Diary


December 31, 2003 =Wed=

朝早くホテルを出発、まずは船に乗って鍾乳洞見学。鍾乳洞自体はさほど珍しくもないが、そこは中国のことでスケールは大きい。何しろ、鍾乳洞の中を歩いてまわるだけでなく、ミニトレインに乗り、ボートに乗り、更には最後は一番底からエレベーターで地上に帰ってくる。鍾乳洞の中によくこんなものを作ったものだ。5年前に一般に開放されたとのことだが、見所の箇所はさまざまな色にライトアップされており、いかにも中国風というか、けばけばしい感じがしないでもない。

鍾乳洞の後は船を乗り換えて、今回のメインイベントである漓江下り。桂林の風景は小雨の天候が一番良いそうだが、今日は晴天。しかしピーカンの天気ではなく曇りがちで靄がかかっているため、完璧な墨絵の世界だ。いくら小雨が風景に合うといっても、やはり雨はごめんなので、この天気は最高と言えよう。だが、残念ながら季節が乾季のため、漓江の水が少なく、船でいけるところには限りがあるそうだ。船は一階が休憩室、二階が食堂、三階が展望デッキの三層になっている。漓江を少し下ったところで停泊し、ビュッフェスタイルの食事。それから少し進んだ後Uターンして元に戻る。本当ならこのまま陽朔まで下るのだが、水量が少なくてこれ以上進めない。事実、所々で浅瀬にぶつかり、船長以下乗組員が竹竿を使って人力で船を浅瀬から脱出させる光景が見られる。船着場に近づくと物売りの舟が寄ってくるほか、川中の砂州に物乞いの人たちが集まってくる。移動する船を追って長い棹の付いた網を差し出し、お金を求める。中には子供を連れた女性の姿も混じる。われわれの船は、ガイドから無用のトラブルを起こす恐れがあるととめられていたが、前を行く船からはいくばくかのお金を網に入れてやっていた。こういう生活を送っている子供たちは、将来どんな人間に成長し、どんな考えを持つのだろう。

陽朔にはバスで向う。途中、高田地区の風景を眺め、陽朔の洋人街を散策。洋人街は観光客向けの街だが、一歩裏に入れば結構土地の人たちの様子を垣間見ることが出来る。屋台のおばさんから、胡麻を使ったらしい異様な黒くどろどろした食べ物を買って食べる。角を曲がって奥に入ると、古い木造の建物の入り口で、老人が椅子に座って本を読んでいる。案外インテリナノかも知れない。

December 30, 2003 =Tue=


年末年始の出国ピークは少し過ぎたのだろうか、朝の成田空港は思ったほどの混雑ではなかった。近畿日本ツーリスト主催の「山紫水明の漓江下りと桂林・陽朔4日間」というツアー。日本からの添乗員を含め総勢36人というが、チェックインは各自バラバラなので、広州の白雲空港で初めて顔を合わせたメンバーは殆どが中高年。飛行機はJALと聞いていたが、実際はJASの運航であり、JAL、JASそれに中国南方航空3社のコードシェア便と言うややこしい便だった。

桂林から漓江を下ると言うので、なんとなく寒いイメージを持ったまま地図も確認していなかったが、広州の気温は22度という暖かさ。それもそのはず、機内の地図を見れば北回帰線よりも南で、もちろん沖縄より南。桂林でさえ沖縄よりも南にある。白雲空港は街中にあり、家々の並ぶ上を通って着陸するのは昔の香港に似ている。降り立つと椰子の並木やガジュマルの樹など、沖縄に似た感じ。到着後、すぐに孫文を記念した中山記念堂と、600年前の建物を博物館に使っている鎮海楼を訪れる。「日本の観光客はいつも広州を素通りして桂林に行ってしまう」と冗談交じりに拗ねてみせるバスガイドや、「広州では珠江を挟んで北側は金持ちの住むところ、南側は貧乏人の住むところ。私はもちろん南側に住んでいるが、来年は北側に引越ししたい」と笑わせる鎮海楼の案内人など、中国の人たちもサービス精神に富んでいる。

夕食のバン(サンズイに半)渓酒家は中庭に湖がある(池のことを大げさにいっているのかと思ったが、本当に湖と言える広さ)広大なレストラン。夕食後、夜の飛行機で桂林に移動となるが、飛行場で出発までかなり時間がある。国内線の飛行場の中には通常の店以外に、南国の果物を売っている店がやたらと目に付く。マンゴスチン、サクランボ、その他珍しい果物。広い中国で北国から来た旅人が買っていくのだろうか。

夜中の桂林は気温が10度弱と、さすがに広州よりは寒い。

December 28, 2003 =Sun=

NHKの衛星放送で、昨夜、石原裕次郎の「夜霧よ今夜もありがとう」をやっていた。今日も裕次郎特集をやっている。今年は裕次郎の十七回忌であり、今日が彼の誕生日に当たるので、その特集と言うことらしい。裕次郎のファンである妻に付き合って映画を観た。同名の歌は前から知っており、昔、夜に犬を散歩に連れて行って霧が出てくると何となくこの歌の歌詞を想いだしたものだ。しかし、裕次郎映画はいくつか観ているが、この映画を観るのは今回が初めて。

観始めてすぐ、あれっと思った。どこかで見たシーンの連続だ。すぐに「カサブランカ」だと気がつく。ネットで検索すると、「夜霧に〜」のあらすじとしてこう書いてある。

相良 徹(石原)は横浜でナイトクラブを経営するかたわら、密出国を助ける“逃がし屋”をやっていた。そうしたある日、四年前突然姿を消した恋人秋子(浅丘)が現れ、夫である東南アジア某国の革命指導者グエン(二谷)を密出国させて欲しいと頼む。警察の捜査が厳しくなる中、相良は秋子の申し出を承知する。グエンは相良と秋子の恋の再燃を見てとって、妻を残して一人で発とうとするが……。

ストーリーだけでなく、出てくるカット、カットが丸っきり「カサブランカ」の焼き直しだ。というよりこれはもうパロディと言ってよい。だが、しょせんパロディはオリジナルを超えることはない。1942年制作の「カサブランカ」と1967年の「夜霧よ〜」。25年前のほうが、まさに同時代を描いた映画であるだけに、筋書きも演技もしっかりしていることを印象付けられた。


December 27, 2003 =Sat=

29日の月曜を休みにするかわりに、今日の土曜日が出勤日という、なんともけち臭い制度のため、今日は今年最後の出勤日となる。朝のテレビニュースでは、未明に東京に初雪が降ったそうだ。19階の部屋から眺めた限りでは雪の痕跡は見られなかったが、テレビ画面では皇居の芝生が雪に覆われていた。そのため、今年初めてコートを着て出かける。

午前中に経営会議。午後1時から仕事納めの打ち上げ。だがまだ処理すべき仕事もあって、会社を出たのは3時半頃になる。会社を出る前に、3ヶ月ほど前に入社したばかりの女性が挨拶に来る。今日で会社を辞めるそうだ。30台半ばで、もとノースウェスト航空のスチュワーデス。先日の山中湖の研修で一緒だった。どういうわけか美容業界に転身したが、やはりこの会社には合わなかったのだろう。来年からはマニラで友達とやはり「美容関係の仕事をするという。Good luck!


