Diary



December 31, 2004 =Fri=

今日は4時過ぎの新幹線で大阪へ発つ。昨日は見事な晴天だったが、今日から明日の元日にかけては全国的に天気はよくないようだ。あれ・・・また雪だ。
      *   *   *

大晦日の雪が降りしきる中、新幹線が遅れることも考えて早めに家を出たが、新宿駅に着く頃には雪は霙から雨に変わっていた。新幹線も、横浜あたりで徐行運転をしたため数分の遅れが出たものの、ほぼ順調に到着。それでも近鉄に乗り換えて八尾駅に着いたのは8時前になっていた。駅に着いたとたん、河内音頭の賑やかな囃子が聞こえる。駅前に出てみると駅前広場に舞台がしつらえられ、男性歌手が唄っている。だが、大晦日の夜とあって、その前で踊っているのは多く見ても20人くらいに過ぎない。それを尻目にバスに乗り、降りた停留所近くのコンビニで自分用に芋焼酎を一本買って帰る。

28日に妹夫婦と下関にふぐを食べに行った母は、山口県に入ったあたりで気分が悪くなり、救急車で山口の病院に運ばれた。下関で一泊する予定をキャンセルし、そのまま大阪に帰ってきた。今朝まで妹夫婦が一緒に泊まっていてくれたそうだ。だが今は元気で頭もしっかりしている。裕のママから預かった件の写真を見せたが、案の定、この写真に父は写っていないし、上田さん以外に母の知っている顔はないという。父が生きていれば知った顔もあったかもしれないが。


December 30, 2004 =Thu=

ははは、まったく勘違いをしていた。スナック裕のママに電話して梅干と写真のお礼をいい、残念ながらあの写真に写っているのは私の父ではないと伝えた。ママいわくは、一番右でタバコを吸っているのがママの父上、上田虎三さんで、他の4人はホテルの従業員であり、この中に私の父もいるのではないかと思ったのだと。私はこの4人がママの兄弟たちだと思ったのだが、写真は昭和10年前後のもので、よく考えればママの兄弟たちはこの頃はまだ生まれてないか、せいぜい赤ん坊だったはずだ。4人も、十代かと思ったが、もう少し上の人もいるのかもしれない。まあ、いずれにせよ東洋ホテルの従業員なら母にみせてやれば知った人もいる可能性もある。

今日は一日年賀状の作成に費やした。自分のものはごく簡単に済ませたが、妻の方はパソコンが使えないのをいいことに全部こちらに押し付けてくるうえ、枚数もかなりある。それもいつも継続して出すのではなく、何かと理由をつけて、今年は出さない、今年は出すと気まぐれなのでやりにくい。おまけに、買った当初は最新機種だったEPSON PM-970Cのプリンタがかなりがたが来ていて、連続印刷を続けると印刷途中でストライキを起こす。葉書を半分呑み込んだまま、インクヘッドが動かなくなってしまうのだ。印刷途中の葉書を取り出し、コントロールパネルからジョブを取り消して、プリンタの電源をいったん落として、改めてさっき取り出した葉書を印刷にかける。すでに印刷された部分はダブって印刷されることになるのだが、気にしなければ分からない程度のプリントになる。これが10枚に一回程度起きるので目が離せない。


December 29, 2004 =Wed=

雪の舞う中を新宿駅まで出かけて、新幹線の切符を買ったあと、月末の支払いを済ませる。支払いは大部分ネットでOKなのだが、郵便局を指定されるケースも多く、この場合はまだ郵便局に行かなければならない。今日の初雪は平年より4日早いとのこと。天気予報では積もらないと言っていたが、牡丹雪ながら正午ごろにはかなり激しくなり、人や車の通らないところや植え込みなどにはうっすらと積もるほどだった。新幹線の切符を買ったのは31日に大阪へ行くため。2泊して2日に帰ってくる予定。年末年始で席をとるのは難しいかと思ったが、意外にすんなり予約できた。銀行も郵便局も空いていた。昨日で実質的に店じまいのところが多いのかもしれない。大阪の母に電話して、大晦日に行く旨伝えると、実は昨日妹たちと下関へ行ったのだが、途中で具合が悪くなり、救急車で山口の病院に運ばれて点滴を受けたとのこと。そのためそのまま引き返してきたらしい。やはり高齢だから、車での長旅も無理なのかもしれない。

押し詰まってではあるがやっと年賀状の作成を完了。いつも今年こそは早めに終わろうと思っていながら、どうしても年末ぎりぎりになってしまう。妻の方もまだほとんどできていない。こちらは私よりもずっと枚数も多いはずなのだが、時間切れであちこり不義理をすることになりそうだ。

スナック裕のママからクール宅急便が届いていた。中には紀州産の梅干と一緒に私宛と母宛の封書、それに昨日電話で行っていた写真が入っていた。セピア色に褪色した写真に写っているのは残念ながら父とはまったくの別人だった。昭和初期と思われるレストランのテーブルを囲んで、20代の蝶ネクタイを締めた男性と、10代の子供たちが四人、子供たちも二人は詰襟だが、二人はネクタイを締めている。背後の棚には洋酒瓶が並んでいる。もしかして東洋ホテルのラウンジなもかもしれない。タバコを吸っている20台の男性を父と思ったのだろうが、私と同様強度近視の父は若い頃から眼鏡をかけていた筈だ。子供たちはママの兄弟なのだろうか。明日にでもお礼かたがた電話して聞いてみよう。


December 28, 2004 =Tue=

今回の津波による死者は東南アジアやインド、アフリカなどで数万人に達するらしい。津波は英語でも"tsunami"という。形容詞は"tsunamic"だ。つまり日本語が語源になっている。津波が日本に多いことを示している。だが、津波の被害が多いのは日本だけではないらしく、米国もホノルルに"Pacific Tsunami Warning Center"というのがある。国連もハワイに"United Nations Tsunami Education Center"というのを置いている。1960年のチリ地震で1日後に津波が日本に到達し、死者142人という被害を受けたように、環太平洋地震帯の活動による津波で太平洋沿岸諸国は津波の怖さを知っている。従って津波の研究も進み、事前に警報を出すシステムも整っている。しかし、インド洋沿岸ではこれまで津波の被害は少なく、津波に対する認識は薄いようだ。NY Timesによれば、前記のPTWCでは「何かがインド洋をわたって動いていることは承知していた。しかし警告を伝えるシステムがなかった」と言っている。

会社は今日で仕事納め。昼過ぎから納会をやり、その後も片付け仕事を続けたが、4時ごろには退社。昼前にスナック裕のママから電話。「珍しい写真が見つかった。これ、多分お父さんだと思うので、大阪に送ってあげようと思うんだけど違うといけないから見てください。」とのこと。残念だけどこれから納会だから行けないというと、家に送ってくれるという。どんな写真なのだろう。スナック裕のママさんとの偶然の出会い(10月27日)は、私にとって今年のビッグサプライズだった。


December 27, 2004 =Mon=

昨日スマトラ島沖で発生した地震は、マグニチュード9.0という規模の大きさとともに、インド洋沿岸各地に大津波を波及させ、13,000人以上の死者を出した。日本人観光客にも多数の死者や行方不明者を出したらしい。今回被害を受けた観光地では、行ったことのあるのはマレーシアのペナン島くらいだが、タイのプーケット、インド洋に浮かぶモルディブ島などはいつか行こうと思っていたところだ。こうしたリゾートでは、体験ダイビングなどと称してボートで沖合いに出て潜水指導を受けたりするが、そんな最中に津波に襲われたらひとたまりもない。スリランカでは5メートルを超える高さの津波で海辺のホテルが倒壊した例もあるという。

