September 30, 2004 =Thu=
午後一番に商工会議所で議員選挙の投票券の事前対照(投票券の裏面捺印等と票数の確認)があったので、昼過ぎからでかけ、久し振りに国際ビルの「凌霜クラブ」に行って昼食をとった。ボランティアで神戸大学東京事務所の仕事をしている植村君がいて、「神戸大学百年史展」のパンフレットをくれた。いつ、どこでやっているのかパンフレットには書いてない。確か100周年は過ぎたはずだがと思って
ホームページで調べてみると、「神戸大学百年記念館」というのがあって、そこで2年前jから常設展が開かれているそうだ。今年は卒業後40年にあたり、同期生が六甲に集まって催しをやることになっているが、どうも行けそうにない。
September 29, 2004 =Wed=
朝、山手線で大崎にまわり、A産業という会社を訪ねる。大崎で降りるのは初めてだが、なかなか立派な駅で周辺には新しいビルが聳えている。税理士会館もすぐそばだ。少し歩いて区立体育館を過ぎると町工場地帯に出る。訪ねる会社はそんな中に本社がある。資本金85百万円、従業員110人余りと中小企業だが、ここの社長さんは東京商工会議所の副会頭である。本来、東商は中小企業のための組織であるはずだが、実態的には大企業が主要ポストを占めている。しかしその中でも、こうした本当の中小企業がポストの一角を確保している。本社に入ろうとしてふと横を見ると、真向かいにT工業という看板がかかっている。娘婿が勤めている会社だ。彼はこの会社の創業者一族の出で、大学を出てすぐにこの会社に入った。本社は日本橋だし、主力工場は相模原の方だったと思うが、ここにあるのは倉庫だろうか。用事を終えた後、娘に電話すると、「そんなことよりたまにはご馳走してよ」だと。
先日、山陰へ行く飛行機の中で"Da Vinci Code"の最後の数ページを読み終えたので、今週からはグリシャムの"The
Last Juror"にかかる。暗号学などの難しい単語やフランス語などが混じる"Da
Vince Code"に比べると読みやすそうだ。
September 28, 2004 =Tue=
昨日は銀行のATMで週末や時間外に入金や記帳ができない不満を書いたが、先週申し込んでおいたインターネットバンキングが今日から使えるようになった。ネットを使い慣れているような顔をしているが、実はいままでインターネットバンキングは利用していなかったし、ネットショッピングもネット証券も利用したことがない。で、バンキングの方だが、試してみると案外使い勝手がよさそうだ。少なくとも記帳は24時間できるのが助かる。
妻は昨日から商工会議所のゴルフで蓼科に行っていた。昨日は東京も長野も雨だったので心配していたが、プレー日の今日は一日中さわやかな晴天だったそうだ。ブービー賞をもらったと言っていたので、彼女より成績の悪い人もいたらしい。何でも賞品はおおきなぬいぐるみで、後で宅配便で送ってくるとか。
September 27, 2004 =Mon=
今日発表された小泉改造内閣の顔ぶれは何となく華がない。これまでの小泉人事は意表をつくサプライズの中に大きな目玉商品があったが、今度の改造人事は目玉商品のないのがサプライズなのかも知れない。ただ、党人事は幹事長に意外なほど小物を持ってきたり、三役を郵政改革シフトで固めたり、落選中の山崎拓を首相補佐官に据えたりということで、いわば好き勝手なやり方。少なくとも派閥均衡とかの配慮は全くなく、派閥の領袖を無視したあたりは「自民党をぶっ壊す」という彼の原点に立っているようで、その辺は評価できる。
昔から銀行と近いところで仕事をしてきており、銀行員の苦労も間近に見てきているため、郵政対銀行という観点からは巨大化した官業による民業の圧迫に反感を感じている。特に顕著な例として挙げられるのは郵便振替という制度だ。妻が何度か選挙に出たので、政治資金や選挙資金の寄付を募ったことがある。その際、郵便振替の用紙を郵便局で印刷してもらい、パンフレットとともに支持者に送る。あるいは支持者がさらに第三者に送ってくれる。政策に賛同してくれた方から郵便振替で寄付をいただく。パンフレットには銀行口座も書いてあるので、そちらに振り込んでくれる人もいる。政治資金や選挙資金の寄付は、政治資金規正法、公職選挙法に基づいて収支報告書を選挙管理委員会に提出する必要がある。その際に、1件5万円超のものについては、寄付者の住所、氏名、職業を記載する必要がある。5万円以下であっても、租税特別措置法に基づく政治資金等の寄付金控除を受けるための証明書が必要な場合は、個別に記載しなければならない。このとき、銀行振り込みだと振込人の名前がカタカナで通帳に表示されるだけなので、正確な住所・氏名を調べるのが大変だ。しかし、郵便振替だと、振込人自身が書いた振込依頼書のコピーが郵送されてくるので、住所・氏名・電話番号が確実に分かるうえ、中には激励の言葉まで書いてくれる人もいる。
資金の透明性を高めるため、金額にかかわらずすべての寄付を報告することにしていたので、郵便振替は大いに助かった。しかも、手数料は1万円の場合で銀行が同行間で105円、他行で262円に対して郵便振替では70円(ATMを使えば60円)、5万円だと銀行が同行間210円、他行420円に対して郵便振替は120円(ATM110円)
手数料が安い上に、住所、氏名等が確実に分かる。絶対に郵便振替のほうが有利だ。だから通信販売などでは郵便振替の利用がどんどん増えている。だが、考えてみるとどうもおかしい。振込明細を郵送してくれるのはいいのだが、封書の郵便料金は80円。それがどうして振込みの手数料まで入れて70円で出来るのだろう。これは郵便と郵貯とを丼勘定にしているからではないのだろうか。郵便がもっと安いコストでできるのなら、一般の郵便料金も下げるべきだし、振込みに要するコストと郵送に要するコストとを明確に分けて、郵送については同じコストで銀行にも利用されるべきだろう。
