Diary



July 31, 2006 =Mon=

梅雨明けはしたものの、真夏にしては異常に涼しい日だった。昼前、会議中に携帯にメールが入る。「今日のお昼は?」私のオフィスの近くにある会計事務所に勤める娘からだ。所長も他の所員も休みで、一人だけらしい。今朝、ATMでお金を出さなければと思いながら財布に残っていて5000円でパスネットを買ってしまったので、小銭を除いてまったくの文無し。娘と待ち合わせて「ちょっとお金を出してくる。」と三菱東京のATMを見ると大勢が行列している。「私も持ってるよ」というので今日は娘にたかることにした。小川町の「IWAKURA」に連れて行く。仕事に関してある相談を受ける。私のほうも、今週末に夫婦と娘で広島の方に行くので、その切符を渡そうと思っていたが、残念ながら今日は持ってきていなかった。

イスラエルのレバノン空爆で、レバノンのカナで少なくとも20人以上の子供を含む数十人が犠牲になった。国際社会がイスラエルを挙って非難する中、例によって米国ユダヤ人団体への思惑からイスラエル擁護にまわったブッシュとその忠犬ブレアのごり押しのせいで、国連はイスラエルへの非難決議すら出来ずにいる。ボスからの圧力でコンディおばさんが右往左往する中で混乱はますます拡大し、パレスチナやレバノンの罪もない人たちの命が次々と奪われていく。この間、ブッシュのもう一匹の忠犬は、政権末期でもうやる気を失くしたのか、税金を使っても海外旅行三昧で、今度はモンゴルに行くそうだ。


July 30, 2006 =Sun=

昨日の天気予報では、関東地方の梅雨明けはまだ少し先になると言っていた。今日は朝方こそ雲が厚かったものの、昼前には青空が広がり、完全に夏の陽射しだった。多少湿度があると感じるのも、梅雨前線が停滞していた間に地中に吸い込まれた雨が蒸発しているようで、外から入り込んでくる風が齎すものではないように思えた。午後になって、気象庁は「東北地方を除く広い範囲で梅雨明けしたものと見られる。」と発表した。記憶にあまり自信はないのだが、昔は梅雨明けというのは気象庁が「宣言」したものだった。気象庁が「梅雨明け宣言」をし、その翌日から雨になっても、それは「梅雨明け後の雨」であって権威ある気象庁の宣言には影響しない。それに比べると、「梅雨明けしたものと見られる。」とは気象庁もえらく謙虚になったようだ。つまり、梅雨明けというのは自然現象であって、気象庁が「宣言」して決めるものではない、と当たり前のことを認めたようだ。

暑さが増してくると、スポーツジムで一連のメニューを終えた後にカキ氷を食べるのが楽しみになってくる。去年まではジムの更衣室にあるスナックでカキ氷を食べるのに何となく抵抗があったのだが、カキ氷をやっている喫茶店が案外少なく、あっても値段が昔のカキ氷の感覚からは異常に高いことが分かって、今年はここで食べることにした。そうすると私以外にもカキ氷を注文する人が結構いるのに気が付いた。いい歳をしたオヤジが、「抹茶ミルク」とか「いちごミルク」とか言って注文している。私も大概このどちらかだ。餡の乗った豪華版には余り食指が動かない。ただ、注文しているのはほとんどが中高年で、若い人は余り好きではないようだ。


July 29, 2006 =Sat=

今どき、携帯電話は手放せないが、夏になって上着を着ないようになると、今まで上着のポケットに入れていた携帯をどこに入れるかで困る。胸ポケットには定期入れ兼カード入れ兼名刺入れ兼紙幣入れで厚さ2.5cmのが入っているし、ズボンのポケットでは邪魔になる。先日、アパートのエレベータの中で、ズボンのベルトに携帯用のホルダーをつけている人をみかけた。これは便利そうだと思ったので、今日、スポーツジムの帰りにビックカメラに寄ってみた。携帯ストラップなどの売り場に行って見ると、携帯ホルダーも色んなのが売られている。縦型、横型、名刺入れや小銭入れが付いたものなど、いろいろと工夫を凝らしている。大体共通しているのは、裏側にベルトを通す部分が付いており、蓋はすぐ出し入れが出来るようマグネットになっているという点だ。横型のできるだけシンプルなのを買い、ついでに携帯を失くしたり落としたりしないように一端をベルトなどに固定して伸縮できるストラップを買った。家に帰ってから作業に取り掛かったのだが、このストラップを携帯に付けるのが一苦労だ。ストラップの蝋引き紐をストラップ用の小さな通し穴に通すのだが、今まではいじっているうちに何とか通すことが出来た。しかし、今度はどうやら穴にゴミか何かが詰まっているらしく、どうしても通らない。蝋引き紐に糸をつけ、糸を穴に通そうとしたが、糸は柔らかすぎてうまくいかない。そこで考えた挙句、まずゼムクリップの一端を伸ばし、その先端数ミリのところをスイス製アーミーナイフについている小さなペンチで曲げた。この道具を使って糸を片方の穴から押し込み、潜ってでてきたのを同じ道具を使って引きずり出す。糸を手繰るとストラップの蝋引き紐が出てくるかと思うと、これがまたそうも行かない。通し穴が狭いので、無理に引っ張るとせっかく通った糸が切れてしまいそうだ。そこでさっきの道具を使って蝋引き紐を後ろから押し込み、ようやく少し出てきたのを今度は精密ドライバの一番細いのを使って引きずり出す。こうしてようやくストラップを通すことに成功した。って、何てくだらない日記を書いているんだろう。


July 28, 2006 =Fri=

私の派遣元であるフィナンシャルサービス社の社員懇親会の案内が来ていたので行ってみた。5月に完成した親会社の丸の内本社ビル3階の大会議室に行くと、受付でサマージャンボ宝くじを一枚渡される。会場には300人近くいるだろうか、その7割は女性だ。若い女性はプロパー社員か派遣社員、年齢を召した人たちは親会社の事務職からの出向社員。男性も同じようなものだが、私と同様に親会社を定年退職してからこの会社に嘱託として所属している人たちはこの懇親会にはあまり出席していないようで、何か場違いな感じもした。しかし、親会社のCFO(昔で言えば管理担当役員)、コントローラー(主計部長)、機械グループコントローラー(機械管理部長)など、私よりも若いが錚々たる面々と話をすることが出来た。むかし、親会社の海外会計で私の部下だったY嬢もこの会社に出向していて、いまは内部統制関係の仕事をしているとのこと。Yさんと話をしていると、やはり当時部下だったI君のことに話題が及ぶ。ソウル在勤中にクモ膜下出欠で倒れ、目下リハビリ中のI君を今月初めに見舞ったそうだ。私は昨年の2月に、当時彼が入院していた練馬の病院に見舞ったきりになっている。Yさんが見舞ったときは老人介護施設のようなところだったそうだ。まだ若いのに気の毒だが、3ヶ月ごとに転院を余儀なくされているらしい。来月初めに当時の仲間だった連中と会うので、彼らを誘ってもう一度見舞いに行こうと思う。

そのうちに懇親会は福引となる。さっき渡された宝くじの下3桁の番号が福引の番号となる。福引と宝くじと両方の幸運を、とのアイデアらしい。早々とローソンのプリペイドカード3000円分に当選した。だけどこの頃はコンビニって余り使わないし、あちこちから貰うQUOカードも机の引出で眠っているし、むかしローソンから個人情報流出のお詫びに貰った500円の商品券も確か残っているはずだ。