今日は午後から社長と取引銀行3行に年末の挨拶に行く。その際、思いがけず古い友人の訃報を知らされた。東京三菱銀行の新宿法人営業部に行って、着任したばかりの営業部長と会った。彼は旧東京銀行出身で、外国勤務が長く、香港から帰ったばかりである。香港の前には1980年代にロンドンにもいたことがあるというので、もしかしてその頃のロンドン支店長はA君では?と聞いてみるとやはりそうだという。ところが彼は昨年亡くなったとのこと。心臓の持病があったらしい。A君は小学校の同級生だった。大阪・八尾市の山本小学校を卒業後、私は近くの八尾中学校から八尾高校へ進んだが、彼はいわゆる越境入学で大阪市内の中学・高校を経て京大に進学した。彼と再会したのは小学校卒業後40年以上を隔てて、彼が東京銀行の取締役新宿支店長として帰ってきた頃だった。当時、東京銀行は毎年一回、私の勤務先の属する企業グループの関係者を招待して麻布にある同行永坂荘というところでパーティを開いていた。関連会社の経理部長として出向していた私は、毎年そのパーティに招待されていたが、たしか1995年の春だと思う、招待客リストの中に私の名前を見つけたといって、遅れて出席した私を彼が出迎えてくれた。東京銀行が三菱銀行と合併したのはその翌年のことだ。東京三菱銀行では東銀出身者は冷遇されたと言われるが、彼は合併後も常務に昇役した。その後どうしたのかと思っていたが、銀行を辞めたあと、イオンクレジットサービスの会長をしていたという。

小学校の5年くらいだったろうか、担任の先生から命じられて私はいやいやながら生徒会の役員に立候補させられたことがある。今の小学校はどうか知らないが、当時は戦後民主主義を体験させる目的だか、生徒会の役員選挙でも立会演説会が行われた。演説の台本は先生が書いてくれたので、何をしゃべったのかまったく覚えていないが、演説の途中で「そうですね、A君」と聴衆の中の彼に呼びかける。演説に何か目立った特長を持たせようという先生の配慮である。これに対してA君が「そうだ、その通りだ」と叫ぶ。これも台本どおりだ。選挙結果はよく覚えていないが、役員に就いた覚えがないので、たぶんこの選挙には落選したらしい。後で先生の評価は、「君の演説よりA君の叫びの方が良かった。」

ネットでA君の名前を検索して、彼が亡くなったのは2003年3月15日だと分かった。


December 26, 2004 =Sun=

今年最後の日曜日。スポーツジムに行ったがいつもよりずっと空いていた。今年は日並びが悪いというか、年末年始の休みが少ないのだが、もう今から休みを取っている人たちも多いのだろうか。

何気なく付けていたテレビから思いがけない知識を得ることがある。BSジャパンで「美の巨人たち」という番組をやっていた。かなり前に放映した番組の再放送らしい。「世界を巡った危険な色」というタイトルで、プルシャンブルー(紺青)の色にまつわる話を紹介している。うかつながら私はいままで、プルシャンブルー(Prusian blue),をペルシャンブルー(Persian blue)と勘違いしていた。誰かに、「ペルシャ絨毯の美しさは青にある。これをペルシャンブルーと言うんだ」と聞かされたような記憶があり、「ペルシャンブルー」という言葉が刷り込まれていたらしい。ペルシャ絨毯なんて高価なものは縁がないし、多分、その青は素晴らしい色なのだろうと想像していた。しかし、ペルシャ絨毯には青も使われてはいるだろうが、必ずしも青だけとは限らない。本当にペルシャンブルーという色があるのかもしれないが、案外私にそういった人も実はプルシャンブルーを勘違いしていたのかもしれない。

ヨーロッパでは青色の絵の具はラピスラズリという一種の宝石を砕いて使っていたため、非常に高価だった。この宝石はアフガニスタンと南米チリでしか産出せず、ヨーロッパではアフガニスタン産のものを使っていたので、海を越えてきたという意味でウルトラマリンブルーと呼ばれていた。18世紀はじめ、ベルリンのある染色業者は、サボテンに寄生する虫を乾燥させ、その粉末にいくつかの薬品を加えて濃い赤の染料を作っていた。ところがある日、薬品の一つが足りなくなり、友人に借りにいった。友人から分けてもらった薬品は実は腐っていた。これを入れると赤になるはずの染料がなぜか青になった。こうして生まれたのがプロシャの青、つまりPrusian blueである。ラビスラズリを砕いたものの10分の一の値段でできるこの絵の具は一気にヨーロッパに広がった。この絵の具は日本にも渡来し、浮世絵師葛飾北斎の富嶽三十六景の空の色も南蛮渡来のプルシャンブルー(当時は「ヘロリン」と呼ばれた)で描かれた。北斎の浮世絵は明治以後ヨーロッパに伝わり、印象派に大きな影響を与えた。とくに北斎のペルシャンブルーに影響を受けたのがゴッホである。ルノワールはペルシャンブルーを評して「他の色と混ぜると他の色を食ってしまう危険な色」と言ったが、ゴッホはベルシャンブルーを好んで使った。ゴッホの青から影響を受けたのがパブロ・ピカソで、友人の自殺に衝撃を受けたピカソはプルシャンブルーを使った青一色の絵ばかりを描き、これが彼の「青の時代」と呼ばれる作品群となったという。


December 25, 2004 =Sat=

米国の世論形成に影響力を持つ人々からもっとも影響力のあるメディアと見られているのは"Foreign Affairs"誌だそうだ。そのサイトを覗いていると、こんな論文が目に留まったのでそっとコピーしておいた。まず、Summaryとして全体をこう要約している。

By losing the trust of the Iraqi people, the Bush administration has already lost the war. Moderate Iraqis can still win it, but only if they wean themselves from Washington and get support from elsewhere. To help them, the United States should reduce and ultimately eliminate its military presence, train Iraqis to beat the insurgency on their own, and rally Iran and European allies to the cause.

米国でもイラク戦争の開始が間違っていたと考える人たちが過半数を占めるに至ったそうだが、この論文でははっきりと、"The second administration of George W. Bush seems to be left with the choice between making things worse slowly or quickly".と断じている。そのブッシュ政権に無批判に追従し、国会での論議すら省略して自衛隊のイラク派遣延長を決めた国の首脳は、当の米国ですら沸き起こるこうした議論をどのように聞くのだろうか。


December 24, 2004 =Fri=

イブの銀座はかなりの人出だった。昼に行った銀座ワインハウスでも、今夜は予約で一杯だとのこと。クリスマスのイルミネーションもいつもよりきらびやかな気もする。そんな銀座を尻目に新宿の妻の事務所に直行して、頼まれていた仕事を片付ける。

9時ごろに妻から電話。風邪気味だといっていたので心配していたが、元気そうな声だ。今、神戸のホテルにチェックインしたところだという。入院している母親を見舞いに行ったのだ。昨夜は和田さんに誘われて吉祥寺で開かれた菅直人の忘年会に行き、帰ってきたのは午前1時前。それが今朝一番の新幹線で神戸に発った。病院のお医者さんとのアポイントが午前中なのだ。妻の母は気管が詰まって苦しそうだとのこと。今は比較的落ち着いているが、容態がどう転ぶか医者にも分からない。薬が効いて回復に向かうかも知れないが明日にも急変するかもしれない。といって、母は娘の顔も分からなくなっているらしいので、いつまでも傍にいても仕方なく、高校時代の友達に会ったり、ルミナリエを見に行ったりしていたそうだ。