December 26, 2003 =Fri=

朝方、西新宿の診療所に寄っていつも飲んでいる二種類の薬を4週間分処方して貰う。昼は交通会館屋上のスカイラウンジで部下たちと忘年ランチ。近くなのに行ったことのある人は誰も居らず、結構喜んでくれた。

短い通勤電車の中で少しずつ読み進めてきたマイケル・クライトンの”PREY"を、ようやく読了した。10月24日のDiaryで、前半の概要を書いたが、全部のあらすじを書くのは気が引けるので、読みたい方は本を買って読んでいただきたい。近未来SFエンターテインメントとして一級のものであることは間違いない。

余談だが、"PREY"の後半にこんな一節があった。

It turned out Vince had an ATV in the shed. I went to see him in the power unit to ask for the key.
"Don't need a key," he said. He was sitting on a couch, watching Who Wants to Be a Millionaire. I heard Regis say, "Final answer?"
I said, "What do you mean?"
"Key's in it, Vince said. "Always there."
"Wait a minute," I said. "You mean there was a vehicle in the shed with keys in it all the time?"
"Sure." On the TV, I heard, "For four thousand dollars, what is the name of the smallest state in Europe?"

主人公はネバダの砂漠の中の研究所の外で、謎の微粒子生命体と生死をかけた戦いの後、ようやく研究所の建物に帰り着く。自動車があればその中に逃げ込むことも出来たのだが、車にはすべて鍵がかかっていると聞かされていた。再び砂漠に出て行こうとして、車の持ち主に鍵を借りに行くと、キーはいつも車に付けっぱなしだといわれて憮然とする。だが、気になったのはこの会話の背後に流れるテレビのクイズ番組である。

本筋とは関係ないのだが、このクイズ番組は"Who Wants to Be a Millionaire" という。そして司会者が"Final answer?" と聞く。これは日本のテレビでやっている「クイズ$ミリオネア」と同じではないか。みのもんた(あんまり好きなタレントではないが)が回答者に「ファイナルアンサー?」と確認し、回答者が「ファイナルアンサー」というと答えが確定する。この、流行語にもなった「ファイナルアンサー」はみのもんたの独創と思っていたが、実はアメリカのテレビ番組の焼き写しだったのか。こうしたクイズ番組の構成にも著作権のようなものがあるのだろうか。これを模倣した番組を作る場合、どのくらいの権利料を払うのだろうか、などとつまらないことが気になってくる。


December 25, 2002 =Thu=

午後4時、前の会社から90年代初めに出向していた会社の後任者から電話。知り合いの画家の個展が銀座・松屋であり、いま、松屋の前にいるとのこと。早速合流して松屋7階の美術サロンへ。後任者は経理担当役員に、、プロパーの社員でむかし営業総括部次長だった男は営業本部長の常務取締役になっている。今の会社と規模は似たようなものだが、大企業の子会社だけに組織はしっかりしている。

宮本政子さんという画家のコレクションで、多くはニュージーランドで描いたということだ。しかし風景画ではなく、心象を描いたユニークな作風。正直言って自由になるお金が10万円もあれば買いたい絵があった。

夕刻は会社の忘年会。銀座一丁目の交差点を過ぎたところに高速道路が走っているが、その高速道路の下が細長い飲食街になっている。その一つ、ZEST CANTINAの2回を借り切っている。料理はメキシコ系らしい。7時過ぎに、さっき松屋で会った連中から電話がかかり、忘年会を抜けて彼らと交通会館地下の「西田」で合流。技術畑の懐かしい人も一緒だった。その後、銀座6丁目だか7丁目だかのバーに繰り出す。さっきの画家が来ているはずだというバーに行くと、本当に彼女が来ている。お客の一人がギターを抱えている。お客なのにピアノを弾いて他の客の伴奏をしている。名刺を貰うと「北区議会議員」とある。党派は書いていない。横に居たママさん風の人と話していると、ママさんは御歳80歳で、件の区議会議員は甥っ子だという。

後でネットで調べてみたら、この方は北区議会共産党議員団幹事長だった。それが何で銀座のバーでピアノやギターを弾いているのかは疑問。バーを出てもう一軒まわろうという連中とさよならして帰宅。さっきの店にかばんを忘れて来たことに気づく。この日記の文章を含め、いささか酩酊気味と言わざるを得ない。

妻は今夜は娘とバレーを見に行き、その後は某民主党代表の忘年会の二次会に参加するという。12時頃家に着いたがまだ帰っていない。


December 24, 2003 =Wed=

久し振りに会社に出たが、特に変わったことは何もない。昼に、前の会社を今月で退職するH氏の送別会を国際ビルの東京ファミリークラブで。いつもは同じグループの現役が退職者を送るのだが、現役は彼を含めて2人しかいないため、すでに退職したM氏や私にも声がかかった。あと、残る2人も来年2月に退職する。こうなると話題は失業保険や年金の受け取り方などに傾く。退職しても働く方は少数派になりそうだ。

クリスマスイブ。帰りに歩いてみた銀座本通りや新宿もいつもより人では多いようだ。景気は着実に回復しているらしいが、心なしかイブの浮ついた雰囲気はない。折りしも米国でBSE感染牛が見つかり、米国産牛肉が輸入禁止になった。これは景気回復には明らかにマイナス要因となるのだろう。

ところで、クリスマスのことを"X'mas"と書くのはどうしてだろう。ギリシャに住んだことのある者には簡単な質問だが、雑学として書き留めておく。

イエス・キリスト(Jesus Christ)の名は、ギリシャ語では"IHΣOYΣ XPIΣTOΣ"となる。"X"は"Ch"にあたる。ちなみに"P"は英語では"R"、"Σ"は"S"にあたる。従って"Christmas"を"X'mas"と書くのは、新約聖書の原文であるギリシャ語に忠実なのだ。