July 27, 2006 =Thu=

今月13日に「みますや」で行った幹事会で、「松戸会」の連絡役をIさんから引き継がされたのだが、さっそく来月21日に暑気払いの集まりをやろうということになり、場所がまた神田で、Iさんの出身企業のクラブを借りることになった。連絡を出す相手は34名。会員はもっと多いのだが、元・某中央官庁事務次官のTさんのように、病気がちなので案内を遠慮するという人たちも増えてきて、毎年人数は減るばかりで増えることはない。私でも若い方で、みんな年齢が年齢だけにこれまでは電子メールは使わず、主としてファックスによる連絡だが、中には自宅にファックス機がなく電話か郵送しかだめというひとも約2名いる。連絡役が私に代わったことで、メールも活用しようと、今回の連絡の回答にはメールアドレスの記入欄も設けることにした。まあ、私を含めて35人のうち、メールでOKというのは10人くらいだろうか。


July 25, 2006 =Tue=

先週金曜日に売却手続きの完了した大阪の家の代金を精算して、共同相続人である妹と甥に送金を完了。母の遺志を尊重して、一番世話になった妹に半分、残りを甥と私で折半。大した金額ではないが、それでも多少はまとまったお金になる。戦後のゼロから出発した両親の、いわば血と汗の結晶だ。


July 23, 2006 =Sun=

新宿スカラ座で映画「日本沈没」を観る。いつもは映画は家から近い歌舞伎町のシネコンで観るのだが、どういうわけかこの映画は新宿では三丁目のここでしかやっていない。時間も日曜日の4時前と言う回だったので満員だった。開演より30分以上前に行ったのだが、切符を買ったときから「混雑が予想されますので早めにご入場ください。」と言われ、入場時には「いったんお入りになると外に出られません。再入場はお断りしております。」ということで、前回の上映が終わるまで列に並ばされる。それだけ期待も高かったのだが、映画が始まってみるとだんだん失望の方が強くなってきた。小松左京の原作は登場人物の名前以外ほとんど無視。特撮とCGで地震や津波、火山噴火などの画面をがんがん見せ付けるだけ。草なぎ剛の下手な演技も見ていられない。これに比べれば、特撮技術も劣り、CGという言葉さえない1973年に作られた前作の方がはるかにましだ。撮影に当たっては防衛庁や東京消防庁の全面協力を受けたらしく、自衛隊やレスキュー隊の宣伝映像のような感じがする。そういえば、大地真央の演じる「文部科学相兼危機管理担当相」(これは田所博士の別れた元妻と言う設定だが、原作にはこんな人物は登場しない。)など、そのメークからして保守派論客の櫻井よし子をイメージしているようだし、原作の小説「日本沈没」もわざわざ「小学館版」と銘を打っている。「日本沈没」がベストセラーになったのは光文社だったはずだが、再映画化にあたって小学館が版権を取得してメディアミックスで文庫本も売ろうとしているようだ。

映画の方はまったくの駄作だったが、その原作者の小松左京による「私の履歴書」は日経新聞での連載が続いている。小松左京と高橋和巳の関連が、京大卒業の後も時折出てくるが、そういえば高橋和巳の代表作「憂鬱なる党派」の中に小松左京をモデルにしたのではないかと思われる登場人物がいるのに気が付いた。教師の職を捨て、原爆に被災した名もない庶民の伝記を書き上げた主人公が出版の手蔓を求めて学生時代の仲間を訪ねるが、一番最初に訪ねたのが「古在」という男。

軒先のガラス細工の簾が、知恵のない女の首飾りのように揺れる。表通りの雑踏の足音が、その簾の鳴る音と入りまじって遠くからきこえる蛮族の輪舞のように響く。喫茶店の安っぽい造花の花が、幾度かその硝子の簾に触れた。その造花の枝を左手で避けながら、西村の最後の夢の託された旧友が入ってきた。それは顔を肝臓病者のように腫らした男だった。古在は西村の方をしばらく凝視して、開襟シャツのボタンをゆっくりはずしてから、「驚いたか」と言った。

これが古在の登場場面だが、二人の会話が続いた後、

古在は何事もなかったように、次に自分の仕事のことを語った。業界新聞があらたに経済雑誌をも兼ねる事業拡大を計り、印刷して形をととのえては数週間で崩れる永遠の蜃気楼の物語である。彼はすでに編集主任の位置についていたが、話はほとんど無感動な独白に似ていた。

と紹介している。これは「私の履歴書」で小松自身が述べている経歴の一部にほぼ一致する。このへんからも小松と高橋の交友関係がかなり深いものだったように思われる。


July 21, 2006 =Fri=

朝の新幹線で大阪へ。母が亡くなって以来空き家になっている八尾の家の売却だが、八尾の住友不動産販売に頼んでいたら契約から測量まで順調に進み、今日が最終引渡しとなった。契約の際は住友の人が東京まで書類を持ってきてくれて捺印したが、今日は買主(地元の建築業者で古い家を取り壊して新築住宅を建てて売り出すらしい)と直接会って権利書や代金の受け渡しをするので、出向かねばならない。指定場所は八尾の隣の柏原という市の銀行。隣といっても実家のある近鉄沿線ではなくJR関西本線の柏原駅なので、いままで行ったことのない場所だ。どうも昔から関西の、というか特に関西本線というのは、私鉄沿線と比べて開発が遅れているような感じだ。町工場などが多いせいかもしれない。この駅も何か物寂しい感じだが、駅前でマンションの建設が始まっているので、あと何年かすると様変わりになるのかもしれない。手続きはスムーズに進み、一時間ほどですべて終了。これで両親が最後まで住んでいた家は、われわれ兄妹のものでもなくなった。感慨がないと言えば嘘になるし、母親が大事に手入れしていた植木や草花など、家の取り壊しと同時に処分されてしまうのだろうなと思うと遣る瀬無い気もするが、さりとてどうできるわけでもないし、空き家を放置しておくのは隣近所にも迷惑だ。柏原の銀行に同行した妹と近くのファミレスで昼食を食べながら、最後にもう一度妹の車で家を見に行ってみようと声をかけようとしたが、やめにした。時間が早く終わった分、新幹線を一時間繰り上げて帰京。

昨日の日経の一面記事。完全な日経のスクープだったらしく。他の新聞は夕刊でフォローするのがやっとといったところ。「保守派」と称する連中の慌てぶりは滑稽なほど。小泉は記者から突っ込まれて「心の中の問題ですから、(自分の靖国参拝は)関係ありません。」と例によって逃げのコメント。予想通り、日経新聞本社には火炎瓶も投げ込まれたらしい。噴飯ものなのは産経新聞で、「昭和天皇のA級戦犯合祀批判を政治問題にしてはならない。」と社説に掲げている。いままで政治問題にしていたのは誰だったのだろう。その同じ産経新聞に、「イラク復興支援の自衛隊に感謝する『意見広告』にご協力を!」という広告が載っている。大量殺戮兵器に関する米国の偽情報に騙されて、米国に媚を売るために送り込まれた自衛隊に何を感謝するというのだろう。産経自体がやっているらしいが、発起人として名を連ねているのは、佐々淳行、岡崎久彦、岡本行夫、日下公人、志方俊之、竹村健一、中西輝政、平沢勝栄、渡部昇一など、この国を右に右にと導く魑魅魍魎御一行様たちだ。