December 23, 2004 =Thu=

こういう映画はあまり進んでは見に行かないのだが、たまたまチケットを2枚貰ったので妻と歌舞伎町の「トーワ」に出かけた。高村薫原作、平山秀章監督の「レディ・ジョーカー」高村薫がグリコ・森永事件にヒントを得て書いた小説の映画化である。映画は1947年の北海道から始まる。吹雪の夜、ビール会社を首になった兄がなにやら手紙を綴るのを少年の目が見つめている。兄は勤め先であった会社の「ヒノデビール」を愛していた。それから50数年の年月が経ち、東京で小さな薬屋を営む弟は病院で死の床にある兄を見舞う。兄はいまだに、「あのヒノデビールはうまかったな」とつぶやく。ある日、日本最大のビール会社であるヒノデビールの社長が誘拐される。社長は解放されるが、毒物を混入したビールがばら撒かれ、会社には「レディ・ジョーカー」を名乗る誘拐犯からの脅迫状が届く。

原作では上下二巻の大作であり、グリコ・森永事件のほかにキリンビールの総会屋利益提供事件なども織り交ぜているらしく、もともと二時間の映画に収めるにはかなり苦労した作品と思われる。その分、原作を読んでいない身としては、複雑な人間関係や動機付けなどに大いに想像を働かせないと理解できない。50年以上の時を経てなぜ復讐が行われなければならないのか、車椅子の少女がなぜ「レディ・ジョーカー」と呼ばれるのか、競馬場で知り合った5人の誘拐犯がなぜ協力し、どのように謀議をしたのか、大企業の社長が自分には責任のないはずの50年以上昔の被差別部落出身者への差別になぜ責任を感じるのか、など謎のままだ。大筋としては黒澤明監督の「天国と地獄」に似ているような気もするが、そちらの方はもっとストーリーが単純で分かりやすかった。

グリコ・森永事件と言えば、1984年3月に一連の事件の発端となった江崎グリコ社長誘拐事件が発生したが、被害者の社長は私と大学の同級生である。先日、新聞に彼の母親の訃報が出ていたが、「自宅は公表していない」と書かれていた。この辺にもいまだに事件の影響が残っているのだろう。だいたい、私の大学の同級生の名が新聞の一面に載るのは碌なケースではない。1995年6月にはやはり同級生のK君が函館行きの全日空機をハイジャックして捕まった。この事件では、彼が病気休職中であるにもかかわらず勤務先のT信託銀行から年間7百万円だかの年収を得ていたことから、銀行員の給与水準が高すぎるとして、その後の銀行バッシングの遠因ともなった。この事件では彼とは面識のない私にも週刊誌から電話取材があったが、実は私も全国紙の一面に名前を載せられたことがある。1988年12月の米軍パナマ侵攻に際して、当時、商社のパナマ法人社長を務めていた私にも国際電話での取材があったのである。同級生の名前がが新聞の一面に載るのは「事件の加害者となり、または被害者となり、または巻き込まれたとき」と冗談に言っていたが、1999年11月にはある大手鉄鋼メーカーの利益供与事件が発覚し、同社の専務をやっていたK君の名が新聞の一面に出るに及び、冗談では済まされなくなってしまった。

(昨日書いたモーレンカンプふゆこさんの特集を載せた朝日新聞日曜版は、ネットで調べてみると2002年1月20日付のものらしい。機会があれば図書館ででももう一度読んでみようと思う。ここに書いておけば忘れても大丈夫)


December 22, 2004 =Wed=

昨日のDiaryを書いていて思い出したことがある。父が朝日俳壇に投稿していた頃、毎週父の句が選ばれていないかと思って朝日新聞を見ていた。たまに片山春宵の名が載るとお祝いの電話を入れた。しかしその名前が載ることはめったになかった。朝日俳壇の隣には朝日歌壇の欄があった。十七文字に心象や風景を切り取る俳句よりも、三十一文字の短歌のほうが表現力が豊かな気がして、どうかすると歌壇の方を見ることも多かった。俵万智の軽い調子の現代短歌に、こういう世界もあるんだなと感心していた私は、朝日歌壇の中で一つの作品に出会って衝撃を受けた。

  ああ白夜腕に額伏し国恋へど日本を良しと思ふにあらず  モーレンカンプふゆこ

作者はこの朝日歌壇に当時よく見かけた名前だ。彼女の歌が四人の選者のうち同時に三人から選ばれたこともある常連だった。オランダに住む、オランダ人を夫に持つ日本の方だが、望郷の想いとは裏腹に、祖国に向けた複雑な視線。その背後あるずっしりと重い歴史を感じさせる、俵万智流では決して詠めない歌だ。当時でもかなりお歳の方だったのだろう。その後歌壇よりも俳壇に投句されることも多かったがやがてお名前を見る機会が少なくなっていった。どうされたのだろうかと思っていたら、2年ほどまえだったろうか、朝日新聞の日曜版だかに彼女の特集が掲載された。なぜかその時は忙しくて、記事をゆっくり読む時間がなかったのだが、モーレンカンプふゆこの名前を覚えている人は結構多いと見えて、彼女の息子が日本を訪れた際、その苗字を聞いて「もしかして短歌のモーレンカンプさんのご関係の方?」とよく聞かれたと書かれていた。父が亡くなって以来、朝日俳壇や歌壇を見ることもほとんどなくなったが、モーレンカンプさんはどうしておられるのだろうか。(まったく関係ないけれど、モーレンカンプというのは確か昆虫のクワガタの一種の名前だったと思う。)


December 21, 2004 =Tue=

アサヒ・コムに次のようなニュースが載っていた。

ホトトギス選者、稲畑廣太郎さんに 母汀子さんから交代

 日本最古で最大の俳句雑誌「ホトトギス」の中心となる「雑詠」欄の選者が、主宰者の稲畑汀子氏(73)から、長男で同誌編集長の廣太郎氏(47)に交代する。20日発行の05年1月号で汀子氏が明らかにした。1月20日締め切りの5月号分投句から廣太郎氏が担当する。

 1897年創刊の同誌は、翌年、汀子氏の祖父で俳人の高浜虚子に発行が受け継がれた。虚子は1908年に、読者からの投句を扱う「雑詠」欄を雑誌の中心に据え、約40年間選者を務めた。その後、選者は、虚子の長男・高浜年尾氏が26年間つとめ、77年にその次女の汀子氏が継いだ。同欄には、現在、毎号約3万の投句がある。

 汀子氏は降板の理由として、年尾氏とほぼ同年数、選者を務めたこと、来年4月号で創刊1300号を迎えること、などをあげている。

(12/21 08:07)


父がまだ存命の頃、私の弟が癌で亡くなった。葬儀の翌日が父の90回目の誕生日だった。東京での葬儀に大阪からは出席もかなわず、卒寿の祝いもしてやれなかった父を励まそうと、父の唯一の趣味である俳句を集めて句集を出すことを提案した。しかし、もう知り合いもほとんど亡くなっていて、句集を出しても差し上げる人は誰もいないとしり込みをした。それならば、本の形でなくてもインターネットに載せればお金もかからず立派な句集になるというと、インターネットなど触れたこともないのに父は興味を示した。大阪の家を訪れた私に、他人に見せるのは恥ずかしいといいながら、それまでに作った句を自分で選んで大学ノートに丁寧に書き付けたのを手渡した。句の数は600をはるかに超えていた。それをひとつひとつ画像ファイルにして作ったのがこのサイトである。しかしただ句を並べただけでは芸がない。父はよく朝日新聞の俳句欄に投稿していた。そこで父の句をよく選んで頂いたのが稲畑汀子さんである。俳誌「ホトトギス」を毎月購読もしていた。そこで私は、一面識もない稲畑汀子さんに手紙を出し、厚かましくも序文をお願いした。目に留めてもらえるかどうかも分からず、あまり期待もしていなかったのに、すぐに返事を頂き、快く序文を書いてくださった。父に見せると、「あの忙しい先生がよく書いてくれたな。」と驚いていた。サイトにアップし、中古のノートパソコンを買って父を訪れ、使い方を教えると、真剣な面持ちで画面を見つめ、文字の間違いなどを指摘した。私が父にした親孝行らしいことといえばこれ位だろう。