しかし、ギリシャ語の場合は英語の"Ch"よりもドイツ語の"Ch"に近く、「ハ」のような発音になる。ギリシャの現地法人にCharalampidisというシニア・スタッフがいたが、彼の名もギリシャ語ではXAPAΛAMΠIDHΣである。ハラランピディスと読むが、長くて呼びにくいので、われわれは「原さん」と呼んでいた。御茶ノ水にある東京復活大聖堂(いわゆるニコライ堂)は、ロシア領事館付司祭であるニコライによって日本にもたらされたハリストス正教会の聖堂だ。ギリシャからロシアに伝わった正教の流れだが、この「ハリストス」というのは"XRIΣTOΣ"をそのまま日本語読みしたものに違いない。ハリストス教会はなぜか東北や北海道に多いらしい。

カトリックの教会などでも、"XP"あるいは"XPI"という文字を図案化した記号がよく見られる。"IHΣ"という記号もそうだ。これらは先の"IHΣOYΣ XPIΣTOΣ"のそれぞれの最初の2〜3文字を取ったものだ。また、教会にはA・Ωという記号もよく見られる。これはキリスト自身が「私は始め(A=アルファ)であり終り(Ω=オメガ)である。」(ヨハネ黙示録第1章第8節)と言っていることから来る。


December 23, 2003 =Tue=

昨日から持ち帰った荷物の整理やら、留守中に来ていた郵便物や留守電への対応に追われていたが、休日の今日はいつものスポーツジムでクリスマスのイベントがあるので出かけてきた。普通は30分の水中エアロだが、特別プログラムはプールのレーンをもう一列増やして、10名のインストラクターによる1時間半ぶっ続けの番組。

この週末からはジムはプールの改装もあって休館となるから、ジムも今日が今年で最後だ。いつの間にか今年も終わってしまった。何か年の瀬という感じも湧かないが・・・


December 22, 2003 =Mon=

予定通り朝7時前に成田着。5日間、特に食あたりなどの問題はなかったが、最後になって妻は水か食べ物に当たったらしく、家までやっとの思いでたどり着いた。


December 21, 2003 =Sun=



ホテルは海に面しているのに、まだ一度もホテルのビーチには出かけていない。最終日の今日は、ホテルの出発が夕方5時半だが、レイト・チェックアウト可能なので出発までホテルで過ごす。幸い、バリに来て初めて陽が照った。それでもスコール交じりではあるが・・・来る途中、シンガポール空港で買った日焼け止めクリームを塗って海に出る。引き潮のせいもあるが、海は何処まで行っても膝くらいの深さしかなく、泳ぐと言うわけにはいかない。ビーチチェアに寝転んで、持ってきた逢坂剛の文庫本を読む。本当は4日ともこれがしたかったのだが。四時からはスパに行って、最初に貰っていたフットマッサージ30分の無料券を使う。ホテルの勘定は初日のエステ代がほとんど、スーさんとのツアーの精算などを含めても思ったほどお金は使っていなかった。


December 20, 2003 =Sat=

今日も曇り空に時々スコールが来るが、やはりバリに来て海に入らないでは話にもならないので、マリンスポーツをやってみる。スーさんに聞いてみると、昨日の「達人ツアー」とマリンスポーツ送迎をセットだと安くなるが、はじめにセットで申し込まないと割引にならないというので、会社に頼んで一緒に申し込んだことにしてもらう。バリ島は地図で見ると小さい島だが、実際に中を走ってみると結構大きい。島は逆三角形で、その下の角の先が対照的に小さい三角形の半島に繋がっている。つなぎ目のところが飛行場になる。泊まっているホテルは下の小さい三角形の右(東)がわにある。そこから北に向けて、さらに小さく半島が突き出している。その半島の先がマリンスポーツのメッカになっている。マリンスポーツといっても、われわれ年寄りに出来るのは、パラセーリング、バナナボート、体験ダイビングくらいなもの。メインがこの体験ダイビングで、以前グアムだかサイパンだかでやったのと同様に、ダイビングスポットまで船で行って、ウェットスーツに酸素ボンベを背負い、指導員が付いて10メートルくらいまで潜る。海上は時々スコールが降っているが、海の中は雨とは関係なしに熱帯の魚がこちらの手に持ったパン切れ目当てにたくさん集まってくる。

午後は島の西側にあるタナ・ロット寺院へ。海の中の小島に建てられたヒンヅー寺院で、この寺院自体には入れないが、夕日の名所になっている。あいにくの天候で夕日は見られなかったが、波に抉られた独特の景観だ。このコースは食事は付いていないので、帰りにスーさんと運転手を交え、飛行場近くのジンバランのシーフードレストランで夕食。椰子殻を燃やした火で魚や海老、貝などを焼き、ご飯とともに手で食べるのが結構おいしかった。米で作ったアラックという酒(バリ独特らしい)もなかなかいけた。


December 19, 2003 =Fri=

その次の日はガイドを頼んで一日観光。実は今回の旅行はMAP Toursという会社の主催だが、航空券とホテル、それに空港とホテルの往復送迎だけをセットにしたもので、航空券の引渡しも空港のカウンタで行い、個人旅行と変わりがない。団体での集合もないのでパックツアーのように見知らぬ人たちと一緒になることもない。シンガポールまでは日本人も多かったが、シンガポールからは日本人は数組しかおらず、殆どが欧米人で、この数組が同じツアーなのかなと思っていたが、デンパサール空港に迎えに来ていたガイドによると、同じツアーはわれわれ二人だけだった。そのガイドはHISの現地支店に所属しているが、なかなかよさそうな人物なので、案内を頼んだ。

一日観光は、HISのオプショナルツアーにある「バリ島達人ツアー」とか言うやつで、要するに一日でバリ島の主な観光地を一回りしようというコースだ。朝はまずバトゥブランに行ってバロンダンスを見、ゴヤガジャという11世紀に建てられたヒンヅー寺院を見てキンタマーニという湖と山を見渡すところで昼食、その後、芸術の町ウブドでネカ美術館を見て、再びバトゥブランで今度はケチャックダンスを見た後、ロブスターディナーで終わりという旅程。この間に土産物店がいくつか入っているらしいが、お土産は要らないと断ったため、ウブドで大分時間が余ってしまった。