July 20, 2006 =Thu=

今朝の日経新聞が、昭和天皇がA級戦犯に靖国合祀に強い不快感を持っていたとする元宮内庁長官のメモをすっぱ抜いたことであちこちに波紋が広がっている。小泉の8月15日靖国参拝が注目されている時だけに、タイミングとしては絶好だが、何をいまさらと言う感じも否めない。靖国参拝推進派や右翼連中は韓国や中国に言われて参拝を控えるなどもってのほかという論旨だが、そもそもあのような戦争肯定・賛美施設に日本の指導者が参拝すること自体、他国に言われるまでもなく、平和憲法を掲げた日本人自身が糾弾しなければならないことのはずだ。彼らの心情の拠り所である昭和天皇が合祀に反対していたことが明らかになって、彼らは恥をかくことになるかもしれないが、そんなことはことの本質ではない。靖国神社と言う特定の宗教施設に政教分離を前提とした国の指導者が公式に参拝すること自体に問題があることを別にしても、その神社には「国のために命を捧げた人たちを祀っているのだから、その御霊に感謝を捧げ、平和を祈念する」という小泉流の詭弁論法に対して、「では、その戦争に反対して国から命を奪われた人々や、空襲によって殺戮された罪もない一般市民をなぜ祀らないのか。」という疑念を、マスコミはなぜぶつけないのだろうか。そしてもう一つ、日本人が戦後60年以上も曖昧にしてきたこと、昭和天皇自身の戦争責任にもけじめをつけて欲しいと思う。


July 19, 2006 =Wed=

昼前に、娘の携帯に電話すると、「すぐでも出れるよ。」雨の中、東京グリーンホテルのレストラン「庭」に連れて行く。食事のあと、この近くに和菓子のお店がないかしら、というので「竹むら」へ。ここも東京都の歴史的建造物に指定されている甘味処。「揚げまんじゅう」と「白玉あんみつ」を注文し、半分ずつ食べる。カロリー制限をしている折から、こうした甘いものを食べるのは久しぶり。

四時から、親会社の機械グループIT担当者連絡会。半年に一度開かれているようだが、昔の顔なじみとも会えるので出かける。出席者の中では私が一番高齢のようだ。懇親会で昨日に続きワインを飲みすぎ。


July 18, 2006 =Tue=

連休明けの今日から、中途入社の新人が仲間に加わったので、部の連中で揃って昼食に行き、オフィスの前に戻ると知った顔に出くわした。知った顔も何も、娘である。勤めている事務所が、これまでの麹町から都営新宿線の小川町駅近くに移ったと聞いてはいたが、そのオフィスは私のオフィスから本当に目と鼻の先。引っ越したのは私がロシアに出かける直前だった。何でも事務所の所長さんの息子さんの幼稚園がこの近くで、送り迎えに便利だと言うのがオフィス移転の理由だそうだ。さっそく、明日の昼食を一緒にすることになった。

夜は米国出張から帰国した社長とともに、新入社員の歓迎夕食会。イタリア料理店『花の碗』にて。


July 17, 2006 =Mon=

高校の同窓会の幹事をおおせつかった妻が、会場の候補として新宿駅南口のサザンタワー、小田急ホテルにあるレストランを見に行くと言うので、ついでにそこで食事でもするかと同行する。このレストランはたしか何年か前に家族4人で食事に来たことがある。結局、同窓会の方は予算に合わなかったらしく、われわれの食事の方も少し高すぎるからやめにしようということになった。何しろ、家を出るときはどこかで食事をしようと思っていたものの、ホテルに来たのは急な予定変更だったからこちらはポロシャツにサンダル履きという格好。ちょっとホテルのレストランに入るには気が引ける。そこで向かいにある新宿高島屋の13・14階にあるレストラン街へ行ってみたらどこも満員で店の前に並べたいすに順番待ちの人たちが並んでいる。それも値段の高いレストランほど列が長い。ここで一時間も待つのはかなわないと、ふと思いついたのが地下街のトンカツ屋「さぼてん」。これはチェーン店だがトンカツでは一番だと思っている。とくに新宿の南口から西口にいたる地下街にある店が昔から好きだが、このところカロリー制限をしていることもあって暫く足を向けていない。たまにはいいだろうと入ってみる。改装したらしく中は少し広くなったようだ。ここも満席だったが5分くらい待ったら二人がけの席に案内される。メニューも二三日前から新しくなったとのことで、いつものヒレかつ定食も80g、100g、120gの3種類になっている。「さぼてん」ではまず胡麻の入った擂鉢が出され、自分が擂った胡麻にソースを混ぜて食べるのだが、今回はそのほかに荒塩とポン酢が出される。トンカツを塩で食べると言うのも珍しいが、やはり胡麻入りソースの方がいい。いつものことながら、ここのトンカツを食べると何か満足した気になる。


July 16, 2006 =Sun=

3連休といっても結構忙しく、旅行中に溜まった新聞も読めずにいたが、今日は時間を見つけて日経の「私の履歴書」だけ半月分を読んだ。小松左京の文章は期待通りの面白かったが、高橋和巳と小松左京が京都大学で同じ文芸部に属し、同人誌をだしていたことを読んで驚いた。高橋和巳は私の好きな作家で、いまでも書棚には大江健三郎と並んで彼の本が10冊以上ある。とくに「憂鬱なる党派」「邪宗門」が学生時代の愛読書だった。小松左京と高橋和巳、この作風の全く違う二人にそんな接点があったことは、二人の作品を愛読しながら今まで全く知らなかった。小松左京が神戸一中の出身で、私の妻の先輩に当たることだけは知っていたが。


July 15, 2006 =Sat=

今日から3日間の連休。2週間ぶりにスポーツジムに行き、その帰りに新宿駅の緑の窓口に寄る。大阪の家の売買の手続きがすべて終わったと言うので、最終の引渡しのため、来週金曜日に大阪へ行かなければならない。そのための新幹線の切符を買うほかに、8月5日に広島県の福山にある瀬戸内海の田島という島へ行き、その帰りに京都に寄って妹や甥と母の初盆のお墓参りをしてこようと思う。これには妻と娘が同行するので、というより田島への旅は妻の希望によるものだが、併せて3人分の切符を買うのが目的だ。8月6日の切符を今から買うのは早いかと思ったら、すでに禁煙席は満席と言う状態だった。お盆はその次の週のはずだが、5日の夜も京都で泊まるつもりでいたのにビジネスホテルはどこも満員で、結局岡山の安いホテルを取った。私と妻は「じぱんぐ倶楽部」という高齢者向けの30%割引が適用されるが、これも次の週だとお盆のため適用外になる。


July 13, 2006 =Thu=

以前、国際税務を担当したいた頃の仲間が集まって続いている松戸会の幹事会をやると言うので、私のオフィス近くにある明治38年創業の居酒屋「みますや」を予約した。6時からだが、どうせ暇な連中が多いので早く来るだろうと5時半過ぎに会社を抜け出して行って見ると、案の定、〇井物産出身のI氏がもう来ていた。続いて新〇鐡出身のYさん、会の主宰者でもある租研のHさん、〇レのSさんが顔を出す。少し遅れて〇立のIさんで予定メンバーが揃う。いままで会の連絡役を務めていた〇立のIさんが、関連会社の役員を卒業したのを機会に、連絡役を私に引き受けて欲しいということらしい。この会は、年寄りが多くてメールはほとんど使えないので、電話とファックスが通信手段というのがまだるこしい。そういえば、Hさんから頼まれていたことがある。彼の住む松戸市の社会福祉協議会で、知的障害者の自立支援のために竹を材料にした紙を漉く事業を始めようとしているが、行政(松戸市)は協力するけどお金は出さないというので、立ち上げ資金を出してもらえないか、出身企業のCSR窓口に打診してくれというもの。現役の友人を通じて窓口担当者の名前は聞いているので当たってみようと思うのだが、多分難しいだろうと思う。こうした会ではつい話が盛り上がり、お酒を飲みすぎることになる。