と、ここまでは銀行の肩を持ってきたが、最近は銀行のサービス低下にうんざりしている。銀行が合併でメガバンク化し、リストラで支店の数をどんどん減らしてきている。その分、ATMで代替しているつもりなのだろうが、ATMは時間によって入金が出来なかったり、記帳が出来なかったりする。銀行に言わせると機械を稼動させること自体に莫大なコストが必要なのだと言うが、郵便局では日曜も入金、記帳ができる。官でやれることをなぜ民ではできないのか。手のひらの血管で本人確認をするシステムを開発するのもいいが、ATMで振込人の住所・氏名・電話・メッセージ等を相手に送るシステムくらい開発できないのだろうか。
September 26, 2004 =Sun=
フランソワーズ・サガンが亡くなった。1935年生まれだからもう69歳。1950年代から60年代前半にかけてのフランス、そこにはJ.P.サルトル、シモーヌ・ド・ボーボワール、アルベール・カミュ、ジャン・ジュネ、ポール・ニザンなどが活躍し、エディット・ピアフやジュリエット・グレコが歌い、映画ではロジェ・バディム、ルイ・マル、フランソワ・トリュフォー、ジャンヌ・モロー、フランソワーズ・アルヌール、ブリジット・バルドーなどがいた。(懐かしいので思い出した名前だけ書き連ねたが、まだまだいたはずだ。)あの頃に比べて、今のフランスはどうなってしまったのだろう。それにしても、ここに挙げた名前の中で、今も存命中なのは何人いるのだろうか。確かグレコとバルドーはまだ生きていたはずだが。サガンの"Bonjours
Tristesse"(悲しみよこんにちは)のセシル役でデビューしたジーン・セバーグはアメリカ人だが、彼女もかなり前に亡くなっている。
September 24, 2004 =Fri=

夜中にかなり雨が降ったが、朝になっても小雨が残っていた。境港の海産物センターが最初の行き先だが、途中、予定のコースを変えて「水木しげるロード」に寄ることになった。そう聞いて初めて気がついたのだが、乗っているバスにはゲゲゲの鬼太郎、ねずみ男、目玉おやじなど水木しげるの妖怪たちの絵が描かれている。そう思ってみると、バスのシートにも天井にも妖怪たちがいる。水木しげるのバスは観光バス、高速バス合わせて全国で10台だけであり、いずれもこのバス会社の所有だそうだ。水木しげるは今も健在で、故郷の鳥取でイベントがあると東京から出て来るそうだ。「水木しげるロード」は地元の商店街の歩道に30体ほどの妖怪のブロンズ像が飾ってあるのだが、みんな歩道のほうを向いているのでバスの中からではよく見えなかった。バスガイドが面白いことを言っていた。「よく幼稚園や保育園の遠足でこの水木しげるロードに来られるんですけれど、今の子供たちは水木しげるの漫画なんて知らないんですよね。」
バスは大山を一回りする形で岡山県に入り蒜山高原によるが、小雨の中なので高原センターというこれも土産物屋によっただけで再び北上。やがて白兎海岸を経て鳥取砂丘に着く。

まずここで昼食。今日はオプションの昼食を予約していたが、さすがに質量ともそれなりのもの。昼食後、各自二人乗りのリフトに乗って砂丘に向う。雨は上がっていた。リフトを降りたところで無料で長靴を貸してくれるが、革靴のまま砂丘に入る。リフト降り場からずっと向こうに馬の背になったところがあり、その先が海に続いている。雨で砂が固まっているので歩きやすい。途中から靴を脱いで裸足になった。日本の砂丘なんて小さな形だけのものだろうと想像していたが、過小評価していたからかかなり大きく感じた。昔、サウジアラビアのリヤド近郊で「赤い砂漠」というところに行ったことがある。これは本当の砂漠で、真っ赤な砂が風紋を描いていた。一緒に行った現地の駐在員と運転手以外、人もいなかった。赤い砂をビニール袋に詰めて持って帰った。それ以来、海辺に出かけると砂を持ち帰るくせがついた。パナマのコロナド海岸の砂鉄を含んだ真っ黒な砂。カリブ海の島の珊瑚が細かく砕けた真っ白な砂など。鳥取砂丘は砂自体が天然記念物だということだが、少しだけビニール袋に入れた。馬の背の頂上まで行くと向こうは日本海。曇っているせいか、打ち寄せる波も心なし荒い。山陰の海は穏やかな晴天より曇っているほうが似合うような気がする。
ツアーの最後は
浦富(うらどめ)海岸の遊覧船。オプションだが乗らなければ土産物屋で待っているくらいしかすることがないと言われ、仕方なく1000円払って参加したが、これは当たりだった。天候が不順なこともあって網代港から外に出るとかなりの大揺れになると船長が脅かす。確かに船は大きく前後左右に揺れる。そこへ船長が「こんな状況で言うのも何ですが、このあたりで水深は20bほどになります。」と追い討ちをかける。これもサービスの一つらしい。揺れも凄いが、このあたりの奇岩の風景も素晴らしい。「山陰の松島」と呼ばれるそうだが、残念ながらまだ松島には行ったことがない。松島よりもこちらのほうが男性的だという。リアス式海岸に沿って小さな岩山がいくつも海から突き出し、そこに松が生える。このあたりの海の透明度も高いらしいが、この日は波が高いため海底の土砂が巻き上げられて濁っていた。
September 23, 2004 =Thu=
朝、鳥取県と島根県の県境近くにある米子空港に着いたときは陽が射していた。しかし、山陰の天気は変りやすいとガイドが言っていた通り、午後からは雨になった。空港から乗った観光バスは松江に。自由散策と言うことで、松江城の五層の天守閣の最上部まで登り、松江市街を360度見渡した後、近くの小泉八雲記念館に行く。小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは、ここ松江に英語教師として赴任し、小泉セツと結婚した。彼の曾孫がこの記念館の顧問を務めているそうだ。彼の父はアイルランドの領主の血筋だが、母はギリシャ人で、彼自身イオニア海のレフカス島で生まれた。ギリシャのイオニア海側の島ではケルキラ島(別名コルフ島)が有名でわれわれも車で10時間くらいかけて行ったことがあるが、それよりかなり南にあるレフカス島は名前も知らなかった。彼が没したのは新宿の大久保あたりというから、彼の誕生地と逝去地ともに多少の縁があることになる。