ガイドのスーさんはウブドの郊外に住んでいるという。ガイドの傍ら、彼の身の上話も聞いた。ウブドの学校で日本語を習った。ホテルに5年ほど勤め、今のHISでガイドになった。3年前、リピーターのお客さんである関西の中年女性たち5人がスポンサーになって日本に招待された。スポンサーの一人のご主人が大阪の千里でレストランをやっており、その家に3ヶ月滞在してレストランで皿洗いやウェイターのアルバイトをやった。京都や奈良、神戸にも連れて行ってもらった。アルバイトで稼いだお金で、立て替えてもらった渡航費用を全額返そうとした。返さなくていいと言われたが半額だけは受け取ってもらった。帰りの飛行機の中でインドネシア語の片言を話す40歳くらいの日本女性と知り合った。ワタナベさんといって、やはりしょっちゅうバリに来ているという。スーさんが独身だと聞いて、行きつけのバリの日本料理店「桜島」にかわいい従業員がいるから紹介しようと言ってくれた。さっそく「桜島」に行くと、本当に若いバリ人の女の子が数人いた。一番おとなしそうな子が気に入った。実は、日本に行く前、4年間付き合った相手が居た。自分は結婚したら相手を大切にするが、相手にも自分を育ててくれた親を大事にして欲しいと思う。だが、その人はこういう気持ちを分かってくれなかったので別れた。もう自分も30歳だし、遊びで付き合うつもりはなく、最初から結婚を前提に交際した。相手は10歳下だった。やがて子供ができた。(本当はヒンヅーの教えではいけないのだけれど)ワタナベさんに相談したら、ちゃんと責任をとりなさいと叱られた。自分ももちろんそのつもりだった。自分の父親はなくなっているが、母や弟たちは賛成してくれた。だが、相手の両親は猛反対だった。殺してやるとまで言われた。理由は、自分はヒンヅーの制度で第四階級の出だが、相手は第三階級で、身分が違うことだった。でも子供が二人になった今は、相手の両親も分かってくれて仲良くやっている。結婚式は家で挙げた。ワタナベさんが日本から来てくれた。日本に招待してくれたスポンサーの人たちもわざわざ日本から来てくれた。家には妻と二歳半の長男、二ヶ月の次男、母、弟三人、なくなった父の姉がおり、9人家族だ。兄もいるが、この兄は博打好きでいつも母にお金をせびっている。そのため、土地を分けて独立してもらった。兄は女癖も悪く、兄嫁がかわいそうだ。自分は絶対にあのようなことはしない。家族がみんな仲良くしていると嬉しい。家は少しずつ建て増ししている。お金があれば煉瓦を買い、瓦を買う。それで少しずつ建てていく。家を建てるには、第一階級の人(僧侶)に見てもらい、どの方角にどのような建物を建てるかを決めてもらう。将来はゲストハウスを建てて、観光客相手の民宿をやりたい。田んぼもある。みんなで耕している。収穫は全部自分たちで食べる。市場で買う米よりも自分の田んぼで出来た米が好きだ。

というスーさんに、じゃあ、スーさんの家を見せてと頼む。本当は特定の観光客と親しくすると会社から怒られるのでと、会社の名前の入った車を表から見えない自宅の裏庭に停めて案内してくれる。思ったより広い敷地だ。9人家族のほかにも犬が3匹、鶏が何羽もいる。スーさんたち四人家族の建物、母親や叔母さんの建物、弟たちの建物などがあり建てかけのものもある。作業場や倉庫もある。一番良い位置にあるのが「お寺」だ。ヒンヅー教の寺院はもとろん独立した大きいのもあるが、ちょっとした家にはこのような家族の「お寺」もあるらしい。道路と反対側は原生林だが、この林もスーさん一家の土地だ。これを越えたところに田んぼがあるという。原生林に面して小奇麗な建物が3棟ほど建っている。ある日本人がスーさんの土地を借りて民宿を経営していると言う。その日本人はインドネシア女性と結婚していて、スーさんの長男と同じ年の子供がいる。女性と子供もスーさんの敷地内に住んでいる。スーさんの奥さんは道路に面した家の一部で簡単な飲食店をやっている。メニューは英語と日本語で、焼き飯、焼きそば、コカコーラなどと書いている。地元の人たちやウブドに住む日本人がお客さんだ。コカコーラ一本が日本円で30円弱。ヒンヅーの人たちはお寺やお地蔵さん(に似たもの)にお供えを捧げる習慣がある。自動車にも安全を願ってかお供えが置かれる。お供えは、椰子の葉で作った10センチ四方、深さ3センチ位の箱に、花や果物、菓子などを入れたもので、一つ30円程度。スーさんの母や叔母は、このお供えを作って市場で売っている。


December 18, 2003 =Thu=

翌日は朝から本降りなので、雨でもできるエステに挑戦。ホテル内にスパ(といっても温泉が湧いているわけではないが)施設があり、どうせ暇だからと4時間のコースを受ける。女性も男性も区別なくやるというので、妻と二人で受ける。要は、マッサージとボディ・スクラブ、それにネイルやペディキュアを組み合わせ、それにランチもセットになったメニューである。本当は朝10時位から始めて、ランチを間に挟むのだが、午後からにしたのでランチをディナーに、そしてネイルやペディキュアは勘弁してもらってヘア・トリートメントに変えさせた。今の会社でもエステに力を入れているのだが、エステってそもそもどんなものかよく分からなかった。初めて体験したのだが、まあこんなものかというだけの印象だ。夕食(本来は昼食)はスパの庭にある、天蓋をかけたオープンテラスで、ガウンのまま取るのだが、夜暗くなってからでは何か奇妙な感じだ。天蓋からたなびくカーテンに大きなトカゲが居て飛んでくる虫を捕らえては食べていた。

エステが始まるまでの時間に、歩いて15分ほどのショッピングセンターに行ってみる。とてつもなく広大なショッピングセンターだが、オフシーズンのせいか閉めている店も多い。


December 17, 2003 =Wed=

インドネシアはバリ島へ出かけた。季節外れなこの時期にバリ島へ行ったのには色んな事情があってのことだが、そこはここでは割愛する。本当は私も妻も忙しいのではあるが・・・

まあ、行くなら行くで、忙しいことは忘れて割り切って行こうと言うことにした。今はバリ島も雨季だし、昨年10月12日のテロ事件から一年余りということもあって空いている。事実、実質滞在した4日間のうちで、陽が照ったのは最後の一日だけ、それもスコールの間に日が射すといった程度で、後の3日は殆どが雨だった。そのため、余り日焼けもせず、黙っていればバリ島でのんびり過ごしたことは分からないで済む。