それから一年後に父は亡くなった。少ないとはいえ東京には親戚知人は残っているが、大阪では近隣の人たち以外に参列する人もなく、さびしい葬儀だった。葬儀の後始末も終えて、頂いた香典を父の愛読した「ホトトギス」誌に寄贈することにした。「ホトトギス」の事務所は旧丸ビルにあったのだが、そのときはすでに取り壊され、新しい丸ビルの建設工事が行われていた。事務所は丸の内一丁目の東京三菱銀行(旧東京銀行)ビルに移っていた。事務所を訪ねると、出てこられたのが稲畑廣太郎さんだった。廣太郎さんは「ホトトギス」の編集長をやっておられ、また、「ホトトギス」の中の「若水」というぺーじの選者でもあった。


December 20, 2004 =Mon=

妻の母親の状態が余りよくないらしい。阪神大震災のあと痴呆が進み、現在は神戸の老人施設にお世話になっているが、肺炎を起こして入院したという連絡が入った。ただ、一日を争うような状況ではないらしく、病院の先生と電話で話して、先生の都合のつく24日にアポイントをとったという。震災で半壊状態だった六甲の家も売却してしまっているので、新神戸駅近くのビジネスホテルを予約、ついでにルミナリエを見てくるとか。妻の母は1919年生まれだから今年で85歳。私の母は1913年生まれ。電話して妻の母のことを話したら、「私よりだいぶ若いのにね」91歳だが電話の声は元気そうだった。


December 18, 2004 =Sat=

今回のツアーはガイドも添乗員もなく、バスでホテルまで行き帰りも決められた時間にバスに乗って東京まで帰ってくるというもの。従って草津滞在中はまったく自由行動。「有名なところ」を求める妻としては、草津へ着たら写真でよく見る「湯もみ」体験を見逃せない。朝起きて浴衣のまま朝食をとりにメインダイニングに行くと、「浴衣はご遠慮いただいております。」夕食は浴衣でよくて朝食はダメとは・・そこで朝食を後回しにして先に大浴場へ。そして朝食の後、シャトルバスで湯畑。その湯畑のすぐ横に「熱の湯」という建物があり、200円の入場料を払う。正面に舞台があり、真ん中の湯槽を取り囲んで3方に観客席が設けられている。二階にも観客席がある。湯もみ踊りのときは正面の舞台と湯もみを行う湯槽を観客席から眺めることになるのだろう。湯槽の両側に5人ずつ別れて湯もみ板で湯をかき混ぜる。

湯畑から土産物屋が立ち並ぶ商店街を奥に進む。温泉まんじゅうや漬物、乾椎茸などの店が延々と続く。中にどういうわけかフラメンコ衣裳のようなものを売っている店もある。温泉まんじゅう屋はとくに客引き競争が激しいのか、歩いていると道の真ん中に饅頭を乗せたトレイを持った男性が道行く観光客に饅頭を配っている。その隣で女性がやはりトレイに乗せたお茶を配る。お茶は熱くてすぐには飲み干せないから、どうぞ店内でと店に呼び込む。もっとも温泉饅頭でも老舗らしい店では戸も閉めたままで、お客の方が戸を開けて入ってくるのを待っているように見えるところもある。商店街を抜けると、西の河原公園に入る。

一面石ころの世界にあちこちで湯煙が立つ風景は、確かに賽の河原伝説を思わせる。父母に先立った幼子たちが賽の河原に集まり、父母に会いたい一心で、「一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため」と石を積み上げて塔を造る。しかし鬼が現れて、積み方が悪いと壊してしまう。幼子たちは泣きながらまた石を積む。こうした暗い伝説は現代の観光地には受け入れられず、あえて「賽の河原」でなく「西の河原」と名付けたのだろう。公園を抜けたところに「西の河原露天風呂」がある。受付の人に聞くと草津町の町営とのこと。一人500円の入湯料を払って入るとこれが実に広大な露天風呂。落葉松林を背に広々とした自然の中の浴槽で湯の量も豊富だ。奥の方へ行くと浴槽の外の岩には雪も残っている。この露天風呂に入ると入らないとでは、草津温泉の印象もずいぶんと違ったことだろう。


December 17, 2004 =Fri=

どこかへ旅行しようというとき、妻の選択肢はきわめて明快だ。「有名なところ」有名なのにはそれだけの理由があるはずだ。それで外れても仕方がない。有名なところには死ぬまでにできるだけ行っておきたい、というもの。こちらのように、穴場狙いとか、他人の行かないところに行って見たいというような斜に構えたところは一切ない。というわけで先日は鳥取砂丘に行ったし、今回は草津温泉となった。温泉といえば「草津よいと〜こ〜」と唄われる草津温泉が一番有名と信じている。それにJTB主催の一泊食事つきで1万円を切るという格安ツアーときている。

朝8時50分集合といっても集合場所は都庁の駐車場で我が家から徒歩10分ちょっと。8時半に出て間に合う。前日に天気を調べておこうと思ったが、「草津って何県だったっけ」多分、栃木あたりだろうと見当をつけて調べてみると天気予報は晴れ。バスに乗ってからもらったチラシを見て「ああ、群馬県だったのか。」バスは関越自動車道から碓氷峠へ。珍しく運転席の後ろの一番前の座席が割り当てられる。信越本線横川駅の「峠の釜めし・おぎのや」で昼食。ここは日本最古の駅弁の釜めし。容器の釜は持ち帰りできるというが、もって帰る人はほとんどいない。ずっとむかし、母が旅行から帰ってきて大事そうに釜飯の釜を持ってきたことがあった。バスはそのまま軽井沢へ。何で群馬県へ行くのに軽井沢を通るんだ?と方向音痴はバスを乗り間違えたのかと不安になるが、やがて無事に草津に到着。宿泊は「ナウ・リゾートホテル」草津温泉の中心である湯畑(ゆばたけ)からは少しはなれており、シャトルバスが出ている。部屋はツインベッドに4畳半の和室がついている。「有名なところ」指向のため、まずは湯畑へ行ってみる。湯もみ踊りは今月25日からでまだ始まっていない。その代わり、湯もみの体験ショーが午前中にあるという。周囲には無料の温泉がいくつかあるが、無料の湯というと何となく清潔さに不安が感じられ、入浴はやめて熱帯園に足を伸ばす。この草津の町は、道路は温水を通した管が埋め込まれて溶雪しているが、周囲には昨日降ったという雪が残っている。もう夕方近くで気温は氷点下らしい。途中の店で干し柿を買う。

熱帯園は外見では小さなドームみたいなもので、入場料1000円は高いと思ったが、入ってみるとその先にさらに大きなドームがあり、温泉の熱を利用しているのだろう、熱帯の動植物をたくさん目にできる。動物はワニ、イグアナ、蛇などの爬虫類、両生類が多く、極彩色のインコたちが大声で騒いでいる。野生の豚が園内を歩き回っていたりする。インコの檻に入って掃除をしている若い女性に「どうしてインコはこんなに騒いでるの?」と聞くと「檻に入ってきた私を威嚇してるんです。」「あの硬い嘴で襲われることはないの?」「この檻のインコはあまり攻撃的ではないんですが、いつも緊張してます。」ドームの高い天井から何か水滴のようなものが落ちてくる。蒸気が露になって落ちてくるんだろうと思っていたら、上着に鳥の糞がついていた。