松江を発って「島根ワイナリー」で昼食というスケジュールだが、オプションの昼食は予約していなかったので場内にある屋台か喫茶店で食べてくださいと言われ、屋台なるものに行ったがスナック程度でまともな食べ物はない。妻がこの地方の名物である蕎麦を食べたいというので、見るとプラスチックのケースに入った一杯150円のしかない。仕方なくそれを食べるが、味もそっけなく量も少ない。どうしようかとぶらぶら歩いていくお土産屋とワイン試飲場が一緒になったところがあり、ワインは10種類ほどが大きなガラスボウルに入っていて、小さなプラスチックコップで好きなように飲める。全種類飲んで気に入ったのをもう一杯やていると結構いける。お土産コーナーでは並べてある特産品にそれぞれ試食品が置いてあるので、これも順にやっていくとお腹も一杯になった。土産は何も買わなかったが・・
またバスで少しいくと出雲大社。最近発掘された古代の社の柱のレプリカが飾られている。三本が一組になり、これから推定すると古代の出雲大社は現在のものの倍近い高さがあったという。雨で旗は揚がっていなかったが、ここには大きな国旗掲揚台があり、高さ47b、国旗の大きさは畳75枚相当で重さは25Kg。この旗が、NHKテレビで放送終了後の画面に出てくるやつだそうだ。
最後が今日のハイライトである足立美術館。目玉はアメリカの日本庭園専門誌でナンバーワンの評価を得た庭園と横山大観のコレクション。とくに今は9月26日まで限定で

横山大観の『海山十題』の特別展をやっている。日本庭園の評価をアメリカの専門誌に頼るというのもよく分からない話だが、確かにここの庭園は一見に値する。創設者の足立全庚(1899-1990)は貧農の子として生まれたが若い頃から商才を発揮、やがて不動産に集中し、60歳を越えた頃から大阪で新幹線予定地を買い占めて財を成した。今の新大阪駅ももとは彼の土地だったそうだ。商売相手に損をさせないことを信念にして信用を得たと言うが、これは跡付けの美談だろう。新幹線予定地を買い占めるという手口は奇麗事だけではないはずだ。いずれにせよ彼は得た財を大観をはじめとする美術品の収集と美術館の造園につぎ込んだ。13000坪の庭園は原則として美術館の建物の中から鑑賞することになっているらしい。とくに美術館の窓を額縁や掛け軸に見立てて庭園を望む景色は美しい。遠くの山々を借景にしているが、かなり高い滝が見えたので喫茶室の女性に「あの滝は自然のもの?」と聞くと、「いえ、ポンプで揚げて循環させています」とのこと。順路に沿っていくと庭園を愛でたあと、美術館の展示室に続く。まずは前田青邨、川端龍子、速水御舟、榊原紫峰、上村松園などの作品が目を惹く。次いでいよいよ「海山十題」。この作品はいずれも1940年に描かれ、その年の4月に「海十題」が日本橋三越で、「山十題」が日本橋高島屋で、それぞれ展示即売された。1点2万5千円という当時としては破格の高額(現在価値で2億5千万円とされる)だが20点すべて完売し、売上合計50万円を大観は陸軍と海軍に半分ずつ寄贈、軍はこの資金で戦闘機「大観号」を建造したという。1940年はいわゆる「紀元2600年」にあたり、その記念事業だった。時代の風潮とはいえ大観はかなり軍国主義者だったらしい。20点のうち2点が長く行方不明だったが、近年発見されてこの美術館に収蔵されたことから、各地から「海山十題」20点を一堂に集めての展示を行ったもので、このような展覧会は今後当分は見られないだろう。最後の部屋には正面に大観の屏風絵の大作「紅葉」が置かれていたが、同じ部屋の隅に掛けられた小品で、中国の故事に題材をとったらしい単色の絵(川べりの奇妙な形の木が風に吹かれ、その横で犬が吼えている構図)に目を惹かれた。難しい題名だったので覚えていない。
バスガイドはまだ21歳だというが、結構話が上手く、いろんなことを教えてくれる。足立美術館は安来市にあるが、そこから宿に向う道は飯梨川と平行して走るが、川の反対側の集落は川面よりずっと低い位置にある。典型的な天井川だ。天井川になった理由は次のとおりだそうだ。飯梨川の上流が砂鉄の産地で、かつて出雲地方は日本でも有数の鉄器の産地だった。採れた砂鉄は「たたら」という炉で鋼にする。砂鉄は土砂に埋もれており、これを川の水で洗い流して純粋な砂鉄を取り出す。このため大量の土砂が川に流され、これが下流の川底に堆積して天井川を形成する。この地に伝わる「安来節」では「どじょう掬い」の踊りが有名だが、この「どうじょう掬い」の「どじょう」とは「泥鰌」のことではなく「土壌」である。土砂を笊で掬って砂鉄を採る動作を踊りにしたのが「どじょう掬い」なのだ。
泊まりは皆生温泉の「三井別館」。ガイドの説明によると、この地は昔、「海池」と書いて「かいけ」と読んだが、海中から温泉が発見されてから「皆生」と書いて同じ読みにしたそうだ。宿の料理はなかなか良かったが、部屋はかなり古い日本旅館風。温泉なのに風呂は男女別の大浴場が一つずつだけで露天風呂もない。まあ、東京・大阪を新幹線で往復するだけで3万円近くする時代に、飛行機の往復と一泊二食、観光もついて一人2万円という値段なのだから贅沢は言えない。
September 22, 2004 =Wed=
今日も暑い一日だったが、夜になって一時的に豪雨が降ったあと、急に涼しくなってきた。やはりもう秋なのだ。明日から一泊で皆生温泉と鳥取砂丘に行く。明日は朝6時半に羽田空港集合。早く寝なければ・・
September 21, 2004 =Tue=
9月も下旬に入ったと言うのにこの暑さは何だろう。一日の最高気温が30度を超える「真夏日」が、東京では今日で68日目となり最高記録を更新したそうだ。ところが、今朝のTBSのニュースショーに「お天気ホイホイ」というコーナーに出ている気象予報士のモリタさんが「68」と書いたフリップをひっくり返して、「大阪では昨日で真夏日の記録がこうなりました」と言っていた。「68」をひっくり返すと「89」となる。大阪の方が東京よりはるかに暑いのだ。先日の法事で大阪に行ったときも、確かに東京より暑いと感じた。だが、今日の昼過ぎに銀座通りを歩いた感覚では、夏の盛りよりも暑く感じた。東京も暑い。