17日の朝早いシンガポール航空で成田を発ち、シンガポールでデンパサール行きのSQに乗り換え、ヌサ・ドゥアにあるメリア・バリというホテルに着いたのは夜の10時。ヌサ・ドゥア一帯はリゾートホテルが立ち並ぶ地域で、エリア全体が壁で囲まれ、地元の人も勝手に立ち入れないようになっている。それでもテロの名残なのか、ホテルの入り口では反射鏡を使って車の下に爆発物が隠されていないかチェックしている。去年、パキスタンに行った時と同じだ。パキスタンでは行く直前に予約していたホテルが爆破され、帰った直後には泊まっていたホテルの近くで爆発があったりで緊張感が高かったが、その点こちらは観光地であり、チェックも形式的だ。

バリとは関係ないが、飛行機の中で読んだFinancial Times(アジア版)でこんなコラム記事を見つけた。筆者はビジネス関係のコラムニストでFTのCo-Editorらしいが、有名なコラムニストが公衆の面前で恥をかいた場合、自らそれをネタにしてコラムを書くのが最善の対応という見本みたいなもの。


December 16, 2003 =Tue=

朝方、会社では会議だったのでネットを見る暇がなかったが、1時ごろに会議が終わり、日本税理士連合会のホームページを覗く。税理士試験の発表が今日なのだ。娘が去年までに5科目中4科目合格しており、今年受けた酒税に合格すれば全科目合格で、合格者名簿に掲載される。合格者名簿が載ったPDFファイルを開き、「受験地・東京」のところを探すが名前がない。がっかりしたが、旧姓、つまり私の名前で探していたことに気がついた。娘は嫁いでも自分の娘だからつい旧姓が意識に上るのだろう。それで現在の姓で検索をかけてみたが、やはり検索結果はゼロとの回答。そこでもう一度ひとつひとつ見ていくと、名前が見付かった。どうもAcrobatの検索機能は当てにならないらしい。さっそく妻に電話しようと携帯を見ると、逆に妻の方から娘の合格を伝える伝言が入っていた。そこで娘に電話しておめでとうを言うと、今、勤め先の税理士事務所のお客さんのところへ行った帰りで、ヒルトンホテルで一人でランチを食べているという。合格祝いのつもりかもしれないが、贅沢もいい加減にしろ。

先月、大学のクラブの同窓会を開催したが、その幹事団の会合が今日、新宿の東京住友クラブである・・・と思い込んで予定の6時半よりも大分遅れたが現地に着いた。住友ビル47階のクラブに行ったが誰も来ていない。おかしいなと思いながら、S商事の部長をやっているT君に電話を入れる。その前にも地下鉄の銀座駅や西新宿駅から少し遅れることを伝えようとして彼の携帯に電話したが繋がらず、今度は会社に電話すると彼が出てきた。会合の予定は来月の16日だと。この頃どうもこうした勘違いが多い。入ってくるメールが多いのでじっくり読んでいないせいだ。それに年齢のせいもあるのかもしれない。

妻も今晩は監事をやっている中央区ユネスコ設立準備会でユネスコ支部の設立が認められたとか。その会合に出るので遅くなる。それなら住友ビルに来ているんだしと、同じビルの地下にあるおなじみのスポーツジムに行った。会社帰りに寄るのは初めてだが、思ったよりも混んでいた。帰りに三井ビル地下のロイヤルホストで、マイケル・クライトンの"Prey"の最後の数ページを読みながら一人で夕食。娘はヒルトンなのに親はファミレスという格差は何なのだ?

明日から22日までバリ島へ旅行。ノートPCは持っていくが、これがまだWindows98とい代物。以前はダイアルアップでネット接続できたし、LANカードでも繋がったのだが、何度かやっているうちに設定がおかしくなったのか、ハードの方が原因なのか、ネットへの接続が困難になっている。そんなわけで、この間、多分このDiaryの更新はできないと思います。


December 14, 2003 =Sun=

サダム・フセインが捕まった。ブッシュ大統領の戦争終結宣言から半年以上も経っている。地下室から引きずり出されたそうだ。このニュースを聞いてすぐに想いだすのは、1989年12月の米軍パナマ侵攻に続く独裁者ノリエガ将軍の逮捕劇だ。12月20日のパナマ侵攻は米軍の圧倒的な軍事力のもとで1日か2日でパナマは制圧された。しかし米軍の狙ったノリエガ逮捕はできず、ノリエガは24日にバチカン大使館に亡命する。アメリカ国務省から派遣されている顔見知りが、大使館への説得の責任者としてノリエガ引渡し交渉に当たっていた。大使館は私の住んでいたアパートから歩いて5分くらいのところにあり、周辺は厳戒態勢が敷かれる。22日に日本に一時帰国する予定だった私は、飛行場の閉鎖で足止めを食らっていたが、30日にイースタン航空が侵攻後一番機を飛ばすというので、朝から行列に並び、厳重な検問を受けてマイアミに出発した。従ってその後の経緯は日本でテレビを見て知ったのだが、結局ノリエガは年明けの1月3日にバチカン大使館を出て投降する。米軍に逮捕されたノリエガは、囚人服を着せられ、数人番号を書いたプラカードを掲げた姿で新聞に登場した。

独裁政権とアメリカの経済制裁下の重苦しい雰囲気の中に居た私は、米軍侵攻によって開放感に浸った。ノリエガの潜伏中、残党狩りのため戦車が駐留するゴルフ場でプレーしたことがあるが、打ち上げでブラインドのショートホールで珍しくワンオンすると、グリーンの方で大勢の拍手が聞こえる。グリーン周りで休憩していた米軍兵士たちだった。照れながら片手を挙げて挨拶してグリーンに上がり、パターを構えた。相手がノリエガ配下のパナマ軍ではこういうわけにはいかない。侵攻前にストッキングを頭から被り、小銃を構えて住宅地を徘徊している民兵には恐怖を覚えたが、侵攻してきた米軍兵士から機関銃を突きつけられたときにはさほど恐怖はなかった。

しかし、それにもかかわらず、一国の事実上の支配者を、その国に軍隊を送って「逮捕」するアメリカ(当時の大統領はブッシュ父)の行動には疑問を感じざるを得なかった。善良で、無邪気に他国を踏みにじるアメリカ人。同じコーカシアンである独仏露ですら反発する論理に、異文化、異宗教の人たちが理解を示すとは思えない。今回のフセイン逮捕で調子に乗ると、碌なことは起きないだろう。


December 13, 2003 =Sat=

いつもは午後からでかけるスポーツクラブに、初めて午前中に行ってみた。土日の午後4時からやっているのと同じ水中エアロビクスのプログラムが、土曜は12時から、日曜は1時からもやっていると知ったからだ。土曜の午前は午後と比べるとやはり空いている。しかしその分年寄りの比率が高いようだ。


