Travel to Antarctica (南極旅行記)



番外 

← 日本でも観光地によくある、看板の穴から顔だけ出して写真を撮るやつ。ブエノスアイレス・カミニト


こちらは本物の人間がポーズをつけてくれる。同じくカミニト →
ウシュアイアにはこの季節、どこでも見かけるルピナスの花 →
← フエゴ国立公園の樹木には寄生植物が共生する。球形のものはやはり寄生植物の一種で、地元の人たちはこれをチャイニーズ・ランタンと呼ぶ
上陸用のゾディアックボートから望むマルコポーロ号
       ↓
     ↑
← 初めてわれわれの前に現れた氷山は蒼い光を発していた
チリ海軍の南極観測基地にはマリア像が立ち、世界の主要都市の方角をペンギンたちに示している →
ペンギンや鯨の常食にして、南極の食物連鎖の基礎であるオキアミ → フエゴ国立公園にある、世界最南端のゴルフ場
       ↓
← 双子の子供たちに口移しでえさを与える母ペンギン
ハーフムーン島にて  ↓ ←これを食べると、もう一度ウシュアイアに戻ってくるというカラファテの実。これをジャムにして売っている


January 10, 2007 =Wed=

出発は夜の飛行機なので、朝はゆっくりし食事をして午後からブエノスアイレス北方のデルタ地帯にあるティグレという町に向う。Tigreは英語のTigerと同じ虎を意味する。ティグレはデルタ地帯を縦横に走る水路の町。両岸は緑の木々が茂り、ブエノスアイレスに住む人たちが別荘を立てて週末を過ごしている。もちろん、別荘ではなく個々を住処としている人たちもいる。遊覧船で水路を通っていくと、週末を楽しむ家族連れが日光浴をしたり泳いだりしている。水は茶色に濁っているが、決して汚い水ではないそうだ。ガイドのIさんに、ここで暮らすのに生活費はどのくらいかかるのか聞いてみたが、アルゼンチンの人々は自分の収入がいくらか、生活費にどのくらいかけているのかなど、絶対に明かさないので分からないという答え。温暖で、農作物や酪農が豊かで、資源にも恵まれているこの国は、おそらく統計で見る以上に豊かなのだろう。

私たち夫婦は、今はまだ私も会社勤めをしており、妻も仕事を持っているが、完全に引退したら海外の物価の安い国に移住するか、それが適わなくても長期ステイのような形でもいいかと考えている。アルゼンチンなんかもいいかもしれないのだが、難点は日本から余りに遠いことだ。今回もこのブエノスアイレスからアトランタまで10時間余り、それから4時間ほどの乗り継ぎで成田まで14時間半。合わせて29時間ほどを機内と空港の中で過ごさなければならない。前にアルゼンチンを訪ねたのはパナマに駐在しているときだから、いったんマイアミに出て乗り継いだもののそれほど大した時間でもなかった。日本からの出張では一番遠いのがニューヨーク経由でのサンパウロだった。あのときは9.11の最中だったため、帰りは米国経由の飛行機が使えず、ヨーロッパ周りで結局地球を一周する羽目になったのだが、会社の出張だったから全行程ビジネスクラスだった。考えてみればエコノミークラスでこんなに遠くまで来たのは初めてだった。やはりアルゼンチンでの長期ステイは難しそうだ。

January 9, 2007 =Tue=

午前中に下船だが、下船時刻まで余裕があるので朝食はブッフェではなくメインダイニングにする。同席になった一人旅の英国人女性がしきりに時間を気にしているので、「どうしたの?」と聞くと、あと30分で下船なのに注文した食事がなかなか出てこないのだという。何しろ500人近い乗客がいるのだから、グループによって下船時刻もだいぶ違うようだ。スーツケースは昨夜のうちに集められているし、船内での支払の一括精算もクレジットカードなので、下船当日にすることはほとんどない。桟橋に降りると、向かい側に「ブレーメン」という名前の船が停泊している。瑠璃子さんによると、この船は三菱重工が建造し、以前は「フロンティア・スピリット」という名前だったが、ドイツの船会社が購入し、「ブレーメン」に改名したのだという。この名前を聞いて「あっ」と気付いた。「ふろんてぃあ・スピリット」といえば、以前、「フロンティア・クルーズ・ジャパン」という会社が運行していた船だ。たしか、日本郵船の子会社だったと思うが、私と同期入社のM君がこの会社に出向し役員をやっていた。フロリダのフォート・ローダーデールに本拠を置き、船の運行管理をやっていたのだ。そういえば「フロンティア・スピリット」は南極とか余り普通のクルーズ船が行かない辺境地などを専門にしていると聞いた。M君も船で船員同士のトラブルがあったりすると現地に飛んで仲裁に当たったりしていたはずだ。船を手放したとすると、その会社ももう清算されているのだろうか。「マルコポーロ」は明日からもう一度南極への航海に出るそうだが、「ブレーメン」も同じく南極へ向けて出航する。二隻合わせて約80人の日本人ツアー客がいるそうだ。