このサイトのカウンターが4000に近づいてきた。キリ番をゲットされた方には豪華商品を差し上げる・・・ワケはないでしょう。
September 20, 2004 =Mon=
「敬老の日」で祝日。この頃は祝日も連休になるように曜日で決められるので何の祝日かよく分からないことが多い。そういえば一昨日見学したケアハウスでも敬老の日のための飾り付けがしてあった。ケアハウスと言えば、この前聞いた福祉関係のサイトを調べて、妹の家に近い交野市の施設を当たってもらっているのだが、その妹から電話が会った。昨日の朝は「いいところがあれば行くよ」と言っていた母が、また心変わりして「変りたくない」と言い出しているらしい。
前から見たいと思いながら機会を逸していたマイケル・ムーア監督の『華氏911』(Fahrenheit
9.11)を見に、新宿駅東口の新宿武蔵野館へ行った。朝、歌舞伎町のシネマジョイに電話すると、「『華氏911』は夜一回だけの上映です」とのこと。そこで武蔵野館に電話したら朝は10時40分が第一回というのでそちらにした。シネマジョイなら10分強でいけるのだが、武蔵野館だと20分近くかかる。いずれにせよ空いているはずだ。シネマジョイはこの前まで昼間もやっていたのに夜一回だけにしたのは客足が減ったからだろうし、なにしろ朝一番ならいつも空いている。ところが、武蔵野ビル3階の映画館に着いてみるとロビーが人で溢れている。切符を買うと、「一番前の方の席になりますがよろしいですか」と聞かれる。整理券を渡されて、順番が114番とある。映画館が3つあるので、3つ分の客が待っているのだろうと思ったら、ロビーの客はすべて『911』を見に来ているらしい。開演10分前に入場が始まり、整理券の順番に10人ずつ入場する。114番は一番最後の方で、入ったら最前列と二番目の列しか空いていなかった。2列目に座るが、あとから入ってきた人は立ち見になったらしい。
大統領選におけるフロリダでの投開票疑惑から始まる。200年の大統領選の勝敗を分けたフロリダ州で、ブッシュの弟が知事、ブッシュ選対の幹部が州の選挙管理責任者という配役での開票作業の疑惑は当時大きく報道されていたが、その前にアフリカ系米国人の投票が不当に制限されていたこと、米国下院の黒人議員たちがこれを糾弾するが上院が相手にしなかったことなどは知らなかった。大統領となったブッシュの支持率は下降線を辿り、彼自身嫌気がさしたか休暇ばかり取るようになる。そして2001年9月11日。その時の映像はなく、真っ暗な画面に音声のみがあの瞬間を伝える。まさにその瞬間、ブッシュは視察に訪れた小学校で子供たちの相手をしながら、耳打ちされた報道にどうしてよいのか分からないまま数分を過ごす。このときの映像。よくこんなビデオが残されていたものだ。ここから映画はブッシュ家とビン・ラディン家の親密な関係を暴きだす。ムーア監督の言わんとするのは、サウディ利権、ビン・ラディンとの関係を隠すために、ブッシュはアフガンに続き何も同時テロとは関係のないイラクを標的に据える。そこにはイラク特需に潤うハリバートン社の元CEO・チェイニー副大統領の存在もある。その一方で、大義のない戦争にしぶしぶ駆り出され、命を落とした青年の母の嘆き。上院議員の息子で、召集されイラクに派遣されたのは1名しかいない。戦争は常に上層部の利害で起こされ、貧しい家庭の若者が犠牲となる。そして戦場の地に生きる罪のない人たちも。
映画が終わり、新宿をすこしぶらついていつものスポーツジムへ。妻はこの日、スポーツ代わりに始めているフラメンコを習いに高円寺の小松原庸子舞踊団の教室へ行っている。そのあと、3時過ぎに新宿武蔵野館で『華氏911』を見たが立ち見だったそうだ。小田急ハルクのビックカメラ家庭用品売り場で待ち合わせ、壊れてしまった電気ポットを買ったついでに、同じ小田急ハルク8階のトラットリア・ブイトーニでイタリア料理の夕食。いつものサイゼとは値段もカロリー値も大幅高だが、今日は二人とも昼を抜いているのでまあたまにはいいだろう。お互いの敬老のために。
September 19, 2004 =Sun=
妹夫婦の車に乗って11時前に実家を出発。河内長野市にある弟の未亡人宅に12時前に到着。2000年に亡くなった弟には二人の息子がいたが、次男の方が弟の後を追うように二年前に急逝。28歳だった。弟は8月30日、甥は9月30日が命日。今日はその甥の3回忌だ。相模原にいる長男は今朝、車で着いた。未亡人の両親や親戚が7人ほど、こういう機会でないとなかなか顔をあわせない。現れたお坊さんの顔を見て、去年の一周忌と同じ人だと思い出した。八尾の実家に来るお坊さんは米国にも駐在したインテリ系だが、同じ浄土真宗でもこちらは体育会系という感じで、お経を読む声は大きいのだが一文字一文字をつっかえながら読んでいるような唱え方。あまりスムーズではないし、お経を終えた後は場をつなぐ話をするでもない。東京での法事のやり方がどうなのか知識に乏しいが、大阪での法事の場合、出席者がもってきたお供え物を人数分の袋に分けてみんなで持ち帰るという習慣があるらしい。みんなこれを見越して、分けやすい形のお供えを持ってくる。私も大きな袋をもらったが、東京までこれを持っていくのも大変なので、帰りの車で妹のところに持って帰ってもらうことにした。河内長野駅から南海電車で難波まで、そこから地下鉄で新大阪。東京に着いたのは7時前だった。
この前、妻が高松でお世話になったSさんから妻の携帯にメールが入っていて(妻もやっと携帯のメールを読むことはできるようになった)、大阪のMさんからこのサイトを教えてもらったとある。まあ、公開しているサイトだからその気になればアクセスはできるのだが、Mさん、どうしてここを見つけたの?