December 12,2003 =Fri=

前の会社の同僚で、現在は有名外食産業の監査役であるY君、元いた部で今も現役のN君と、新橋の焼き鳥屋「とり康」で一杯。お二人ともこのDiaryのprospective readerなので、会話の詳細は割愛する。というより、WEBに日記を公開すると言うのは、自分自身のprivacyは自分の判断で放棄することがあっても、他人のprivacyまで毀損する権利はないのだから、その辺は注意しているつもりだ。まあ、皆さんさまざまに苦労はされている様子。

今朝は9時に西新宿にある銀行とアポイントを取っていたのだが、10分ほど遅刻してしまった。家から歩いて20分くらいの距離だが、遅刻の理由は単に寝坊してしまったことだ。目覚まし代わりの携帯が鳴って、まだいいだろうと思ったのが間違いで、次に目を覚ましたのが8時20分。朝食抜きで飛び出したが間に合わなかった。実はこの間、短い時間だが妙な夢を見ていた。

なぜか腰にバスタオルを巻いただけの姿で、都会を流れる川のほとりに立っている。水質浄化運動の看板が立っているところを覗き込むと、以外に水が澄んでいて、底まで見える。寒い季節だが、流れに沿って浅瀬のところを歩いていく。やがて川から離れて貧しい長屋のような建物が並ぶところに出る。長屋の一軒で葬儀が行われているらしい。その家の前には、白黒の幕とともに、タコ糸のようなものが張り巡らされている。身体にまとわりつくタコ糸を潜り抜けると、質素な集会所のような建物がある。入ると顔見知りの人が椅子に座っている。もと、高級官僚だった人だ。長屋の葬儀に出席したところだという。扁平な風船のようなものを持っており、これが葬儀で会葬御礼に配られたらしい。誰の葬儀かと聞くと、福地桜痴のだという。風船を借りてよく見ると、なるほど風船には桜痴の名が書いてある。返すと彼はその風船を大事にしまう。・・・というところまでだった。

なぜ朝方にこんな変な夢を見たのだろう。第一、福地桜痴なんて、明治初期の作家らしいが、たしか昔読んだ小松左京か誰かの小説に名前が引用されていたことを覚えているだけ。どんな人か知るわけもないのに、そんな名前がどうして出てきたのか分からない。元高級官僚氏も、先日会合で会ったのは事実だが、こんなシチュエーションで登場されるいわれはない。フロイトの学説も否定されて久しく、夢に意味を求めるのは無意味かも知れないが、それにしてもどうなってるんだ??


December 11, 2003 =Thu=

夜の8時頃に自宅近くの事務所から帰ってきた妻が心配そうな顔をしている。麹町にある別の税理士事務所に勤めている娘と電話で長話をしていたら、突然電話が切れた。娘は事務所で一人で残業をしていると言う。折り返し電話を掛けなおすと、娘の携帯は留守電になっている。コールバックするよう留守電に入れて事務所を出て、買い物をして帰ってきたがまだ電話がかかってこない。娘は人妻とはいえまだ26歳。夜に一人で残業しているところを誰かに襲われたのではと想像が悪い方に傾く。家から携帯に掛けてもまだ留守電のまま。事務所の電話を調べて掛けてもベルが鳴るだけで誰も出てこない。電話が切れた後、すぐに事務所を出たとして、台場の家に帰り着く時間を見計らって家のほうに掛けても誰も出ない。心配しているうちに時計は11時を回る。携帯も、事務所も、家も相変わらず繋がらないので、このところ毎日12時くらいまで残業していると言う娘の夫に連絡しようかとしたところに娘から電話。

「何度も電話を貰ったらしいけど、何かあった?」という娘に、妻がぶち切れる。事情を聞いてみると、妻と話しているうちに携帯の電源が無くなったらしい。充電器は家に帰らないとないし、事務所の電話から掛け直そうにも電話帳は携帯の中に入っているので電源のない状態では番号も分からない。たいして大事な話があるわけでもないので114番で番号を調べるほどのこともないと、9時半頃まで残業を続けた。何度か事務所の電話が鳴ったが、こんな時間に掛かってくる電話に出るのもわずらわしいので無視した。家に帰ると、携帯を充電器に乗せ、風呂に入って本を読んでいた。(この娘はアトピー性皮膚炎の治療に温泉療法をやったことがあり、長風呂の癖がついている)その間、自宅の電話が鳴っても風呂場までは聞こえない。風呂から上がり、充電の終わった携帯を見ると親から何度も着信や留守電が入っている。何だろうと思って電話してみたという。

確かに、携帯と言う余りに便利なものが出来たのはいいが、これを忘れてきたり、電源がなくなって使えなくなると、公衆電話もかけられない。電話カードは財布に入っていても、番号は携帯にしか入っていないからだ。その点、妻の場合は、必要な番号を携帯に登録してやっても、その呼び出し方がいつまで経っても分からず、電話をかけるごとに分厚い手帳を取り出して手書きの電話帳を見て携帯をかけている。いざとなるとこっちの方が強いのかも知れない。


December 10, 2003 =Wed=

前の会社で一年次下だったO君から挨拶状を頂いた。無断ながら引用する。

拝啓
 2000年8月会社勤務を止め、アミロイドーシスと言う難病と付き合っています。この病気は、現在肝移植が唯一有効な治療手段と言う事で難病に指定されており、日常治療はお手上げの状況ですが、病状は少しづつ進行しています。
 従而、会合等にも出席せず、失礼ばかりしておりますが、更にその上、勝手ながら今後の年始のご挨拶を欠礼させて頂こうと考えております。
 こうする事で、覚悟を決めて難病君と向き合って行けるのではないか等と思ったりしています。
 年賀状こそ出しませんが、皆様方の日頃のご厚誼、これまでのご恩に対する感謝の念は決して忘れておりません。今後は、メール、TEL、FAX等利便性を増して行く通信手段を通じこれ迄以上のお付き合いができればと願っています。アミロイドーシスについて情報があれば是非お聞かせ下さい。皆様方のご健勝を心より祈念して居ります。
敬具


童顔だが大陸的な風貌で気骨のある人物だが、最近OB会などの会合でも見かけないと思っていたが、そんな難病とは知らなかった。というより、アミロイドーシスなどという病名自体が初耳だった。ネットで調べてみると、アミロイドーシスとは、「アミロイドと呼ばれる線維状の異常蛋白が体の中に沈着して個々の臓器の機能障害を来す疾患の総称であり、このアミロイド沈着が全身の多臓器に起る疾患を全身性アミロイドーシスと言います。」とあり、国内には数百名の患者さんがいると推定されているらしい。遺伝性のものと非遺伝性のものとがあり、遺伝性のものについては熊本県と長野県に集中しているという。