ホテルに戻り、夕食までの間、「竹久夢二展」というのがあったので覗いてみる。展覧会といっても夢二の木版画や夢二グッズを展示即売している常設の店だ。話し好きらしい店主が声をかけてきて夢二の薀蓄を語る。草津は夢二が詩人仲間と四人で逗留したゆかりの地だそうだ。夢二の愛した三人の女性が、たまき、彦乃、お葉。たまきは正式に妻として入籍し、長男を設けるが離婚。しかし離婚後も夢二とともに過ごし、次男、三男を生む。次の愛人、彦乃は良家の娘で周囲から夢二との交際を反対されるが、夢二がもっとも愛したのは彼女らしい。しかし彦乃は25歳で夭折する。三番目の女性がお葉。芸大のモデルをやっていた女性で、美人であるだけでなく性格もよかったらしい。伊藤晴雨や藤島武雄のヌードモデルもやっていたが、夢二と恋におちる。一子も設けるが3ヶ月で死別。写真で見ると、もっともはかなげに見えるのがお葉だが、彼女は夢二と別れたあと、医者と結婚し、1980年に75歳で亡くなるまで幸せな生活を送ったという。夢二の代表作「黒船屋」はあきらかにお葉がモデルだが、夢二作品の多くはたまきをイメージしている。だが、彼の作品に登場する女性たちは、愛した3人の女性のほか、母や姉たちのイメージを混ぜ合わせたものだそうだ。この店主、祖父が芸大(当時は東京美術学校)出の画家で、岡倉天心(覚三)、横山大観らと写った写真が会場に貼ってある。家にあった古い写真からネガ起こししたそうだ。しかしその息子は東京都の職員となり、孫である店主も都職員となったが、30過ぎて役人人生に見切りをつけてこの世界に移った。木版画の版元は日本橋呉服町(今は東日本橋)にある港屋で、夢二がお葉と出会ったのもこの港屋。だが、木版の世界も大変で、技術を継ぐ職人がいなくなっている。

夕食の後大浴場へ。露天風呂はさほど広くないが、二種類の湯がある。屋内の方は温泉と、真水の湯、泡風呂、打たせ湯、サウナ、水風呂など多彩だ。風呂の後、頼んであったマッサージを45分。その後もう一度入浴して就寝。


December 16, 2004 =Thu=

帰り道に博文堂書店に寄る。今読んでいるグレシャムの"The Last Juror"がもうすぐ終わりなので、洋書コーナーを覗くと"The Da Vinci Code"を書いたDan Brownの新作が3冊並んでいる。どれも”#1 New York Times Bestselling, Author of The Da Vinci Code"と書いてある。裏表紙の概要を読むと、どれも暗号解読に関連した、前作と同工異曲のようにも思える。一方、文庫本の平積みコーナーには講談社文庫から大江健三郎の近作が2冊出ている。エッセイ集の「言い難き嘆きもて」と講演集の「鎖国してはならない」奥付を見ると2冊とも2004年12月15日第一刷発行とある。昨日出たばかりの本だ。さて、何を買おうかと迷う。どれもそんなに高い本ではないのだが、まず読みきれるかどうか、それに本のスペースだ。本を買うと読み終わっても捨てる気にはなれないし、本棚のスペースは限られている。読みきれるかどうかというのは体力の問題でもある。読書体力というようなものがあるように思う。文字通りの体力的なものと精神的なものとが混在しているのだが、歳とともに読書体力も衰えてくるような気がしてならない。特に大江作品を読むにはかなりの読書体力が要る。最近、ネット上で「大江健三郎ファンクラブ」というのを見つけ、そのメーリングリストに登録したのだが、そこでやり取りされる比較的穏便なメッセージの交換にもなかなかついていけない。いろいろと迷った挙句、Dan Brownの"Digital Fortress"と大江健三郎の「鎖国してはならない」を購入。2冊で1692円。明日は会社を休んで草津へ一泊旅行。


December 15, 2004 =Wed=

朝から三越診療所で健康診断。今日は女性日なので早めに来て欲しいと言われていたので、8時40分に着いたが、もう20人くらいが待っていた。採血から始まって胸部レントゲン、腹部エコー、眼底撮影、視力、聴力、身長、体重、体脂肪、心電図等々順番に済ませ、最後は胃カメラ。11時半くらいに終わる。胃カメラの時の喉の麻酔が覚めたら食事をしてもいいということで、新宿郵便局向かいの「三国一」といううどん屋で「ほうとう」を注文。ほうとうの麺の歯ごたえがなく普通のうどんだったが、味はまずまず。ついでに新宿郵便局で年賀葉書を買う。だが、年賀状を書く時間はあるのだろうか。

昨日からコートを着ている。以前は冬中コートなしで過ごしたこともあったが、冬の最中には寒いよりもコートなしではみすぼらしくて格好がつかないということもある。


December 14, 2004 =Tue=

明日の健康診断に先立ち、昨日から3日間、肺癌診断用の痰と腸検査用の検便を取らなければならない。検便はともかくとして、痰なんてよほど風邪でもひかない限り出ない。診療所からもらった説明書では、大きく息を吸い込んで咳払いをして、喉にからまる痰を取りなさいというのだが、どうしても痰なんか出てこない。出にくいときは喉に湯気を当てたり、這い這いの姿勢をとってやってみろとあるが、いろいろ試しても出ないものは出ない。昨日の朝、前の晩遅かった妻は寝ていたのだが、一所懸命ゴホンゴホンとやった末、諦めて出勤した。夜になって妻と顔を合わせると、「風邪は大丈夫?」と聞いてくる。「風邪なんかひいてないけど」「でも朝ずいぶん咳をしてたんじゃない?ずっと心配してた」と。心配なら起きて来いよ。今朝も試したけど痰は出ない。無理して咳をしていたら、何となく本当に風邪をひいたような気分になってしまった。

朝から銀行に寄って、私募債関係の書類をやりとりする。その後、登記簿謄本や印鑑証明書をとりに久しぶりに九段の法務局に行く。法務局は麹町税務署と同じ第二合同庁舎にあるのだが、その隣にあった駐車場のところが塀に囲われ、工事が始まっている。ここには第三合同庁舎と千代田区役所が入るビルになるらしい。千代田区役所は道路を隔てた反対側にあるのだが、老朽化しているので移転することになる。調べてみると、この用地には竹平住宅という古い3階建てのアパートが4棟あったらしい。「竹平住宅」をネットで検索してみると、なんと1985年の参院建設委員会の議事録が出てきた。

○秦野章君 これは卑近な例なんだけれども、週刊誌か何かに大分前に出たのだけれども、九段の竹平住宅というのがあるのだよ、引揚者が入っておって。高速道路の下のところに古いアパートのようなものがあって、あれは半分以上入っていないのじゃない、がらがらじゃないのかな。あれは大蔵省が管理しているのだよ。ああいうものは入っていないのだよ、この中に。そういうことで、私は選定された部分が、民活をやればそれが有効に都市再開発に貢献するといったような、そういう角度で果たして十分にやれたのだろうかというちょっと疑問があるのだけれども、そのための参考として九段の竹平住宅四千平米ぐらいあるのだけれども、あれがずっと戦後、大都会の東京のど真ん中にバラックみたいなものがあるわけだ。国有地なんだよね。その経過はわかっていますか。