September 18, 2004 =Sat=
大阪に発つ前に、ネットで調べた堺市の「ケアハウスシャルム出屋敷」に電話して見学を頼んだ。新宿の税理士会の重鎮であるK氏が今度あきる野市にあるケアハウスに入ることになったという。K氏は妻の後援会長をやって頂いていた方で、今年75歳だが、先年奥様を亡くされてから一人暮らしで心身ともに弱くなっていた。二人の息子さんがそれぞれ税理士と医者で(わが家と似ている)仕事の方は税理士の息子が面倒を見、身体や介護の方は医者の息子がアレンジし、あきる野市のケアハウスもその息子さんが見つけてきたらしい。個室だし外出も自由と言うことで、大阪の母にもちょうどいいのではないかと思って同様の施設を探してみた。ネットで見つけたのは大阪では最初に書いた堺市のものと、もう一つ泉大津市のものと二つだけだった。堺市のは中央環状道路に面しており、八尾の実家からも車でなら近そうだし、設備もよさそうだ。電話で聞いてみると、今なら一部屋だけ空いているとのこと。東京駅から妹に電話し、母を車で連れて行ってもらうよう頼んだ。
新大阪の駅から妹に電話すると、すでに母と現地に向っているとのこと。こちらも直行する。新大阪駅から地下鉄御堂筋線一本で新金岡駅。35分。ホームページでは地下鉄の駅からタクシーで10分程度とあるが、地上に出たら道路は渋滞していてタクシーなど一台も通らない。仕方なく中央環状線の方向に歩いていくと、途中に大型ショッピングセンターがあり、ここに10台以上のタクシーが客待ちしている乗り場があった。ここにも地下鉄の出口があり、地下道で通じている。タクシーに乗るとやや渋滞気味で15分ほどかかる。ケアハウスに着くと母と妹はすでに到着していて、応接に通されていた。係りの人から説明を受け、見学させてもらう。建って4年目ということで新しく、食堂なども立派なもの。浴室も大・中・小とそろっている。個室は八畳大の洋間で、物入れ、ウォッシュレットのトイレ、IHヒーターのミニキチン、小型冷蔵庫などが付いており、部屋とトイレにはナースコールも設置されている。「私はまだそんなところには入らないよ」と言っていた母だが、見学した後は、「もう少し近ければ考えてもいいね」と変っていた。八尾からの中央環状は渋滞していてかなり時間がかかったらしい。まして交野市の妹のところからはかなり遠い。係りの人に聞いてみると、こういうケアハウス(「軽費老人ホーム」とも言うらしい)は大阪府下に数十ヶ所あるとのこと。ただ、自分のところのようにホームページを持っているのは少ないので、こうした福祉施設情報専門のサイトを教えてもらった。八尾か、交野でもう一度同じような施設を探してみることにした。
見学を終えて八尾駅前の西武百貨店に行き、明日の法事のお供え物を買った後、百貨店8階の中華料理店で3人で食事。八尾の実家の仏壇に供えようと、東京駅の名店街で父の好きだった「舟和」の芋羊羹を買ってきたのだが、何と八尾西武の地下の食品売り場で「舟和」の芋羊羹を売っていた。これだけは東京でしか買えない菓子だと思っていたのに・・・
September 17, 2004 =Fri=
今朝の日経新聞の「ドキュメント 東京三菱・UFJ」は力が入っていた。昨年10月、金融庁への一本の電話からUFJが内部資料を隠していることを掴んだ当局が、資料の隠された部屋を押さえるところから始まり、今年4月下旬に3月決算の見込みを下方修正したUFJに対して金融庁は検査結果を踏まえてさらに厳しい決算を要求。金融庁の強硬姿勢を汲み取った監査法人が決算承認の条件としてUFJ信託の売却を迫る。すでに水面下で住友信託と売却交渉を進めてきたUFJは3000億円でのUFJ信託売却を前倒しで公表する。身売りされるUFJ信託幹部の悔し涙を尻目に、信託トップの座を確保した住友信託の高橋社長は海外の機関投資家を訪問し、自信のほどを披露する。一方、ライバルの三菱信託・内海会長はUFJを奪還することを誓う。同じ5月下旬、頭取交代の挨拶に来たUFJ沖腹新頭取に東京三菱の三木社長は経営統合を打診するが、自力再建をめざすUFJはそっけなかった。しかし6月下旬、金融庁のさらなる指摘を受けたUFJトップは青ざめる。このままでは9月中間決算も巨額赤字となり自己資本8%割れは必至となる。7月5日沖原頭取は急遽東京三菱と秘密会談を持つ。翌6日、東京三菱首脳は経営企画部門の役職員に檄を飛ばす。「今日から休みは一日も取れないものと思え
!」ここから、東京三菱・UFJ経営統合の発表、UFJ信託を奪われた住友信託・高橋社長が三井住友・西川社長と組んでの交渉差し止め訴訟、東京地裁の差し止め命令、高裁での逆転、三井住友による敵対的買収表明へと進む。
UFJ信託に関しては「高橋・内海の最終戦争だ」との見出しもある。この内海暎郎氏は昔から知っている。90年代に出向していた会社で準メインが三菱信託の丸の内支店で、そこの支店長だった。前任のF支店長が常務に昇格し、その後任で来たのだが、当時から将来の社長候補と言われていた。わたしより一歳上のF氏が現役のまま急逝され、列席者が式場の周りを何重にも列を作る盛大な社葬が行われたが、焼香の際、主催者側として並んでいた内海氏が私を見つけ場を離れて声をかけてきた。そんな気配りも出来る人だ。後に副社長になったときも、三菱信託と担保問題でトラブルになっている知人のため、話を聞いてやってくれないかと頼んだら、快く担当部長を紹介してくれた。