July 12, 2006 =Wed=

ロシア旅行中の日記はretroactiveに纏めていくとして、現在のDiaryも綴っていこうと思う。今朝のニュースで驚かされたのは、同じ会社の経理部門で2年先輩だった古川さんが民営化される郵便貯蓄銀行の社長に決まったことだ。彼は肥大化した管理部門のスリム化で功績を挙げ、副社長まで上り詰めたあと、火中の三菱自動車の副会長を務めた。今度の役職も本来なら金融機関の経営経験者が就くはずだったのが、引受け手がなかったり政治的な思惑から辞退者が相次いだりして最後に彼にお鉢が回ってきたらしい。資金量からいえば世界最大の金融機関となるが、もともと郵貯は集めた金を政府の資金運用部を通じて財政投融資にまわしていただけで、本当の意味での融資や資金運用の経験者はいないのだから、これを民間と伍する金融機関に返信させるのは並大抵の苦労ではないだろう。古川さんはもう68歳。今からこんな仕事を引き受けるのでは、こちらも早く仕事から足を洗いたいなんて言い難くなってきそうだ。


July 9, 2006 =Sun=

ソウルで乗り継いだ大韓航空機はさすがに無線LANが使えた。乗ったときは座席のポケットに無線LANのパンフレットが入ってなかったので、「やはり同じルートでも使えるのと使えないのがあるのか」と思ったが、PCを立ち上げてみるとすぐに無線をキャッチした。機内からのインターネット接続を一度は試みてみようと思い、今回はクレジットカード番号を打ち込んで実際に接続を試みたが、極めて造作なく繋がり、メールも読んだり返信を打ったりすることも出来た。ほぼ定刻の13時30分に成田着。2時過ぎのエアポートリムジンで帰路に着く。

今回のツアーはクラブツーリズムの主催で、参加者は16名。うち夫婦連れは我々を含め3組。あとは母娘連れ一組と、おばさん4人組、3人組、1人という構成。食事の際など自然と夫婦連れ3組が同じテーブルを囲む形になる。あとの二組は、川崎市のSさんと静岡県富士宮市のIさん。Iさんはアルミ専業大手の会社の技術者で、私と同年齢だが嘱託勤務。海外出張も多いらしい。Sさんは昭和一桁生まれで私より8歳上だが、自動車大手の購買部門を58歳で辞めたあとは悠々自適で海外旅行の常連という。おばさん方も含め、話を聞いているとみんな海外旅行はベテランのようだ。まあ、ロシアあたりに来るのはポピュラーな先は行きつくしての後なのだろう。


July 8, 2006 =Sat=

ロシア滞在の最終日は、一週間後にここサンクトペテルブルグで開かれるサミットのために警備が強化されているからということで、早めの出発となる。順番もエカテリーナ宮殿を後回しにして、まずペテロ・パブロフスク教会の前でバスを止めて写真をとった後、ピョートル大帝の夏の宮殿に行き、噴水で有名な庭園を散策する。ペテルブルグから宮殿のあるペテルゴフまではバスで1時間半ほど。噴水の始まる時間に合わせるためにペテル・パブロフスク教会に寄ったらしい。ここはピョートル大帝が同世代のルイ14世の建築したヴェルサイユ宮殿を模して造らせたという宮殿で、広大な庭園に大小の噴水が無数にちりばめられている。噴水は壮麗なものばかりでなく、敷石のどれかを踏むと噴水が噴出したり、天蓋の下に入ると突然まわりに水が滴り落ち、出られなくなるような「いたずら噴水」もある。この噴水、ポンプは使わず土地の高低差だけを利用している。フィンランド湾に面した極寒の地なので、冬は噴水が凍結してしまうので、文字通り「夏の宮殿」である。アンナさんの話によれば、冬には噴水も彫刻も布で覆われている中で、ガイドの実地試験が行われるのだと言う。庭園の散歩中、写真を撮っていたら流暢な英語で声をかけてきた男性がいた。英語のガイドで、モスクワから50人くらいのイギリス人の団体を連れてきたそうだ。「われわれもモスクワからだよ。」「途中、どこかに寄った?」「いや、夜行列車だったから。」「こっちは船だ。船だとあちこち見れるよ。その代わり一週間かかるけどね。」モスクワから船でって、どんなルートを通るんだろう。

最後の観光はエカテリーナ宮殿。ここもカメラやビデオは有料で持ち込みOKだが、一番目玉の「琥珀の間」だけは撮影禁止。フラッシュの光が琥珀に悪い影響を与えないようにと言う配慮があるのだろう。また、宮殿の床は高価な寄木細工で出来ているため、宮殿の内部見学の際は靴にビニールのカバーをかけさせられる。この宮殿の主、エカテリーナ二世はドイツ生まれだが、ピョートル大帝の孫でやはりドイツ生まれのピョートル三世の妻となる。しかし暗愚の帝王であるピョートル三世に対して軍部と組んでクーデターを起こし、ピョートルを退位させ自ら帝位に就く。井上靖の小説「おろしゃ国酔夢譚」にも出てくる大黒屋光太夫がロシアに漂着し、エカテリーナ二世に帰国を願い出た最に女帝に謁見を賜ったのもこの宮殿だ。

クライマックスの「琥珀の間」は、さすがに見応えがある。エカテリーナ二世が6トンに及ぶ琥珀を使ってこの部屋を完成させたのは1770年。女帝はこの部屋をこよなく愛し、自分の許可なくしては誰も入らせなかったと言う。しかし、1941年、侵攻したナチスドイツによって琥珀は剥がされ、運び出されて、未だにその所在は分かっていない。現在の「琥珀の間」は2003年、サンクトペテルブルグ建都300年に合わせて再建されたもの。

すべての観光を終えて、サミット警備のために朝が早かった分、時間が余ったので空港へ行く途中のスーパーマーケットに寄り、ウォッカを一本調達する。空港での警備もサミット直前とあって厳重極まりない。手荷物を通すX線検査だが、全員靴を脱いで、脱いだ靴までX線のコンベアに載せられる。空港建物への入場時、パスポートコントロールの前と、二度の検査を受ける。モスクワと違ってかなりローカル色の強い空港だ。

ソウルからモスクワへの便はエアバスだったが無線LANが装備されていた。9時間近いフライトなので、帰りの便で無線LANを使ってみようと思っていたが、ペテルブルグからソウルへの便では同じエアバスなのに無線LANは付いていない。同じ空路の往きと帰りとで違うのかと不審に思ったが、よく考えれば往きの到着地と帰りの出発地が違うのだから同じ空路ではない。政治と商業の中心地であるモスクワの方がインターネットの需要は大きいのかもしれない。