この、元警視総監であった参院議員の横柄な口調には驚くが、おそらく事前通告済の質問なのだろう、大蔵省の説明委員は次のように答えている。

○説明員(藤村英樹君) 先生ただいまお尋ねの竹平住宅でございますが、これは戦前の昭和九年に憲兵隊の官舎として建設されたものでございます。戦後、この住宅は進駐車に接収されまして、在日米軍施設の日本人従業員住宅ということで使用されてまいりましたが。三十年四月に返還された後も引き続きそのままの状態で従業員住宅として貸し付けを行ってきているところでございます。また同時に、千代田区の要請もございまして、海外からの引揚者を入居させるといったような経緯もございました。
 この住宅についてでございますが、御案内のとおり、三階建ての建物が現在四棟ございます。全部で百二十戸ほどの規模でございますが、三十五年の三月を最後に新規の入居は打ち切っておりまして、その後、建物の老朽化等に伴いまして逐次退居者があったということの結果、現在では、ただいま先生お話のあったとおり、これはちょうど半分ぐらいでございますが、六十世帯を対象といたしまして貸し付けを行っている状況でございます。

昭和9年(1934年)に建てられたアパートが戦争を経て50年以上残っていたわけだ。この当時はがら空きの幽霊屋敷みたいなものだったろうが、建った頃の憲兵隊の官舎は当時としては超近代的なアパートだったのだろう。もっと昔は江戸城内堀の清水門の前で、旗本屋敷があったらしい。

昨日の鳩森神社の富士塚にしても、このところ古いものに目が行くのは、やはり歳をとってきたせいか・・・


December 13, 2003 =Mon=

千駄ヶ谷の水町エム・アールクリニックというところで脳ドック。脳血管障害や脳梗塞の早期発見のための検査を受けた。妻が脳の検査をしろとうるさく言うのは、もう二年くらい前になるだろうか、娘の嫁ぎ先の父上が脳梗塞で倒れたことがあるからだ。東大工学部の教授である彼は、私より5歳くらい若いのだが、金沢で講演を済ませ、感謝状を受け取るときに倒れた。医療工学が専門であるだけに、そのとき、これは血管が切れたか詰まったなと思ったそうだ。ところが講演会の聴衆は皆、脳神経科などの専門医だったため、直ちに的確な処置が施され、しばらく金沢の病院に入院した後、東京医大病院に移り、リハビリの結果、ほとんど後遺症のない状態に回復した。だが、われわれの場合はそんなにうまくいくとは限らないので、今のうちにきっちり検査を受けておけというもの。

いつもいく新宿の三越診療所で健康診断をするのだが、脳検査の設備はないので、このクリニックを紹介してくれた。千駄ヶ谷の駅を降りて5分ほど歩くと、鳩森八幡神社がある。都会にしてはかなり広い敷地だ。クリニックは道路に面しているが、その建物は神社の敷地に建っているらしい。少し早く着いたので、神社の境内を散歩してみた。境内には異様な小山がある。富士塚というらしく、頂上付近は富士山から持ってきた溶岩が積み上げられ、頂には溶岩を刳り抜いた中に祠が祀ってある。後で調べたことだが、江戸時代には富士山信仰が盛んで、富士山にお参りする富士講がたくさんあったが、当時は富士山に登るのは大変な労力が必要であったため、あちこちに小さな富士山を造ったらしい。これが各地の神社に残る富士塚で、今でも都内に100を超える富士塚があるらしい。

もうひとつ、この神社には「将棋堂」という六角形の建物がある。1986年に大山康晴名人が1.2メートルの欅製の大駒を寄進したのを機に、日本将棋連盟と神社が協力してこの建物を建立した。屋根には将棋盤の足を象った飾りがついている。この将棋盤の足はくちなし(梔子)の実をかたどったもので、「助言無用」という将棋の精神を表しているとか。将棋堂には棋力向上を願う絵馬がいくつもかかっている。大山名人がなぜこの神社に大駒を奉納したのかというと、道路を挟んで向かいに将棋会館があるかららしい。

こんな道草を食ってクリニックに行く。町医者といった感じのクリニックだが、GE製のMRシステムを備えている。眼鏡や時計、ベルトなど金属製のものはすべて外した上で、ベッドに横たわる。音が大きいからと耳栓を入れる。ベッドが持ち上がり、体がベッドごとMRの機械の中に入っていく。コンコンというような音に続いて、ガーッというような音が数分続く。これを繰り返して15分くらいで終了。これだけで21,000円かかる。

夜は大学の同期会。12回生なので毎月12日が例会なのだが、今月は忘年会を兼ねて丸の内の「響」で。サントリーの子会社、ダイナックの経営するチェーン店で、同社会長のI氏のアレンジ。残念ながら常任幹事のY氏がご母堂の逝去で欠席だった。こうした会では日本ペンクラブ会員であるU氏が同窓会誌に会合報告を寄稿するのだが、今日は彼も欠席のため、報告者のお鉢がこっちに回ってきた。

December 12, 2004 =Sun=

ビックカメラに行き、昨日見ておいたDVDレコーダを買う。昨日はソニーのを薦められたのだが、1000円高いだけでBSチューナー内蔵の三菱のがお買い得と言うことでそちらにした。DVR-HE650という機種で、ハードディスクは160GBと比較的シンプルなモデル。そんなに録画する番組が多いとは思えないし、使い勝手が簡単な方がいい。メカには比較的強い方と自負しているが、この頃のこの種の機器はどうも手に余ることが多い。現に夜になって「戦場のピアニスト」の映画を見終わってから接続作業を始めたが、なかなかやっかいだ。

その「戦場のピアニスト」昨年公開のポーランド・フランス合作で自らもゲットー暮らしの体験を持つポランスキー監督作品。ナチ支配のポーランドを生き延びた実在の人物ウワディスワフ・シュピルマンの回想録に基づく映画で、原題は"Pianist"ドイツ兵がユダヤ人をいとも簡単に殺していく場面が衝撃だが、戦争とはまさにこのようなもの。南京虐殺事件が架空のでっちあげと主張して憚らない連中の薄っぺらさが実感される。戦火のワルシャワをユダヤ人の身でありながら芸術家仲間に助けられながら生き延び、最後はドイツ将校の中にもいた音楽愛好家により命を拾う。逆に敗戦で捕虜になったそのドイツ将校が、主人公の友人を通じて助けを求めるが、救いの手を差し伸べることなく将校は捕虜収容所で死ぬ。フィクションなら助けてもらった恩返しに将校を助け出すのだろうが、実話だとそうそううまく事は運ばない。他にもフィクションの論理性と現実の非論理性を感じさせられる場面があるが、あえて論理を追求せずに現実の流れを忠実になぞったということだろう。


December 11, 2004 =Sat=

今日は結果的に一日遊んで過ごした。まず、娘から電話。「ノエルを見に来ない?」先日買ったばかりのポメラニアンを見に来いという。今日、午前中、夫はTOEFLの試験で家にいないそうだ。娘からこういう電話があると、その日の仕事の予定もかまわず、ついほいほいと出かけてしまう。大久保から総武線に乗り市谷で降りて、五番町の娘のアパートまでドアツードアで30分。生まれたばかりでまだ小さいせいもあってとてもかわいい犬だ。こちらにもすぐになついて、尻尾を振ったり手を舐めたりする。われわれも町田にいた頃、息子も娘も幼かった頃に、犬を飼ったことがある。妻の顧問先から仔犬の時にもらった犬で、柴犬とマルチーズの合いの子だった。毛の色が茶色だったのでチャロと名づけた。14歳まで生きた。人間で言えば80歳近くにあたる。チャロに比べてこのノエル君(チャロもノエルも男性)、純血の血統書付だ。娘の家に入ると床暖房がついているので、こんなに暖かいのにというと、「ノエルのためにつけてる」まだ骨も細いので、「膝から飛び降りて骨折しないように気をつけて」、と注意される。昼近くになったので、夫婦のj時間を邪魔しないように引き揚げるが、市谷駅に歩いていくと試験を終えて帰ってきた娘の夫とばったり出会う。ノエルについて彼いわく、「僕としては、冬のボーナスでクリスマスプレゼントのつもりなんですが、彼女からは『自分が欲しくて買ったんじゃないの?』と言われていて、まだ結論が出てないんです。」