今日の午後のニュースで、東京三菱FGはUFJ銀行に対して7000億円の優先株増資払い込みを完了したそうだ。三井住友によるTOBの先手を打ったもので、これでUFJ争奪戦は一応決着したと見ていいのだろう。その一方でプロ野球では今日行われた経営者側と選手会との交渉が決裂し、初めてのストが決行されることになった。決定権をオーナー会議とやらが持っているにもかかわらず、オーナーたちは密室協議しかやらず、使い走りの経営者と交渉に不慣れな選手会とで交渉させ、すでに2社も名乗りを上げている新規参入者にも何かと難癖をつける。銀行は金融庁という豪腕官庁によって透明性が高まったが、プロ野球は三周くらい遅れて走っているようだ。
明日からは甥の三周忌のため大阪に行く予定。
September 15, 2004 =Wed=
会社のEVPが東京商工会議所の議員に立候補するので、今朝は9時に商工会議所に行き、立候補届けを行った。これまで、妻の市会議員選挙や衆議院議員選挙で公職選挙法に基づく選挙の手続にはかなり慣れているが、この商工会議所議員選挙も普通の選挙と同じように届け出順というのが重要なのだそうだ。朝、9時までに届出に来た会社は、まず受付で到着順に番号札を受け取る。9時になると番号札順にクジを引いて、まず抽選の順番を決める。その上で、決まった抽選順にもう一度クジを引いて届出の順番を決める。この順番に選挙公報に名前が載せられることになる。公職選挙のときはクジは番号の付いた棒を引く形だったと思うが、今日のは商店街の大売出しのときにくじ引きをするのに使う「ガラガラポン」のやつだった。
選挙の届出が終わったあと、久し振りに丸の内を歩いてみた。この間まで建築中だった明治生命別館はもう完成していて、角にはティファニーの店が出ていた。仲通から丸ビルを通って、昨日オープンしたばかりの
丸の内OAZOへ行って見た。旧国鉄本社ビルや交通公社ビル、丸の内ホテルなどのあった場所を再開発したエリアだ。丸の内OAZOに入ると丸善の大きな店がある。エスカレータで4階まで行って見ると、さすが丸善だけあって洋書コーナーが充実しているようだ。今読んでいる"The Da Vince Code"がもうすぐ終わるので、次に何を読もうかと思って眺めたら、John Grishamの"The Last Juror"というのが平積みになっていたのでこれを買った。1,092円。この前読んだグリシャムは、"A Paited House"という本で、貧しい田舎町の綿畑で綿摘みをする少年と家族、そこへ手伝いにやってくるメキシコ人や季節労働者との交流を描いた話。これまでのグリシャムとは全く違うので、同名の別人の本かと思ったほどだが、グリシャム自身の子供の頃の生活を描いた作品らしい。今度のは題名から言っても元のグリシャムに戻った法律小説だろう。
パナマから帰って暫くして出向した会社が交通公社ビルにあった。出向中に蒲田に移転したのだが、交通公社ビルには3年ほど通っただろうか。交通公社ビルのあった辺りが「丸の内北口ビル」となっているようだ。以前は交通公社ビルと繋がっていた丸の内ホテルはどこへ行ったのかと探してみたが、ホテルのあった辺りには見当たらない。地図を見ると、もっと東京駅に近く、以前の国鉄本社ビルの交通公社ビル側にあたる場所に移っていた。というよりさっき東京駅からOAZOの商店街に入ってすぐ右手にホテルへの連絡口があった。線路に面した正面に回ってみると、ホテルはまだ開業していないが、受付の女性が二人いて、パンフレットを渡してくれた。「ここの社長は小林清さんでしょ?」と聞くと、「いえ、小林は会長です」とのこと。専修大学の校友会長である小林さんは、妻の選挙のときに応援してくれていた。亡くなった父も戦前この丸の内ホテルに勤務していたことがある。その時の社長も小林さんと言ったらしく、今の小林会長は息子さんなのかもしれない。一度、東京へ出てきたときに丸の内ホテルに泊まりたいというので部屋をとってやったことがある。もっとも父が勤務していた頃の丸の内ホテルは取り壊されたのよりももっと古いものだったらしく、隣の交通公社ビルに焼夷弾が落ちて、延焼を免れるためにみんなで消火に当たったとか言っていた。再開発で丸の内ホテルも取り壊しになると言ったら寂しがっていたが、新しく完成したホテルを見たらどのように思うだろうか。
September 13, 2004 =Mon=
Dick Cheney, President Bush and his
father are flying on Air Force One. Dick looks at Dubya, chuckles and says, "You
know, I could throw a $100.00 bill out the window right now and make one person
very happy."
Dubya shrugs his shoulders and says,
"Well, I could throw ten $10.00 bills out the window and make 10 people very
happy." George Bush Senior says, "Of course then, I could throw one-hundred
$1.00 bills out the window and make a hundred people very happy."
The pilot rolls her eyes, looks at all
of them and says, "I could throw all of you out the window and make the whole
country happy."
このジョークで、"Dubya"というのは現職アメリカ大統領 George W.