米国にはAmyloidosis Support Networkという組織もあるらしい。Amyloidosisという病名が使われだしたのは100年ほど前だが、症例は300年前から見られていたという。しかし、アミロイド蛋白質の構造が解明されるなど研究が進んだのはこの20年くらいのことで、現在は彼の言うように肝移植しか治療法法はないらしいが、この病気への関心が高まるにつれて研究も急速に進んでいるようだ。早く根本的な治療法が開発され、彼もその恩恵にあずかることを期待したい。


December 9, 2003 =Tue=

だいぶ寒くなってきた。通勤にはまだコートは着ていない。熱帯のパナマに4年いた割には寒さには強いほうで、これまでも何度か冬をコートなしで通したことがある。今年も、夜にどこかへ出かけるのでなければ、家から新宿駅まで、銀座駅から会社までと、それぞれ10分程度歩くだけだから、なしでも済ませられそうだが、やはり年をとって無理することもないのかも知れない。

日本政府がついに自衛隊のイラク派遣を閣議決定した。世論調査では国民の過半数が反対しているにもかかわらず。開戦時にいち早く米国支持を打ち出した政府としては後には引けなくなっているのだろう。イラクでの安全が確保されるかどうかが議論になっているが、そもそもこの戦争が正当なものかどうかをもっと議論すべきだと思う。

1989年の米軍パナマ侵攻はOperation Just Cause(正しい理由作戦)と名づけられていた。2年後の湾岸戦争はOperation Desert Storm(砂漠の嵐作戦)と呼ばれた。どちらもブッシュ(父)大統領の戦争だ。2001年の9.11事件の後、現在のブッシュ大統領がアル・カイダの掃討を目的にアフガニスタンに侵攻したのはOperation Enduring Freedom(不滅の自由作戦)だった。そして今のイラク戦争はOperation Iraqi Freedom(イラクの自由作戦)とされている。イラクによるクエート侵略に対抗した「砂漠の嵐」、9.11テロへの対抗である「不滅の自由」には正当性があった。しかし、パナマのノリエガ、イラクのフセインと言う独裁者の排除を狙った「正しい理由」「イラクの自由」作戦には他国への侵略を正当化するだけの大義がない。パナマでは麻薬取引とそれに伴うマネーロンダリング撲滅と言う理由の背後に。条約による運河返還後もパナマ運河への影響力を残したいアメリカの利権があった。同様にイラクでは、戦争の目的とされた大量破壊兵器は情報操作による部分が大きいことが証明されているし、また背後にはアメリカ石油資本によるイラク石油への利権がうごめいている。こうした利権と、ネオコンとの結びつきを象徴するのがチェイニー副大統領、ラムズフェルド国防長官といった人脈なのだろう。

今日の朝日新聞に、英国の「平易な英語を普及する協会」がラムズフェルド氏に「何を言っているのか分からない」賞を与えたというニュースが出ている。受賞の対象となったのは、イラクの大量破壊兵器の存在に関して昨年の記者会見での発言だという。ネットで調べてみると、賞を与えたのはPlain English Campaignという団体で、例えばAltzheimer Scotlandという団体が出している"Getting help from your doctor"という小冊子が、難しい専門用語を使わず、非常に分かりやすい言葉と文脈で、痴呆症の予防や治療方法を説明しているとして"Plain English Awardを与えている。「何を言っているのか分からない」賞というのは"Foot in mouth award"というもので、受賞理由となったラムズフェルド長官の言葉は、'Reports that say that something hasn't happened are always interesting to me, because as we know, there are known knowns; there are things we know we know. We also know there are known unknowns; that is to say we know there are some things we do not know. But there are also unknown unknowns ? the ones we don't know we don't know.' というもの。朝日新聞の部分訳では「我々が知っている、と我々が知っていることがある。知らない、と知られていることがあることも知っている。つまり、知らないことがあることを我々は知っている。知らない、ということを知らないこともある。」賞品は本当に口の中に足を突っ込まれて目を白黒させている人間の顔をかたどった像だ。イラク戦争開戦の理由もこれと同じようなものか。


December 7, 2003 =Sun=

先月の28日〜30日の京都・奈良旅行の間のDiaryをやっとアップした。お暇な方は一番下の「過去の日記」からNov. 2003をクリックしてください。

先週末は旅行のためスポーツジムに行けなかったが、今週は二日続いてジムに通った。そのせいか、旅行の後はリバウンドしかけていた体重も、今日風呂上りに量ったら65キロを割っていた。ジムのある西新宿の高層ビル街は、往きには欅の葉が顔に散りかかり、帰りは暗くなっているので並木の電飾が映え、ちょっと風情がある。


December 6, 2003 =Sat=

イラクで殺害された二人の外交官の合同葬が行われた。お二人の肩書きが、新聞によって「参事官・三等書記官」となっていたり、「大使・一等書記官」となっていたりする。亡くなったときの肩書きは前者だったが、公務災害と功績を勘案して二階級特進し、参事官は公使を飛び越えて大使に、三等書記官は文字通り二つ上の一等書記官に任じられたということらしい。しかし、いきなり大使と言われても親しい人たちには実感が湧かないのではないだろうか。

パナマに居たとき、当時の大使から聞いた話だが、大使と言うのは勅任官なので、皇居で天皇から直接任官される。その大使は昭和天皇から任官されたが、任官に当たって天皇は「重任ご苦労である。」と言う。一般の企業で「取締役の重任」と言えば再任を意味するが、ここでは「重大な任務」と言う意味だろう。言われた大使の方は「ははっ」と低頭するのだが、中には「どういたしまして。」と答えて後で注意される人もいるそうだ。

ついでに「大使」に関して聞いた話を書き留めておくと、外交官の間では「先任主義」というのがあるそうだ。各国大使を集めたパーティなどで席順を決める際、その国が重要視する国の大使を優先したりすると他の国からクレームが出たりするので、先に着任した順を守ると言う国際的な慣例がある。着任と言うのは相手国元首に信任状を奉呈したときを言う。したがって大使の交代が同日になったりすると、早く元首の元に駆けつけ、信任状を奉呈した方が上位になる。信任状の奉呈には馬車で行くことが普通だそうで(そういえば東京駅の丸の内中央口から皇居へ向けての「御幸通り」では時々交通規制された中を馬車が行く光景が今でも見られる。)、二台の馬車が競走することも出てくる。昔はこの競走がもとで、二つの国が戦争になったこともあるそうだ。