帰りは代々木で降りて東急ハンズと大塚家具で壁面収納家具を見る。新宿の大塚家具は初めて行ったが、大きなスペースと独特の接客システムを持っている。妻は二度目の来訪だが、受付で自宅の電話番号を告げると、待合所に案内されてお茶が出る。やがて前に担当した店員が出てきて目的のフロアに案内する。サンプルを見せてもらい、こちらのプランをファックスで送って見積もりを出してもらうことにする。大塚家具を出て、「お昼どうする?」「朝が遅かったからお腹空いてない」などと言いつつ、新宿駅の東口から西口へのガード下を渡ると、思い出横丁の角にオープンしたばかりの回転寿司を発見。小さな店で入り口には二三人が並んで順番を待っている。開店記念で生ビールが105円とか、寿司も一皿105円からとサービスしている。こういうのを見ると黙って通り過ぎることのできないのが妻だ。行列に並んで席にありつくと、ほんの少しつまむつもりが結構食べてしまった。

その後がいつものスポーツジム。非会員の妻も年内有効の回数券を買っているので、これを消化しなければと同行する。しかし、食べたばかりで、しかもビールも飲んでいるので、すぐに運動するのは結構きつい。本当は体にも良くないのかもしれないが、一通りいつもどおりのメニューをこなす。

終わるともう6時過ぎ。今度は夕食の時間だと、妻は持ってきた新聞折込を広げる。アイランドタワーにしゃぶしゃぶの店があるというので行ってみると、「食べ放題」の店。スポーツジムで風呂に入ってきたばかりで鍋物も暑いし、ましてや食べ放題というほどお腹も空いてない。他にないかとアイランドタワー地下1階の広場に面したレストラン街を覗いていくと、レバノン料理店というのがあった。8時からベリーダンスショーが見られるとある。あまり期待はせずに7時半に予約をいれ、それまでの間、ビックカメラにハードディスク付DVDレコーダーを見に行く。

予約の時間より5分前くらいに戻ると、高層ビルを背景にブルーの電球でライトアップされた木々が美しい。店は案外大きく、満席に近い。席に案内され、ふと前を見ると、"Domani, Italiano"と書いたキチンがある。あれ、間違えたかなと思って後ろを振り返ると確かにレバノン料理のキチンがある。後でトイレに立ったときに従業員に聞いたら、ここにはレバノン料理、イタリア料理のほかに、インド料理、インドネシア料理、中華料理など6つのレストランがあり、それぞれが別の独立した店だが、スペースはつながっているのだという。レバノン料理は始めてなので、3200円のコースとレバノンワインのデカンタを注文する。料理も予想以上に良かったが、ほとんど期待していなかったベリーダンスがなかなか素晴らしかった。私たちが案内されたのは最上席らしく、レバノン系アメリカ人のダンサーはわれわれのテーブルのすぐ横で踊っていた。オーナーのジョー・ハッサン氏に声をかけて聞いてみると、彼はもともとダマスカスの日本大使館に勤務していたが1983年に来日、自由が丘に日本で初めてレバノン料理店を開いて、10年前に新宿に移ったそうだ。むかし、ベイルートで日本料理店をやっていたマダム杵淵が、日本でレバノン料理店を出したという話を知っているかと聞いたところ、「美智子のことですか?」という。杵淵美智子さんという女傑は、ベイルートに初めて日本料理店を開き、中東勤務の日本人の間で有名なおばさんだったが、ベイルート紛争の後、アテネに本拠を移し、アテネで「美智子」という日本料理店を経営していた。彼女が日本に一時帰国した際に、レバノン料理店を日本で開いたという話を、これもずいぶん前のことだが聞いたことがあった。しかし、ハッサン氏は「美智子さんは亡くなりましたが、レバノン料理店を開いていたという話は聞いていません。」という。ハッサン氏は現在、レバノンに日本風の旅館を造るのが夢で、現地の日本大使館にも働きかけているそうだ。店の名前はレストラン・シンドバッド、ホームページもhttp://www.sindobad-tokyo.comというすごいドメインだ。


December 10, 2004 =Fri=

法制審議会の会社法部会は、2005年度の商法改正で、株式会社が1000万円、有限会社が300万円とされている最低資本金制度を撤廃する方向で「会社法制の現代化に関する要綱案」を決定したという報道が一昨日あった。私が大学を出て会社へ入ったころは、株式会社の設立は3500円の資本金でできた。当時は株式額面の最低が500円で、会社設立に要する発起人の数が最低7名、発起人は最低1株を引き受けなければならないとされていた。従って、500円×7=3500円で株式会社が設立できた。その後、株式額面の最低は5万円となったが、1990年の商法改正で株式会社1000万円、有限会社300万円という最低資本金制度が導入された。これは当時、実体のないペーパーカンパニーが多く、そうした幽霊会社を整理し、資本を充実させることが目的とされ、最低資本金に満たない株式会社、有限会社は1996年までに増資するか解散するかという経過措置も取られた。1995年の阪神淡路大震災で、兵庫県に本社を置く会社についてはこの経過措置を延長すると言う処置も取られた。ところが、2001年の商法改正では額面株式が廃止され、さらに2002年には「中小企業挑戦支援法」により資本金1円で会社設立が可能という、いわゆる1円設立が認められた。(ただし設立後5年以内に最低資本金をクリアすることが必要)今回の要綱案は、最低資本金を廃止し、いわば1円設立を恒久化するものである。

ここでよく分からないのだが、最低資本金を廃止することが「会社法制の現代化」であるのなら、1990年の最低資本金導入は「会社法制の現代化を阻害した悪法」ということになるのではないだろうか。時代が変わって、あの頃は資本充実が優先課題だったというのかもしれないが、経済活動の基本である商法がわずか15年で180度方向転換するのには、それなりの説明があってしかるべきだろう。


December 9, 2004 =Thu=

昨夜、娘と食事をしていてさかんに携帯の写真を見せられた。犬を買ったという。ポメラニアンという種類の、縫いぐるみのような犬でまだ生後3ヶ月。夫のボーナスをあてこんでン十万円出したそうだ。名前は12月にちなんでノエルだと。犬を飼うより子供を作れと言いたいのだが。

国会での議論も避け、国民への説明もないまま、政府はイラクへの自衛隊派遣を閣議決定した。この情報はほとんどリアルタイムでアルジャジーラ(英語版)でも報道されている。アルジャジーラの記事は日本の自衛隊の活動が人道復興支援であることに触れてはいるが、
Japan has approved an extension of its troop deployment in Iraq for up to a year, a decision opposed by most voters, who want to end the nation's riskiest military mission since the second world war.
という書き出しが日本の国内事情を正確に捉えていると言えよう。それよりも、中東において少なくとも軍事面ではこれまでlow profileを保ってきた日本が、こうした形で表に出てくることで自衛隊だけでなく一般市民がテロに巻き込まれる確立がまた高まってくることに憂鬱さを覚える。