Bush のこと。この頃、彼のことを指すのにこの"Dubya"という名前が良く使われるが、その理由を調べてみるとおよそ次の通りらしい。
父・ブッシュは正式な名前を George Herbert Walker Bush というが、普通は George
Bush と書かれることが多い。息子の方は父と区別するため、George Walker Bush
つまり George W. Bush とミドルネームの"W"を副えて呼ばれる。これが最近では単に"W"と言えば息子の方のブッシュを意味することになってきた。ところでこの"W"(ダブリュー)を彼の出身地であるテキサス訛りで発音すると"Dubya"(ダビア)と聞こえるそうだ。
September 12, 2004 =Sun=
New York Timesのネット版を見ていたらこんな記事が。北朝鮮が核実験の準備を進めているという情報がホワイトハウスに届いたらしい。後でゆっくり読むためにこのサイトに取り込んでおくことにした。一方、北朝鮮北部で大きな爆発があり、きのこ雲が立ち上ったというニュースもある。このクレージーで少し滑稽味もある国を、ブッシュのようなのが「悪の枢軸」なんて扱うと、「それならやってやろうじゃないの」などととんでもないことになりかねない。
September 11, 2004 =Sat=
今日は土曜日だが朝から会社へ行き予算や決算の資料作りに追われた。次の土曜日が出勤日なのだが、甥の三回忌で大阪に行かなくてはならない。6時半頃まで仕事をして、帰ると今度は妻の事務所に行き、彼女の旅行中に済ますよう頼まれていた仕事にかかる。12時過ぎまでかかってやっと一応の目処をつけた。
今日は9.11の3周年になる。去年のこの日の
Diaryにも書いたが、あの事件にニアミスとまではいかなくとも、かなり近くで擦れ違った人間としてやはり忘れるわけにはいかない。あれから世界が変わったが、一番変ったのはアメリカだろう。「テロとの戦い」を大義名分にした超大国による力の押し付け。それに反発するアラブ民族との文化戦争。超大国を引っ張るのが知性に欠けた大統領では、アメリカだけの変質では済まない。4年前にゴアが勝っていたら、今頃世界はどうなっていたのだろう。時はアメリカ大統領選挙の時期。ABB Anyone but Bush.アメリカ人に残る良心に期待しよう。
September 10, 2004 =Fri=
今日から日曜まで、妻は
和田さんと四国へ出かけている。和田さんがM商事の社内TVキャスターをやっていたときに高松支店の広報担当だった女性を訪ねるのだそうだ。この人は今も高松支店に勤務している。M商事の人脈を大切にしている和田さんらしい。
A ceremony was held in the office. It was the one to hand over the summer
bonus by the boss to the managers. The amount was mere chicken feed. This
kind of ceremony is to create a charismatic atomosphere of the boss. During
the ceremony, the master gives such orders as "Stand up!", "Bow!"...I
dislike these orders because the attendants are all grown-ups, not schoolboys
or schoolgirls. Unfortunately today I was in a position to preside the
ceremony and to give those orders. Instead of giving orders, I solicited
"Would you kindly stand up???"
September 9, 2004 =Thu=
帰りの地下鉄や昼のドトールコーヒーなどで2-3ページずつ読み進めてきた"
Da Vince Code"もようやく終わりに差しかかってきたが、昨日か一昨日の新聞によると、この本、かなりメジャーなベストセラーになっているようだ。何ヶ国語にも翻訳され、パリやロンドンではこの本の舞台となった美術館や教会を訪ねる人が増え、観光客の数を数万の単位で押し上げているらしい。本を手にしていたり、持っていなくとも行く先々で興味を示す対象から、この本を読んできた観光客だということがすぐ分かるそうで、各地の案内人もこの本を読んでいないと話にならないから、みんな読んでいるとのこと。確かに、聖杯伝説から始まって、キリストが実はマグダラのマリアと夫婦であってその子孫も実在し、秘密を2000年守り続けた秘密結社が何時の日かこれを公にしようとするのを、新約聖書の虚構が暴かれるのを恐れるローマ法王庁が阻止しようとする、などという筋書きはとても面白い。映画化もきまっているようだ。
September 8, 2004 =Wed=
社長以下会社の「経営会議」メンバープラスアルファで築地の「
治作」で会食。昨年は11月だったが今年は少し早くなった。店側の配慮だろうか、宴の途中で「新内流し」が座敷に。出席メンバーはこの余興には余り興味がなさそうでゆっくりと話を聞く機会もなかったが、、この廃れ行く文化に擦れ違って少し後ろ髪を引かれた。昔なら「え〜お二階さんへ」と流しながら声をかけたのだろうが、今はそういう風景もなくなって、たまにこうしてお座敷に呼ばれるだけだそうだ。最近、津軽三味線がブームになっているので、そのうち新内にも光が当たってくるのではといっていたが、残念ながらそうした可能性は少なそうだ。正直言って4行の唄を10分くらいかけて歌うテンポにはついていけないが、これが日本の文化の一つであることは確かだろう。
September 7, 2004 =Tue=
妻が2時に銀座テアトルに芝居を見に行くというので、1時前に近くの「響」で昼食。ここは定食を頼むとカウンターの惣菜をビュッフェ形式で好きなだけ食べられるので人気がある。1時前というのは通常の昼休みが終わる時間なので食事を終えてレジに行く人で込み合っているが、そのあと交代にテーブルに着く客も列をなしている。こういう店は妻の好みに合いそうだと思ったら案の定、目を輝かし、夜の分まで食べようと張り切っている。これだから痩せないんだ。
今朝も関西で地震があったが、夜のテレビニュースを見ると関西では台風18号の被害もすごかったようだ。広島では瞬間最大風速が60.2メートルを記録したという。大阪の母に電話すると、風が強いので一日中外に出ていないという。地震が続いているので一人だと心細いと繰り返す。何とかしてやりたいが・・・
September 6, 2004 =Mon=