またガイドのエマニュエル君が迎えに来ている。「マルコポーロ」に乗る前の大晦日の日、マルティアル氷河を見に行く予定が、リフトの運行係員が早退してしまっていたため行けなかった。それで今日、ブエノスアイレスに発つ前に行こうというのだ。今日はリフトはちゃんと動いている。小雨が降り出したので、リフト乗り場で黄色のレインコートを借りる。リフトはスキー場にあるようなもので二人乗り。かなりの距離を登っていく。終点に着いてさらに歩く。昔はリフトの終点近くまで氷河が来ていたそうだが、今は少々歩いても氷河には辿り着けない。せいぜい地上で眺めるよりももっと近くに氷河が望めるという程度だ。帰りはエマニュエル君が、「リフトで戻る人はリフトで、歩ける人は歩いてもいいよ」というので、徒歩で下山。船の中で余り体を動かさない生活が続いたので、久しぶりの運動になった。

ウシュアイアの空港は人でごった返していた。何しろマルコポーロ号の乗客だけで500人、そのほとんどが外国人で、ブエノスアイレス経由でそれぞれの国に帰るのだから。500人ではジャンボ一機でも乗り切れない。混みあう中で、例のアトランタから来た黒人の教授夫妻と再会する。ブエノスアイレスでチェックイン後、行方不明になっていた荷物はウシュアイアの空港で見つかったそうだ。アメリカ人たちはわれわれより早いチャーター機でブエノスに向うとのこと。

飛行機がブエノスに着く前、たまたま隣に座った添乗員Sさんのところへ客室乗務員がやってきて「申し訳ありませんが、到着が国内線用の飛行場から国際線用空港の方に変更になりました。こちらのグループの乗継便などに不都合はありませんか?」と聞いている。Sさんはこともなげに{ああ、いいわよ。」これにはこちらが驚いて、「いいって、バスの手配なんかも大丈夫なの?」と聞くと、「バスにはガイドもいますから、国内線空港での掲示を見て国際線空港に向うはずです。それよりラッキーなんですよ。飛行機が遅れてるから夜のタンゴショーの時間に間に合うか気にしてたんですけど、国際線の方がずっとホテルに近いんです。」という説明に納得。空港に着くとSさんの言うとおりバスとガイドが迎えに来ていた。バスが動き出したとたん、Sさんが「ちょっと待って!」と叫ぶ。一人足りないようだ。そのとき、空港の係員がバスのドアを叩く。「日本人の女性が一人倒れている。」Sさんとガイドが顔色を変えて飛び出していく。なかなか戻ってこないので、私が様子を見に行く。到着出口の近くに救護室があるので入ってみると係りのおばさんが一人だけ。「ハポネサ ドンデ」と聞くとなにやら答えるのだが分からない。「アブラ イングレス?」「ノー」と英語も通じない。だが、おばさんがしゃべる言葉の中に「トランキーロ」という単語が聞き取れた。おばさんの身振り手振りと合わせて考えると、安静にしていればいいので、休養室に連れて行った、と言っているらしい。救護室を出てバスの方に向うと、向こうからSさんとガイドもやってくる。どうやら私が推測したとおりらしく、日本語とスペイン語の通じるガイドさんが付き添って残ることになり、出発する。後で聞いた話だと、倒れた女性は一人旅で船のキャビンも一人部屋だったが、両隣のアメリカ人が毎晩深夜まで騒ぎ、睡眠不足だったらしい。そこに飛行機での高度差などが加わって貧血を起こしたようだ。

シェラトンにチェックインした後、夕食つきのタンゴショーに出かける。店はABASTOという大きなショッピングセンターの角にあるEsquina Carlos Gardelという店。カルロス・ガルデル(1987-1935)は伝説的なタンゴ歌手で、フランスのツールーズで私生児として生まれ、二歳のときにアルゼンチンに渡り、この近くで母と二人で暮らしていた。ABASTOの角に彼の大きな像が立っている。その名を冠したこの店も結構有名らしい。食事の方は今ひとつだが、80歳の男性ダンサー(名前は聞いたが失念した。)が娘のダンサーを相手に踊るタンゴは渋い味があってなかなか良かった。