妻は今日も昼の公演を終えて、打ち上げも済ませて帰ってきたが、家のドアを開けるなり「失敗しちゃったあ〜」どうやら最初の場面で右近、左近(妻)のやり取りの中でお互いに目があったとたん、舞台の上で二人とも笑いが止まらなくなってしまったらしい。舞台監督が怒ってしまったのか、打ち上げには来なかったそうだ。


December 8, 2004 =Wed=

終業時間の6時になるかならないうちに会社を飛び出し有楽町駅へ。娘と中央線の中野駅で6時半に待ち合わせをしている。ちょうど6時半に中野着。娘も同じ電車だった。中野サンプラザの少し先、道路の反対側にある「なかの芸能小劇場」ここで妻が芝居に出演するというので家族に動員がかかった次第。出し物は「しんしゃく源氏物語・末摘花の巻」プログラムには妻の写真が一番に出ているが、これは主役と言うわけではなく舞台に登場する順番らしい。登場人物は全部で8人で女性ばかり。しかし、主役の末摘花など二人は男性が演じている。妻の役柄は末摘花のお屋敷(実はあばら家)に奉公する右近、左近のうち左近のほうで、最初に舞台に登場し、待遇の悪さを嘆きつつ一番最初に見切りをつけて奉公をやめてしまう。従って、出番は冒頭部分だけなので、見に行くこっちも「絶対に遅刻しないように」と言われていた。町田や杉並に住んでいたときにお世話になった元女優の高須(安田)さんが主催する「花火座」の公演で、素人劇団と言っても妻以外は元俳優だったり日本舞踊の名取だったりで本当の素人は妻だけなのに、この素人が仕事の合間にやっているものだから練習も人一倍さぼっている。それなのに前売り2000円の切符を友人知人に売りつけるのは鉄面皮もいいところ。貧乏暮らしに耐えつつ、奉公人も次々と去っていくなか、高須さん演じる「少将」と二人で光源氏の愛を信じて待ち続ける末摘花のもとに、最後に光の君が訪れる(光源氏自身は最後まで舞台に姿を現さない)。明日の公演は午後2時から。終演後、妻と娘と3人で中野サンプラザ20階の日本料理屋でディナー。


December 6, 2004 =Mon=

先日結婚されたIさんご夫妻と、会社の近くのスペイン料理屋「エスペロ」で会食。いつもランチでは使うが、ディナーで使うのは初めて。小さい店だが雰囲気が何となく本場スペインのリストランテを思わせる感じがして、一度夜に言ってみたいと思っていた。Iさんの奥さんの方は前の会社で仕事でいろいろ世話になったが、今日はご主人を紹介するとのこと。中学時代からの同窓生で、コマーシャルなどの音楽関係のお仕事。ジョン・レノンと池田満寿夫を足して二で割ったような感じで、とても楽しい方だ。名刺代わりにCM音楽の詰まったCDをいただく。以前、インドで何ヶ月か暮らしたそうだ。「バックパッカーになりたかったんだけど、当時すでに30歳を過ぎていたんで、この水を飲んでお腹こわしたら困るな〜なんて考えて、とうとうなりきれなかったんです。」CDケースに書いてあったURLをたどっていくとこんなページも見つけた。


December 5, 2004 =Sun=

朝起きてテレビのスイッチを入れるとテロップが流れている。広範囲にわたって鉄道が不通になっているらしい。小田急線も新宿〜成城学園前は運転再開したが、その先は運転見合わせ中とある。何があったんだろう。地震かな、と思ったがチャネルを他に回しているうちに忘れてしまった。やがてニュースが始まると、台風崩れの低気圧が通過し、東京都心で40.2メートルという観測史上最大の突風が吹くなど、各地で未明の天気が大荒れになっていたという。一軒家なら風の音ですぐに目が覚めるのだろうが、高層アパートだとまったく気がつかない。

朝から小田急百貨店の家具売り場の人が来て、頼んであった内装家具の見積もりを持ってきたが、やはり今朝は小田急百貨店でも定刻に出勤できない人が多かったようだ。昼前にスポーツジムへ行くため家を出たが、さすがに外に出てみると風は強い。だが、12月と言うのにやたら暑い。後でニュースで見るとこれも12月としては史上最高の25度までいったそうだ。強風で雲も吹き飛ばされたのか、台風一過のような青空だった。


December 4, 2004 =Sat=

第一土曜日だが今日は出勤日。年末を29日から休みにするのに、振り替えでこの日を出勤日にしたもの。自分が総務関係の責任者であるものの、この会社のこうした慣習はどうにも馴染めない。土日が休み出ない現場との公平を期したつもりなのだろうが・・。

今日は隣にできたシャネルの開店日だ。本通りの方から会社へ行く途中、シャネルの前には思ったより人が少ないなと思ったが、マロニエ通りへ曲がると大勢の人が並んでいる。列の先頭をマロニエ通りで押さえていたようだ。列はガス灯通りへ曲がって続いている。ネットのニュースでは11時開店予定のところを10時に繰り上げてオープンしたらしい。完成したシャネルビルは10階建て。そのうちシャネルは1階から3階までを使い、売り場面積は1250uとシャネルの店では世界最大。最上階にはフランスの有名なシェフ、アラン・デュカスのレストランもある。前からの約束があり1時過ぎに会社を出たが、まだシャネルの列は続いていた。


December 3, 2004 =Fri=

並木通りのイタリアンレストラン「ピガール」を借り切って会社の忘年会。今週はこれで3度目の忘年会だ。前の二回が年寄り中心の、比較的静かな会だったのに対して、若い人たちは元気だ。途中、旧知のKさんからメール。「今、新宿で飲んでる」忘年会が終わった後、「これから新宿に帰るけど・・」「もう遅いから、また」ということに。


December 2, 2004 =Thu=

今まで使っていた光学式マウスがダメになったので、古いボール式のマウスを引っ張り出して使っているが、軸受けに溜まった埃がこびりついていてとれず、どうもポインタの動きがぎごちない。そこで思い切って新しいマウスを買って来た。マイクロソフト製のワイヤレス光学式、それにチルドホイール付5ボタンというやつ。使ってみるとこれが意外に快適だ。5ボタンと言うのは普通の左右のボタンのほかに、真ん中にホイール、それにマウスの左側に二つの小さいボタンがついている。真ん中のホイールはチルド式になっていて、ホイールを前後に回すと上下にスクロールするのは従来のものと同じだが、左右に傾けると画面が水平にスクロールする。これはエクセルでもワードでも、またInternet Explorerでも同じ。左側の小さい2つのボタンは、片方を押すとIEの「進む」もう片方を押すと「戻る」になる。これらのボタンの機能は割り当てを変更することもできる。つまりマウスをほとんど動かすことなしに指の操作だけで大概の操作ができてしまう。しかもワイヤレスなのでコードが引っかかることもない。「たかがマウス」と思っていたが、こんなところでも進化は進んでいるんだと実感した。


December 1, 2004 =Wed=

昨日に引き続いてだが、今日は前の会社での神戸大学出身者のOB会。国際ビルの凌霜倶楽部で。出席者は20人ほどだが、同期生のO君、6年ほど下のT君、Mさんが遅れてきたものだから、開会時には私が最年少。この会では最年少者が乾杯の音頭を取るのだと言われて驚く。

元役員で、現在は「ヨード卵光」を製造している飼料会社の社長のMさんの話。「物価の優等生」といわれる鶏卵だが、昨年はなんと「戦後最低の卵価」を記録、生産農家は軒並み生産調整に走った。そのため現在は供給不足になり、卵価が高騰している。ヨード卵はヨードを含む飼料を鶏に与え、無機ヨードが有機ヨードに変わることにより、コレステロール、アレルギー、高血圧等に有効という研究結果が出ていると。



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