昨夜の夜行バスで神戸の母親を見舞いに行っていた妻が、夜になって帰ってきた。夜行バスは疲れるからよせと言っていたのだが、案の定バスでは眠れなかったようだ。私も2001年の暮れ、父の容態が悪くなったとの知らせを受けて、もう新幹線もない時間だったので新宿からキャンセル待ちの夜行バスで大阪に行ったことがあが一晩中眠れなかった。年が明けて1月に父は亡くなった。妻の母は神戸の老人施設にいるが、今日会ったところでは食べ物が気管に入り喉を詰まらせることが多く、そのために肺炎を起こしかけているという。手術をして胃に管を入れ、直接食べ物を流し込むようにするかどうかを決めなければならないらしい。妻の弟がタイで仕事をしており、来月には帰国するので、それまで決断を待ってもらうことにしたそうだ。
September 5, 2004 =Sun=
午後7時過ぎ、テレビに地震速報が流れた。奈良で震度5弱、大阪府で震度4とある。八尾の実家にいる母へ電話しても話中で繋がらない。妹のところと電話しているのかもしれないと思い、暫くしてかけなおしても話中。そんな長電話をする人ではないので、多分地震で電話が集中しているかもしれないと、携帯にかけて見ると「このエリアの電話は繋がりにくくなっています」とのメッセージ。妹のところも同様だった。しかし、やがて電話が繋がり、聞いてみると被害は何もないとのこと。だが、かなり長く揺れて、一人なので心細かったという。二階に妹の息子が住んでいるのだが、出かけていてまだ帰ってきていないらしい。それに先週の日曜日、洗濯物を干しているうちに気分が悪くなり、気がつくとトイレの前で横たわっていたということがあったらしい。気がついてから妹のところに電話し、駆けつけてきた妹が診療所に連れて行くと、血圧がかなり低くなっていたという。もともと高血圧で上が200もあり、血圧降下剤を処方してもらっているのだが、これが行き過ぎているのかもしれないと、降下剤の分量を下げることになった。
妻が夜行バスで出発した後の12時過ぎ、パソコンの前に座ったら何か頭がゆらゆらする。もしかしてこちらも地震?とリビングの額をみると確かに揺れている。風で揺れることはないので、ピクチャーレールから吊り下げているギリシャの銅板額は地震のバロメーターだ。テレビを見ると和歌山と三重で震度5弱という新しい地震のニュースをやっていた。そうすると相前後して関東でも地震があったということでこちらの地震も速報が出るかと思っていたが、いつまでたっても出てこない。どうやら和歌山の地震の余波だったようだ。今度は大阪の実家にはすぐに電話が繋がった。今度もかなりの揺れだった(やはり震度4)とのことで、まだ甥は帰ってこず、心細いと言っていた。
September 4, 2004 =Sat=
先日結婚したTさんから素晴らしいワインのセットが届く。お祝いのお返しとのこと。もうお返しは頂いているのだが、何よりの品なのでありがたく頂く。
午後から妻の事務所で仕事をして、夕方家に帰ろうとしたらものすごい豪雨になっていた。道路が水で溢れ、稲妻が光る。前線と上空の寒気が関東一帯に大雨をもたらせたらしい。そんな中、妻の母親が入居している神戸の老人ホームから、母親の体調が良くないとの電話が入る。月曜の午後に医者が来るというので、妻は明日の夜行バスで神戸に行くことになった。
September 3, 2004 =Fri=
今日は妻の友人の税理士である匹野房子さんが来訪。公認会計士の河村さんとパートナーシップを組んでいたが、税理士法改正に伴い税理士法人に改組。今や4拠点を持つ。経済力にすぐれた48歳の独身。最近のベストセラーで「負け犬の遠吠え」というのがあるよ、と嫌味をいってやったら、流石にこの本のことは知っていて、「そうよ、女はいくら美人で仕事が出来ても30過ぎて夫なし、子供なしでは負け犬なのよ。私は絶対結婚するわ」と。
I told my boss that I'm willing to quit my job because of the discrepancy
between the company culture and mine and asked him to find my successor.
September 2, 2004 =Thu=
昨夜、浅間山が噴火した。たいした被害はないようだが、異常気象といい防災の日にあわせたような噴火といい、何かが起きる前兆でなければよいが。昨夜はまた、ロシア南部でチェチェン独立派とみられる一団が学校を占拠し、生徒や父兄300人を人質にとったり、北京の日本人学校に脱北者29人が駆け込むなど、大きなニュースが相次いだ。ニュースを見ているうちにやらねばならない仕事を片付ける気がなくなり、週末に借りてきたビデオを見ることにした。メリナ・メルクーリ主演の"Never
on Sunday"「日曜はダメよ」
ハリウッド映画だが舞台はギリシャの港町ピレウス。ギリシャの男たちに君臨する娼婦にギリシャ衰退の鍵を見出し、彼女を教育して構成させようとする堅物のアメリカ人。陽気でいて物悲しいブズキ音楽やシルタキダンスをバックにコミカルタッチで描く人間模様。ピレウスを有名にしたギリシャ観光紹介映画ともいえる。1960年の映画だから、後にパパンドレウ政権下で文化相となるメリナ・メルクーリはこのときすでに37歳。娼婦役としてもかなり老けている感じがする。ピレウスのレストランに行くとギター引きが必ず演奏する主題歌もそうだが、映画の中に出てくるギリシャ語が懐かしい。
September 1, 2004 =Wed=
昨夜、NHKの「プロジェクトX」で東芝のワープロ開発の物語(多分、再放送)をやっていた。英語がアルファベット26文字で表されるのに対して日本語は50のひらがなと膨大な数の漢字とが必要である。これを黎明期のコンピュータでどう処理するかが課題となる。技術者たちは様々な苦労の末、「変換」という手法を開発するが、それでも数多くの同音異義語が変換効率の壁となる。この壁を学習機能という手法で乗り越えていく・・・。このワープロはまさにわれわれの時代に一から開発され、ブームとなり、やがてその役割を終えて消えていった。
1980年代にバーレーンにあった中東地域の監督場所を訪れたとき、そこに東芝の初期のワープロがあった。日本では当時、小型でかなり進歩したワープロが使われていたが、日本を遠く離れた地で出会ったワープロは、開発初期の段階でこれに興味を持った駐在員が導入し、その後余り使う人がいなかったらしい。当時それでも300万円くらいしたそうだ。試しに使ってみると、変換ボタンを押すと「ガチャン」と音がするような感じで漢字に変換された。数年後、パナマに赴任するときには携帯用のワープロが売り出されており、これを持っていった。携帯用といってもアタッシェケースくらいの大きさがあり、液晶画面の表示は4行か5行分だった。出張で帰国するともっと小型で液晶画面がもっと大きいのが売られていた。またそれを持ってパナマに帰った。このワープロは熱帯の地で随分活躍してくれたものだ。今や汎用性の高いパソコンで、昔のワープロ専用機に勝る使い勝手が実現しているが、専用ワープロの味も懐かしい。専用ワープロは役割を終えたが、その技術は現在のワープロソフトやノートパソコンに生かされている。
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