July 7, 2006 =Fri=

今日は「芸術感動絵巻」と題したこのツアーのハイライト、エルミタージュ美術館(Государственный Эрмитаж)だ。美術館の建物は、小エルミタージュ、旧エルミタージュ、新エルミタージュ、エルミタージュ劇場、冬宮という5つの建物で構成されているが、エルミタージュ劇場を除いて中で繋がっており、中を歩いている分には別の建物に移ったと言う感じはない。美術館の本館はロマノフ王朝の王宮だった冬宮で、アレクサンドルの円柱が聳える宮殿広場を隔てて参謀本部の建物と向かい合っている。ここではお金は払うものの、カメラやビデオ撮影はOK。まずアンナさんが要領よく他の団体との込み合いを避けながら、ルネサンス期の名作に案内してくれる。ダビンチやラファエルの聖母子像、ティティアーノのさん・セバスチャンやダナエ、他にもルーベンスやヴェラスケスなど、画集でお目にかかった作品の現物が目の前にある。絵の前にはこれ以上近づくと警報がなるロープこそ張られているが、ガラスで保護されているのはごく僅かで、大半が生のまま。ほとんどの部屋が外の明かりを取り入れる構造になっているが、作品が変色することはないのだろうかと心配になるほどだ。ルネッサンス絵画を一通り見て回った後は、館内の喫茶店で各自昼食を取り、3階の印象派の部屋まで案内してもらって、その先は自由見学。なにしろここでは6時間とっているのだ。

印象派以降のコレクションも、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、ルノアール、ルオー、アンリ・ルソー、カンディンスキー、ピカソ、マチス、ユトリロ等々、ホアン・ミロやキリコといったシュールレアリズムまである。左のマチス以外にも写真を撮りまくったのだが、ここにはそんな素人写真を載せなくても、エルミタージュ美術館の公式ホームページには美術館の主な収蔵品の写真が系統立てて掲載されている。みんな売店でエルミタージュ美術館の日本語のガイドブックを買っていたが、印刷物は持って帰っても書棚のスペースを占領するだけなので、私はDVDを買った。帰ってから再生してみるとちゃんと言語を選べるようになっていて、日本語もあり、なかなか良い出来になっていた。

美術館をでたあと、参加者の中の一人のおばさんが、「昨日『血の上の教会』に行かなかったわね。」とクレームをつけた。確かに日程表には入っているのだが、どういうわけか漏れていたらしい。そこでその教会に行くことになった。エルミタージュからも近く、ペテルブルグの中心部にあるのでいつもそのそばを通ってはいたのだが、バスを降りて眺める。この教会は正式にはキリスト復活聖堂といい、アレクサンドル2世がアナーキストから爆弾を投げられて命を落とした現場の跡に建てられたことから「血の上の教会」とも呼ばれる。

夕食の後はオプショナルツアーでさっきのエルミタージュに戻り、エルミタージュ劇場でバレー「白鳥の湖」を鑑賞。最初のうちは眠かったが、だんだんと惹き込まれていった。思ったより小さい劇場だが、ちゃんとしたオーケストラボックスもあり、演奏もバレーもなかなか良かった(と思う。なにしろこういう方面はまったく素養がないので。)

ところで、今日の朝の話にさかのぼるが、また、電話のことで一騒ぎ?あった。ペテルブルグからも新宿の事務所に電話を入れる用事があるので、モスクワと同じようにホテル内に公衆電話がないかフロントに尋ねたると、公衆電話はないが、フロントの電話でかけられるからこれを使えと言う。モスクワでは、ホテルの部屋からはかけられるのだが、その場合デポジットを要求されることもあって公衆電話を探したのだが、ペテルブルグでは部屋からもかけられないようだ。フロントの電話でかけると1分100ルーブルだという。「高い。外には公衆電話ないの?」出たところの地下鉄の駅にある。」行って見ると地下鉄の駅やその周辺に公衆電話は確かにある。だが、どれもクレジットカードのマークが付いていない。試しにクレジットカードを入れてみるとロシア語で何かの表示が出る。適当にボタンをいじくると英語表示になり"Invalid card"とある。じゃあテレフォンカードが要るんだ、とホテルにとって返すと添乗員がいたので「クレジットカードはだめらしい。テレフォンカードで国際電話かけられる?」と聞いてみると、添乗員もロシアはまだ余り経験がないらしく、しばらくフロントと遣り合っていたが「ダメらしいです。日本に電話するならフロントからかけてくれと言ってます。」何となく釈然とせず、もう一度公衆電話のところへ行って見ると、電話の脇にロシア語で説明書らしいものが貼ってあり、そこに各国の国番号が書いてある。日本なら81と。これなら絶対にかけられるはずだと、キオスクで「テレフォンカード」というと、叔母さんが数枚のカードを出してきて、「ロシア、ロシア」という。「やっぱりロシア国内電話しかダメなのか。」と思ったが、待てよ、もしかして「日本に持って帰っても使えないよ。」と言う意味で言っているのかもしれない。「いくら?」「189ルーブル」大したお金でもないので思い着てダメもとで買ってみた。公衆電話に差し込むと見事通話OK。「Talkボタン」は見当たらなかったが、見当をつけて「*」ボタンを押せばいいことも分かる。公衆電話だと1分25度数。189ルーブルのカードが100度数だから、ホテルで書けるのと比べて半分弱の料金だ。ホテルに帰り、添乗員に「テレフォンカードでかけられたよ。」と言ったら、「え、どうやるんですか。教えてください。」というので一連の手順を説明し、使い残りのカードを今後の参考に進呈。


July 6, 2006 =Thu=
 
列車は予定通り朝8時過ぎにペテルブルグのモスクワ駅に到着。スーツケースを降ろして離れた車両に乗っている添乗員を待っていたら、魅力的な美人がわれわれのスーツケースをチェックしている。「ガイドの方ですか?」と日本語で問いかけると、「はい。アンナと申します。よろしくお願いします。」と流暢な日本語。バスの中での自己紹介によると、ペテルブルグで生まれ育ち、名門のサンクトペテルブルグ国立大学東洋学部の日本語学科を卒業、22歳。プーチン大統領の二人の娘のうち、姉は東洋学部の地理学科を今年卒業、妹は日本語学科に入学し、アンナさんの後輩になったが、会ったことはない。大統領の娘は一般の授業を受けるのではなく教師との一対一の個人授業だからだそうだ。これは特権というよりもセキュリティを考えてのことらしく、「仲間と学べないのは可愛そうです。」と。いま、ペテルブルグは観光シーズンでほとんど休みが取れないが、「私はこの街が好きだし、この仕事が好きだから、苦になりません。」ガイドは目印のために小旗などを持っているが、彼女はその代わりに造花の桜の枝をかざすなど、若いのに演出も心憎い。
 
モスクワを出るときと同様、ホテルで朝食と洗面を済ませ、さっそくサンクトペテルブルグの市内見学。モスクワ駅からネフスキー大通り(むかし、ロシアの小説によく出てきた名前で懐かしい気がする。)を進むとネヴァ川に出る。我々の泊まるホテル・モスクワもこの通りに面している。モスクワでもそうだったが、街を歩くロシア人の顔は個性にあふれ存在感を感じる。無意識のうちにドストエフスキーやトルストイ、ゴーゴリなどの作品の登場人物と重ねてみているのかもしれない。ツアーメンバーが16人と少数なのにバスが大型なのを幸いに、対向車で視界を遮られない右側の席を確保し、人が大勢いるとビデオを回す。古いアパートの前にたたずむ男を見ると、「罪と罰」や「貧しき人々」を思い出す。慣れないのでなかなか表情までアップにはできないが、ロシアに暮らす人々の雰囲気をカメラに拾えればと思う。
 
