのは、私以外は松戸周辺の人たちで、東レの鈴木さん、新日鉄を定年で辞めて税理士をしている山田さん、同業の三井物産を卒業し、子会社の役員も終えて今は地元流山市の歴史資料館友の会副会長だとか言っている伊藤さんと全員で5人。「ひよし」も久しぶりだが、焼酎で深酔いしたのも久しぶり。
June 9, 2003 =Mon=
今日から本館13階で仕事。と言ってもあと3週間ほどだが。荷物も少ないのですぐに片付く。
June 8, 2003 =Sun=
妻が朝から日帰りで関西へ。久しぶりに知人に会うので何かお土産をというので、昨日スポーツジムの帰りに小田急百貨店で花園饅頭の「ぬれ甘なっと」を5箱購入。仕事の書類と合わせかなりの荷物になるので、朝は東京駅まで荷物持ちで同行。
午後、ふと気がつくと床に点々と血の跡がある。調べてみるとどこで切ったのか左足の中指の先が切れて出血している。痛みはないが、黴菌が入ってもいけないので、スポーツジムは休みにして、家の片付けのあと、ホームページへのアクセスカウンター設置に専念。このページからcgiのスクリプトをダウンロードして設定を試みるが、なかなかうまく行かない。
June 6, 2003 =Fri=
今日は本格的に移転の準備。捨てるものはすべて捨てて、結局非常用のヘルメットも含めてダンボール箱3つに収まる。書類を詰め込んでしまえば後はやることもないので、5時半の終業と同時に10人余りで東京海上ビルの「白馬亭」へ。
今までは東京駅の丸の内南口から出て丸ビルを抜ければ目の前だが、月曜日からは少し歩くことになる。
June 5, 2003 =Thu=
今日の朝刊にこういう記事が出ている。町田市議をやっていた妻を焚きつけ、公会計改革の旗を振らせたのは1994年のこと。これに昨夜のまほさんをはじめとする丙午の若手政治家や妻の税理士仲間が集まって始めた改革運動が一定の役割を果たしたことは間違いない。ただ、ここまでくれば後は専門家の領域になるのだろう。
この週末にオフィスが別館から本館に移るので、引越しの準備を始める。といっても月末には退職するので、この際、今とりかかっている仕事以外の書類はどんどん捨てることにする。これまでは何となく捨て難かった書類も、辞めるとなれば思い切り整理できる。だが、それでもなお捨てるべきか迷うものもあるのは困ったもの。特に捨てられないのは、前に居た人が作った「システム監査基準」。精緻な構成で6分冊に製本されているが、今のシステムにはそのままでは使えない。自分で作ったものなら思い切り良く捨てるが、前の人が残したものは記録としてでも残してあげたい。さて、誰に押し付けるか。
June 4, 2003 =Wed=
夜の11時前にこの人が来訪。妻に資料を借りに来たのだが、男性と一緒だったので新しい彼氏ができたかと思ったら、妻子ある人でこの辺の夜道が危ないから送ってもらっただけとのこと。彼女も練馬区議に二度続けてトップ当選しながら、途中で辞めて立候補した一昨年の都議選に落選するなど、このところついてない。かつて華やかだった「丙午(ヒノエウマ)グループ」の若手政治家たち、彼ら彼女らが妻を強固に支援してくれていたのだが、最近はそれぞれ落選したり、逮捕されたり、役職を解任されたりと冴えない。みんなまだ30代で若いし、実力はあるのだから、いずれカムバックするだろうが、がんばってもらいたい。
June 3, 2003 =Tue=
昨日約束したSさんと、紹介者のS君を交え、会社の近くで一杯やりながら、今度移る会社のことをいろいろ教えて頂く。Sさんは今の会社の先輩でもあるのだが、会社の中で歩んできた道も、考え方も必ずしも同じではない。でも、その方が相互補完できていいのかも知れない。
June 2, 2003 =Mon=
大学の後輩で、昨年人材派遣会社に就職したY君と昼食。後輩と言っても38年の開きがある。大学時代のクラブ活動が同じESSだったことから、先日新宿で行ったクラブOBの東京地区新人歓迎会で顔をあわせ、たまたま彼の会社も丸の内で近いことから、先週も路上でばったり。こちらは人の顔を覚えるのが苦手なため、声をかけられても正直分からず、Y君から名乗られて「やあ、失礼」てなことになった。そのとき、近くだから一度食事でもということにしたのが今日実現したもの。
国際ビルB2の鰻屋に入り、食事の後、同じフロアにある大学のクラブをY君に紹介かたがたコーヒーを飲んでいると、思いがけず会社の同期ですでに退職したM君を見かける。彼はこの大学とは関係ないが、同じ会社のOBでこの大学の卒業生でもあるW氏がアレンジした会合が、たまたまこのクラブであったとのこと。
今の会社の一年先輩で、多分来月からお世話になるであろう会社にすでに何年か前から行っているSさんに電話し、明日の晩に一杯飲みながら同社の様子を聞かせてもらうことにした。
June 1, 2003 =Sun=
いつものようにスポーツジムへ行こうとエレベーターを降り、外へ出たらポツリと来た。また雨かと見上げれば空も暗く、本降りになるかなと傘を取りに上がると、たった10分の距離なのに、傘をさしてジムまで行くのがおっくうになる。そのため結局一日家に居ることになったが、何のことはない、夕方には雨も上がり青空が広がった。
万座毛より「象の鼻」を望む