この先任主義が本当なのは、次の大使に代わった後だった。その頃には各商社の代表者も次々に交代し、私は最若年なのに在勤年数では最長(といっても4年程度だが)になっていた。そのため、大使公邸などで商社代表が招待される場合、大使からはいつも私が最上席を指定されるようになった。


December 5, 2003 =Fri=

住んでいるアパートの2階にはかなり広いロビーがあり、ここで朝日、毎日、読売、日経、東京の各紙が読める。だから家では新聞は朝刊しか取っておらず、夕刊は家に帰り着いた時にロビーで読むことにしている。今日の日経の夕刊には、1面から最終の24面までぶっ通しで銀座・並木通りのブランドショップの広告特集が出ていた。

正直言って、今年の7月に今の職場に来るまでは、近くに居ながら銀座には余り来ることがなかった。銀座に勤務するようになってから、昼食時や帰り道にぶらつける範囲でのみ銀座を探索している。今のところ会社のある2丁目が中心となるので、並木通りというのはプランタンの裏道という程度の認識しかなく、名前に似合わず並木も貧弱だ(だいたい銀座には木が少ない)と思っていた。しかしこの広告に書いてある地図を見ると、ブランドショップの並ぶ並木通りというのは、晴海通りを渡った5丁目から先を言うらしい。今度はそっちを探索してみよう。

今日、会社から出たときに気づいたのだが、出口を出たマロニエ通りの並木には、もうクリスマスの電飾が灯っていた。


December 4, 2003 =Thu=

夕方に新宿の銀行に寄る用事があったので早めに会社を出たため、久し振りに早い時間に帰宅した。そこでこのところずっと気になっていた作業を進めることが出来た。先月の15日に開催した大学のクラブの同窓会の写真をネットに公開する作業だ。やれば簡単な作業なのだが、かなり面倒だ。何とか完成してここに掲載した。

ビックカメラのポイントがだいぶ溜まっていたので、マイクロソフトから出たばかりの「Encarta総合大百科2004」を買う。以前2001年版を買ったときは5万円前後したと思うが、今回はこの値段で、かつ旧バージョンを持っていれば5000円のキャッシュバック付きという。昔のことだが、将来広い書斎でも持てば30冊くらいの「大百科事典」を並べてみたいものと漠然と思っていたことがある。それと同じどころか、さらに大きな内容が直径12センチメートルほどのDVD一枚に収まってしまうのだから、やはりITの進歩はすばらしいと実感する。何よりも値段だって10分の一以下で済むのだから。


December 3, 2003 =Wed=

先日、会社のインターネット接続がどうも具合が悪いと思っていたら、原因は端末のいくつかにBlasterと呼ばれるワームが入り込んでいたらしい。会社のネット管理は担当ではないので口出しは差し控えているが、ADSLで常時接続をしているのにウィルス対策はPC購入時に付いているアンチウィルスソフト期間限定版しかなく、期限内でもウィルスパターンのアップデートは殆どやっていないし、期間が来ても更新していないケースが多い。大体ウィルスへの関心がない人間ばかりなのに、自分のPCのウィルス対策を自分でやれと言っても無理な話。たまたま今日、ある事務機メーカーが売り込みに来たので聞いてみると、最近は企業内にサーバのようなものを置いて、これを専門の会社がリモートで管理し、ハッキングの監視やウィルスソフトの更新を行うと言うサービスがあるらしい。値段も安いので詳しい説明を頼むことにした。

大阪の母から電話。来月は父の3回忌になる。1月11日の日曜日に3回忌の法事を行うとのこと。先月末の旅行では近くまで行きながら顔を出さなかった負い目がある。今度は何を措いても行かなければ。


December 2, 2003 =Tue=

昔パリで愛し合ったイルザと、その夫でレジスタンスのリーダーであるラズロの乗ったリスボン行きのプロペラ機の出発を見送ったリックは、ラズロを追ってかけつけたドイツ将校シュトラサ大佐を射殺する。いつもドイツ将校にへつらっていた地元警察のルイ署長はリックにカサブランカから離れるよう協力を申し出る。"Louis, I think this is a biginning of our beauriful friendship." 有名なカサブランカのラストシーン。

これも当時のナチスドイツ側から見れば典型的なテロ行為と映っただろう。イラク北部のティクリート近郊で殺害された二人の日本人外交官は有能で人間性に溢れた優れた人たちだったらしい。だが、日本政府の誤った対米追従が、彼らを冷酷なシュトラサと同じ立場に追いやった。小泉首相は相変わらず「テロには屈しない」の繰り返しだが、イラクでの米軍や米軍協力者への攻撃がテロなのであれば、圧倒的な軍事力の前にとっくに制圧されていたはずだ。「テロ」側の攻撃がますます激しさを増す現状から見る限り、すでに一般のイラク人の支持を得たレジスタンスに変質しているのではないだろうか。もともとチェイニー副大統領をはじめとする米国の石油利権獲得を目指した侵略をいち早く支持した小泉首相の責任を追及し、米国には自らが招いた混乱と悲劇の責任を最後まで取らせるべきだと思う。


December 1, 2003 =Mon=

都営浅草線の高輪台駅を降りて白金の方向に10分くらい歩くと、左手に「高輪荘」とだけ小さな看板が出ている。通りから奥まった門には、夕暮れ時には読みにくいが「三菱電機高輪荘」とある。砂利を敷き詰めた小道を右手に入ると立派な玄関がある。登録文化財に指定されている木造二階建て。今夜の「松戸会」は三菱電機OBが幹事なので、この高輪荘で行われた。

執務時間終了前に会社を出たが、着いたのは定刻過ぎで、すでに主宰者の浜野さんが挨拶していた。今年初めに千葉・館山での身障者用宿泊施設経営から身を引き、現在はアルツハイマー関係の医学書の翻訳をやっているという。7月3日ののDiaryにも書いたが、ずいぶん長く続いている会だ。30人近く集まったが、不思議なことにドタキャンは一人もなし。珍しいのはこの会の主とも言える伊藤さんが欠席だったことだ。奥さんとシンガポールに行っているとのこと。

もと大蔵省の高官だったTさんを捕まえ、同い年のよしみでなぜ政界に出ないのかとくどく。官僚ながら気さくな人柄で、気概もあり、政治家にふさわしいと思うのだが、本人は政治家は妥協が必要だから嫌なのだ、と。沖縄開発庁の事務次官当時、後に逮捕される自民党幹部のSが長官になるというので、「あの男とは同じ空気を吸えない。」と言って辞めたのだという。こういう人こそ日本の将来のためには必要なのだろうと思うのだが。


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