西欧文化を取り入れるべくピョートル大帝により造られたサンクトペテルブルグだが、1914年に第一次大戦でロシアはドイツと戦うことになりドイツ名のペテルブルグからからペトログラードという同じ意味のロシア名に変わった。それも束の間、革命後の1924年、レーニンが亡くなった直後にレニングラードと改称、ソ連崩壊後の1991年に再びもとのサンクトペテルブルグに戻った。邦訳のロシア文学に熱中した身には、単にペテルブルグといった方が馴染みがある

市内観光はまず金色のドームを持った聖イサク寺院から。寺院からきれいな公園を横切ってネヴァ川の方に行くとピョートル大帝の青銅の騎士像がある。いつも海外旅行に来るときは日本でガイドブックなど買ってくるのだが、今回は何も準備しておらず、旅行社からもらう日程表とこちらに来てから配られる地図くらいなもの。だから写真に撮り忘れるとどこに行ったのかも分からなくなってしまう。特に今回はビデオとデジカメだし、ビデオの方はどうもPCへの取り込みがうまくいかないしで、記憶はデジカメ頼りにならざるを得ない。

ペテルブルグはもともとネヴァ川沿いの湿地帯を埋め立てて建設された街であり、市内にはネヴァ川の他に大小の運河が走っている。その一つ、フォンタンカ川から船に乗り、ピョートル大帝の夏宮殿を左に見てネヴァ川に合流する。船から眺めると結構修理中の建物が多い。3年前に建都300年を祝ったこの街は、その折にもかなり整備されたが、来週末から行われるG8のサミットに向けて市内のあちこちで化粧直しを行っているらしい。もちろん今のご時世だからテロへの警戒も怠りなく、あちこちに警官の姿が見られる。

午後からはペテルブルグ発祥の地と言われるペテロパブロフスク(「ペテロとパブロの」と言う意味らしい。)要塞を見てホテル・モスクワにチェックイン。ホテルのレストランでブッフェ形式の夕食を済ませたあと、外はまだ明るい。サンクトペテルブルグは今の季節、本物の白夜なのだ。そこで少し外を散歩することにする。モスクワよりこちらの方が治安は良いようだ。ホテルの向かいにアレクサンドル・ネフスキー修道院がある。その修道院の入り口に向けて大勢の人々が並んでいる。並んでいる人々の脇を通って門を入ると、その先にもずっと行列が続く。列も一列と言うわけではなく、平均して10列くらいなので大変な人数だ。更にどんどん進むとようやく礼拝所らしい建物に着く。ここが列の先頭らしいが建物の扉は閉じられている。先頭の人たちはリーダーらしい人の指揮で賛美歌のようなものを歌っている。英語の話せそうな人を選んで声をかけてみるが一向に通じない。人気のない礼拝堂の裏手に回って、閂のかかった扉の隙間から覗いてみると、神父らしい人が信者に教えを授けているようだ。だが、この凄い行列(数千人はいるはず)の人々を順番に礼拝堂に入れていくとしてもどのくらい時間がかかるのか見当もつかない。だが人々はおとなしく順番を待っている。この国の人たちは待つことには慣れっこになっているようだ。翌日、アンナさんに「昨夜、アレクサンドル・ネフスキー修道院に大勢の人が集まってたけど、何か重要な行事でもあったの?」と聞いたが、「すみません。私、宗教のことはあまり分かりません。」

夜の11時からホテルのナイトクラブで"Strip tease show"があるというのを見て、妻が行きたいという。入ってみるとどこかの国の団体客が30人くらいテーブルを囲んでいる。ショーはすでに始まっていたが、団体客もほとんどが年配の夫婦連れであるせいか、ストリップチーズといっても胸さえ出さない大人しいもの。メニューにあるカティサークを注文したら「ウィスキーは黒ラベルしかありません。」ショーは15分くらいで終わったので、団体のうち近くの席にいる男性に「どちらから?」と英語で聞いてみたが通じないらしい。話している言葉はドイツ語でもなさそうだ。身なりからして日本で言えば農協の団体さんと言う感じだ。あたりの人がいっせいに一人のおばあさんを指差す。「英語ならこの人。」といっているらしい。おばあさんが私のほうに椅子を寄せてきて、「私たち、フィンランドから来たんですよ。」「飛行機で?」「いえ、バスで。10時間くらいです。」そうか、地理関係がまったく頭に入っていなかったけれど、フィンランドとロシアは隣国で地続きだし、ヘルシンキとペテルブルグは東京と名古屋くらいしか離れていないのだった。「このあたりは昔は私たちの領土だったのよ。」っていったい何時の話だ?


July 5, 2006 =Wed=

ホテルの部屋のテレビで英語のニュースを見ていたら、北朝鮮がついにテポドンを発射したらしい。6発打ったけれどみんな日本海に落ちたとのこと。朝食の前に昨日が誕生日だった息子に例の公衆電話から電話を入れると、「今、仕事で利尻島に来てるんだけど、近くにテポドンが落ちたらしい。」

今晩の列車でモスクワからサンクトペテルブルグに移るので、今日はいつもより1時間早い8時半の出発。

まずロシアの民芸品、マトリョーシカの工場を訪れ、絵付けに挑戦。マトリョーシカは幾つもの木の人形が入れ子になっているのだが、職人が轆轤を回すとあっという間に菩提樹の木が削られて上下がピタリと合う空の人形の形ができる。それに見本に倣って水彩絵の具で絵付けをしていく。左の写真、右が私の、左が妻の作品だ。どちらが芸術的センスがあるかは一目瞭然。だが、プロの作った本物は右の写真の通り。

マトリョーシカのあとは「黄金の環」と言われる都市群のひとつ、セルギエフ・パサードのトロイツェ・セルギエフ修道院(Троице−Сергиева Лавра)を訪ねる。トロイツェとは三位一体の意味。ロシア正教総本山のひとつだ。ここはカメラ100ルーブル、ビデオ150ルーブルを払えば撮影もOK.
 
ロシア正教といえば東京・御茶ノ水にあるニコライ堂がなじみ深く、私もオフィスに出勤するのに御茶ノ水で降りるとニコライ堂の前から坂を下って神田に行くのだが、ギリシャに暮らした私たちには正教といえばギリシャ正教の方が身近に感じる。だが、本来はロシア正教とかギリシャ正教とかいうのは教義上の区分ではなく、どちらも東方正教会の別称に過ぎず、それぞれ「ロシアの正教」「ギリシャの正教」という程度の違いらしい。東方正教会とローマカトリックももともとはひとつのものがローマ帝国の分裂後東ローマ帝国と西ローマ帝国とで別々の展開を行ってきたものが、1054年にローマ教皇とコンスタンティノポリス総主教の相互破門により分裂が決定的になった。正教の中で一番信者の多いのがロシア正教であり、日本にも正教はロシアから伝わったことから、日本では正教といえばロシア正教というのが一般的だ。日本で正教をハリストス教会とも言うのは、ロシア語でもギリシャ語でもキリストの頭文字は"X"(英語の"Christ"の"Ch")であり、その読み方がハリストスとなるため。クリスマスを「X'mas」と書くのもここから由来している。
 
昼食の後はプーシキン美術館。昨日のトレチャコフ美術館がロシア美術主体だったのに対して、こちらは西欧美術のコレクションが多い。モロゾフ、シチューキンという二人の実業家によるコレクションが中心で、もともとモスクワ大学附属美術館だったが、1937年に文豪プーシキンの没後100年を記念してこの名前に改称された。プーシキンは短編小説「大尉の娘」くらいしか読んだことがないが、本来は詩人としての名声が高い。ロシア語の詩では翻訳も難しいので日本にはあまり紹介されていないのだろう。ここは彫刻は巨大なダビデ像をはじめほとんどがレプリカだが、絵画は特に印象派を中心に見ごたえがある。去年の秋から冬にかけて東京都美術館で、今年の初めから春にかけて大阪国際美術館で、それぞれ「プーシキン美術館展」を朝日新聞社の主催でやっていたので、この間は多くの作品が日本に行っていたはずだ。この美術館はカメラはOKだがビデオはだめとのことで、ビデオでの静止画撮影はいいのだろが誤解を招かぬよう予備のデジカメを持っていった。
 
美術館を終えてモスクワでの観光予定は終わったので、ツアー旅行の常としてお土産屋さんへ。ロシアのお土産といえば定番はマトリョーシカらしいが、狭い我が家ではこうした飾り物を買って帰るときりがないので、買うとしても食べ物以外のお土産は原則として買わないことにしている。観光客向けのお土産屋といえば派手派手しい店を想像するが、ここは地下にあって看板も出ていない。入口でウォッカを振舞ってくれたのでお酒も売っているのかと思うとお酒は置いてない。頼まれていたキャビアと妻の事務所員のためのチョコレートを買う。
 
夕食のレストランはホテルの2階にあり、1階はカジノになっている。夕食を済ませるとカジノを通ってホテルのトイレに行き、歯を磨いたり顔を洗ったりの寝支度をする。サンクトペテルブルグ行きの列車内では支度するスペースもないからだ。カジノを通ったとき、その中に"Erotic Club 911"という、アメリカ人が見たら目を剥きそうなネーミングのナイトクラブがあった。
 
ペテルブルグ行きの急行は23時50分、定刻に出発した。パンフでは二等寝台とあったが、添乗員ががんばったのか一等寝台に格上げされていた。確かに狭いが、去年のトルコでのアンカラ・イスタンブール列車と同じくらい。われわれはスーツケースも二人でひとつだけなので、その分スペース的には楽だ。コンパートメントには新聞や週刊誌が置いてあるのだが、どれもロシア語のものばかり。一人ずつミネラルウォーター一本と朝食用だろうかお弁当セットが付いている。トルコでは朝食は食堂車だったが、こっちでは朝食はペテルブルグに着いてからレストランで取ることになっているので、このお弁当はお持ち帰りにした。(イクラの瓶詰めやフォアグラのペーストなど結構量もあって、帰国後2日分くらいの朝食になった。)困ったのはコンパートメントに電源がないこと。ビデオカメラの電源は予備用も含めて一日で使い切るから、夜に充電できないと翌日は使えない。通路に出てみたら、それぞれのコンパートメントの前に折りたたみの小椅子が付いていて、ちょうどわがコンパートメント前の椅子のところにだけ電源のタップがある。これ幸いとプラグアダプターを差し込んで充電を開始。しかしモスクワは治安が良くないと聞いていたので、部屋の外に大事なビデオカメラを置いておくのは気になり、夜中もときどき扉を開けて盗られていないことを確認したが、そのうち面倒くさくなって寝てしまった。朝起きてあわてて確認したが、カメラは無事に充電が終わっていた。



July 4, 2006 =Tue=

ロシアに着いて3日目の朝、昨日と違って空は晴れ渡っていた。白夜ではないと言うが、明るくなるのも早い。今日もホテル発は9時半とゆっくり。朝食前に昨夜見つけたレストラン脇の公衆電話から妻の事務所へ電話を入れる。クレジットカードの認証に時間がかかるが、ダイヤルするとすぐに繋がる。日本側の電話がコールしているのを確かめて妻に電話を代わる。すぐ相手が出たようだが、何かおかしい。相手の声はこちらにはっきり聞こえているのに、向こうにはこちらの声が聞こえないらしい。もう一度かけなおしてみても同じ。今度は私が自分で出てみるが、先方は「聞こえないので切らせていただきます。」と断って切ってしまう。諦めかけたときに、"Press to talk"と書かれたボタンに気づく。もう一度かけてみて、相手が出たらこのボタンを押してみる。Bingo!見事繋がった。これで公衆電話のかけ方もばっちり。

今日は、ロシア美術最大の宝庫、トレチャコフ美術館(Государственная Третьяковская Галерея)へ。今回のパッケージ旅行のタイトルは『ロシア芸術感動絵巻8日間』となっていて、美術館巡りが主体なのだ。時々ロシア文字を書いているのは、むかし学生時代にロシア語の文字だけでも読めたらと思って「初等ロシア語文法」という本を古本屋で買ってロシア文字を少し勉強したのと、もともとギリシャ文字とロシア文字に似ているところがあることから、多少は文字が読めることを示したい気持ちがあるから。そういう目で街を歩いていると、ロシア文字の標識や看板につい目が行く。すぐに覚えたのは「CTOП」という交通標識。そう、英語のストップをそのままロシア文字で書いている。本来がロシア語の単語は分からないものの、英語などと共通の言葉が書いてあると読みやすいし意味も見当がつく。取れちゃコフ(どうしてもこう変換されてしまう)じゃない、トレチャコフ美術館の「ゴスダルストヴェナーヤ・トレチャコフスカヤ・ギャラリーヤ」の最後のギャラリーヤは英語のギャラリーのことだ。残念なことにここもビデオやカメラでの撮影は禁止。せっかく新しくビデオを買ってきたのに。この美術館は、ロシアの実業家トレチャコフ氏のコレクションによるロシア美術で、特にイコンを中心に集められており、入り口で見た感じに比べて中はとてつもなく広い。ここでもイリーナさんの説明で効率よく観て回る。しかしイコンと言うのは素人目にはどれも同じように見えるし、写真も撮れないのでは、もう一度同じものを観ても覚えてはいないと思う。

午後はモスクワ郊外の団地を訪れ、5〜6人ずつの3組に分かれて市民の家庭を訪問。それぞれに日本語ガイドがつく。われわれが訪ねたのはダイアナ妃を少し所帯窶れさせたような奥さんの家で、自分でも意識しているのか台所の冷蔵庫には家族の写真と共にダイアナ妃の写真も貼ってある。ご主人は建築家、今年大学を出て勤め始めた長男と、大学の医学部に通う次男との四人暮らしで、日本で言えば3DK。広さは約80uとのこと。こちらは我々夫婦とおばさん方四人組で私のほかは女性ばかり。彼女たちの関心はもっぱら家賃のこと。このアパートの家賃が月一万円と聞いてため息が出る。だが、と疑問は、「希望すれば誰でも入れるの?」「入れます。」「でも、もし空きがなかったら?」「だから今あちこちで建設してるでしょ。」「それもみんな一万円?」「いや、もっとかかります。」「だったら誰だって安い方がいいでしょ。」どうやらこの団地は特殊なケースらしく、建ったのはソ連時代だが、もともとはこの一家が働いていた工場の敷地だった。それを団地にしたときに、彼女たちも労働力を提供した。敷地の所有企業の労働者で、かつ労力も提供したことから、優先的な入居権が与えられ、賃借ではあるが払い下げも受けられるらしい。これとは別に、郊外に「別荘」(ダーチャ)を建設中で、夏休みに入った息子たちも建設作業をしていると言う。「別荘」というのは大げさで、実質は「郊外にある菜園付きの木造小屋」といったところらしい。手作りのお菓子とお茶をご馳走になる。


July 3, 2006 =Mon=

ホテルは、シャンプーやリンス、歯磨きなどの備え付けがないことを除けば広さや清潔感などまずまずと言える。朝食も思ったより悪くない。昨夜遅かったこともあって今朝は9時半の出発。ノヴォデヴィッチ修道院を湖越に見て写真を撮ったあと、赤の広場へ。ウラジオストックの大学で日本語を学び、結婚してからモスクワに来たというと言うガイドのイリーナさんの説明はなかなかスムーズ。「赤の広場」の「赤」は、ソ連共産党や赤旗の赤とは関係なく、古いロシア語で「美しい」という意味。ただ、赤の広場ではワシリー寺院(写真左)もレーニン廟(写真右)も外から眺めるだけで、中に入ったのはクレムリンの向かいに立つグム(Гум)百貨店だけ。中央に吹き抜けを設けた3層建ての百貨店モールは壮大だが、イリーナさんに聞いてみたら郊外にはもっと大規模なショッピングセンターができているとのこと。この辺も日本と似たような状況らしい。赤の広場近くのレストランで出された昼食の壷焼きは、どこかで食べた記憶があると思ったら、新宿のロシア料理屋でだった。

天候は、ときどき小雨が降ったかと思うと日が射してきたりで安定しない。昼食の後はクレムリンの武器庫へ。名前は武器庫だが、現在はロシア王朝の栄華を示す博物館になっている。王族の乗った馬車など収蔵品はとても見ごたえがあるが、残念なことに7月から館内でのカメラ撮影は禁止になっている。身長が207cmというピョートル大帝は器用な人で、武器庫に収蔵されている長靴は大帝自身が製造したものという。

ホテルへの帰着は4時半。夕食まで時間があるのでホテル近くにあるという24時間営業のスーパーマーケットへ行ってみることにする。示された方角に行ってみると、小さい店がいくつも集まってはいて、"24цаса "(24時間)と書かれたものもあるが、スーパーマーケットらしいものは見当たらない。辺りにいる人に"Supermarket?"と聞いてみるのだが、英語が通じない。そうこうしているうちにたまたま添乗員の浅見さんとガイドのイリーナさんが通りかかったので聞いてみると、道を渡ったところの円形の建物だと言う。行ってみるとさっきと同じような小さい店がいくつか纏まって入っていて、これがいわゆるスーパーマーケットらしい。店は単なる食料品店で、どの店も並べてある商品はほとんど同じ。坂野の燻製やハム・ソーセージ、チーズ、水、ビール、菓子類など。ここで水とビール、チョコレートを買う。ホテルのレストランでの夕食は魚のムニエル。ワインは各自で買ってセルフサービスというが、およそ愛想のないこと夥しい。赤ワインを頼み、飲み終わって二杯目を買いに行くと「赤ワインはもうない」と言われ、白ワインに変える。

妻が、旅行中に新宿の事務所に電話をかける用事があるというので、ホテルのフロントに「パブリックフォンはどこ?」と聞いたら、そんなものはないという。添乗員からはホテル内にも公衆電話があると聞いていたのだが、電話なら部屋からかけろという。部屋からかけると高いから公衆電話を探しているのだが、そもそも"Public? I don't understand what you mean by 'public'"と来た。添乗員に聞いてみると、「すみません。公衆電話の場所が改装中で使えないらしいです。」それで諦めていたのだが、夕食に二階のレストランに上がって行ったらレストランの隣にちゃんとクレジットカードの使える公衆電話があるではないか。

夕食が済んでも時間が早く、相変わらず外も明るいので、バーで一杯やることにした。生演奏をやっているが客は私たち夫婦のほかは一組だけ。妻はビール、私はウオッカに黒オリーブを取る。飲んでいる間、新しい客は一組も入ってこなかった。疲れていたのでシャワーを浴びて早めに就寝。


July 2, 2006 =Sun=

成田に7時30分集合ということで、4時半に起床、残り物で軽く朝食を済ませ、5時45分の始発のエアポートリムジンで成田へ。安いツアーなのでソウル乗り継ぎの大韓航空。ソウルでの乗継時間が5時間近くもある。ソウルまでのBoeing-747では案内によるとインターネット接続可能とある。早速手持ちのパナソニックLet's Noteを起動し、無線接続を試みると簡単に繋がった。だが、ボーイングのポータルから先に進むには1時間$9.95をクレジットカードで払わなければならない。2時間なら$14.95、3時間なら$17.95、さらに$26.95払えばフライト中無制限アクセス可能で24時間以内であれば乗継便でもOKとなっている。しかし、インターネットに繋いでWebサーフィンをやったりメールを読んだりするだけで最低10ドル払うというのもちょっと抵抗がある。日曜日の今日では大して新しいメールも入っていないだろうから、やるとしても帰りにしたほうがいい。機内のインターネット接続は機体がボーイングだからできるのかと思ったら、ソウルから乗り継いだモスクワ行きの大韓航空機はエアバスだったがこちらでも同じように接続可能だった。

ソウルからモスクワまでは9時間ほどのフライトだが、やはりコストヴァのペーパーバックを読むのは難しく、結局逢坂剛を読みながら過ごした。時間通り午後8時20分にモスクワ・シェレメティボ空港に到着したが、ここからはロシアらしい対応が待っていた。まずイミグレーションに異様に時間がかかる。並んでいる途中でロシア人用の窓口が外国人にも解放されたので韓国人のグループの中に混じってそちらに移ったが、列がなかなか進まない。それもそのはず、他の列は一列なのにわれわれの列はひとつの窓口に3列くらいに並んでいる上、係員はパスポートをことさら丹念にチェックしている。結局外へ出たのは着陸から一時間以上過ぎた10時前。ところが外はまだ日本の夕方並みの明るさ。今は白夜の季節なのだ。イミグレーションで遅れたのに、われわれを乗せるバスも交通渋滞の故だとかでまだ到着しておらず、空港を出発したのは10時過ぎ。これでも外は明るく、バスの窓からビデオ撮影が十分にできるほどだった。

モスクワ郊外のイスマイロヴォ(ИЗМАЙЛОВО)ホテルに着いたのは11時半。流石に外は暗くなっていたがそれでもまだ空には明かりが残っていた。


July 1, 2006 =Sat=

明日からロシアなので、出発の準備に半日が潰れた。といってもモバイルPCの充電とと買ったばかりのビデオカメラの使い方を調べるのが主な仕事。5時過ぎに空港宅配のABCからスーツケースを取りに来れば後はあまりやることはない。妻の方は留守を預るはずの事務員のお母さんが亡くなって一週間休むと言うことで、仕事のカバーがまた大変だ。帰ったら確実に手助けを求められるだろう。

橋本龍太郎元首相が亡くなった。歯科医師連合会からの闇献金問題で地検が橋本氏の起訴を見送った直後だ。あの不起訴は彼の病状を勘案してのことだったのか。テレビのニュースでは中曽根元首相が出てきて何か悔やみの言葉を述べていたが、巨悪・中曽根の方はまだまだ元気そうだ。

日経新聞の「私の履歴書」今日から小松左京だ。これは楽しみ。だけど明日からは暫く新聞は読めない。




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