January 8, 2007 =Mon=

船は明け方にウシュアイア港に入港、今日は港に停泊したままもう一晩船に泊まることになる。午前中は船会社主催のオプショナルツアーでビーグル水道のクルーズ、午後はやはり船会社主催で無料のフエゴ国立公園ツアーがある。

南米大陸の南端はいくつもの島でできている。ウシュアイアのあるフエゴ島もマジェラン海峡で大陸とは隔てられているのだが、フエゴ島よりさらに南の島々を隔てているのがビーグル水道で、ウシュアイアもこれに面している。1930年代にダーウィンが乗り組んだビーグル号がこの海峡を通過したことから名づけられたと言う。

ビーグル海峡クルーズはマルコポーロ号が着岸した桟橋からもっと小さい観光船に乗り換えて出発する。ガラス張りの室内に座席が用意されているが、外のデッキにも出られる。デッキは船から張り出していて金属製の簀子板になっている。出発してすぐに見えてくるのが赤と白に塗り分けられた灯台。なぜか、台湾映画の「ブエノスアイレス」にもこの灯台が登場するそうだ。船はペンギンに似た海鳥が無数に棲息している島とか、あざらし(Seal)やあしか(Sea Lion)が群れをなしている島などをいくつか回る。この船にも写真屋さんが乗っていて、お金を出せばそうした島を背景に専門家のカメラと技術で撮影してくれる。グループの長老のKさんもカメラマンに写真を撮ってもらっていたのだが、われわれと船内で談笑している最中、「あ、耳栓を失くした!」と叫んだ。耳栓といっても実態は補聴器。それもNASAの技術を応用したとかで一つ数十万円する代物だそうだ。外の簀子板のデッキで落としたのなら間違いなく海中に消えてしまったはずだが、ご本人は確かに船内で失くしたというので、シートのしたの救命胴衣の隙間などに紛れ込んでいないか探したが見つからない。ご本人はすぐにあきらめて「もういいですよ」と言うのだが、値段が高価なこともさることながら、日常生活に必要不可欠なものだけに、みんなでもう一度徹底的に探したがとうとう見つからなかった。

クルーズを終えて桟橋に戻るともう昼食どき。船のレストランで昼食は用意されているのだが、ずっと同じ船で食事を続けていたので、われわれ夫婦は船に戻らずウシュアイアの町のレストランに入った。妻は船なら無料で食べれるのにお金を払ってレストランで食事をするのに少し抵抗があるようだが、たまたま見つけたのが"Casa del Marisco"という、パナマで良く行ったレストランと同じ名前だったのに惹かれたこともあった。

昼食を終えてウシュアイアの街を少し散歩して桟橋に戻る。ゲートのところで、入れ違いにこれから街に行くという男性と出会う。妻のダンスのパートナーだ。彼は一枚のメモを渡してよこす。彼の婚約者だという人の住所と電話番号が書かれている。住所は練馬区、名前はIさん。「今度日本に行ったら彼女も入れて一緒に食事でもしよう。」という。船に帰って、そのメモを添乗員のSさんに見せると、「え!あのIさん!」と驚いていた。IさんもかつてSさn添乗による南極旅行グループの旅行客だった。おそらくそのときに彼と知り合ったのだろうが、Sさんも気付かなかったらしい。SさんはIさんに気に入られたのか、家に招かれたこともあるという。「今どき東京で水琴窟のあるお庭なんですよ。すごい豪邸です。」若いSさんが水琴窟なんて知っていることに驚いたが、Iさん邸で実物をみているから知っていて当然なのだろう。

明朝、船を下りるので、今夜は荷造りが大変だ。特に来るときには持ってなかったパルカと長靴が二揃い荷物に加わったのだから、いくら大きいスーツケースを持ってきたといってもこれだけで二つのスーツケースそれぞれの半分を占めそうなのだ。


January 7, 2007 =Sun=

大部分の乗客は、朝食は堅苦しい(ように見える)シッティングを敬遠してブッフェのほうで摂る。だからシッティングの方はいつもがらがらに空いている。で、たまにはシッティングの方にしようと行ってみると、案の定がら空きだ。にもかかわらず年配の大柄な米国人がわれわれのテーブルに同席を求めてくる。彼はカンザス州の人口2000人ほどの小さな町で銀行と農場を経営しているという。貸出残高はどのくらいかと聞いてみると30百万ドルだという。日本では信用組合にも及ばないほどの規模だが、ファミリー経営でpresidentの地位は息子に譲り、今は会長職についている。農場のほうは娘婿に任せているそうだ。父方の祖父は1870年にイングランドからこの地にわたり、農場と小さな銀行を起こした。父親の代になって別の小さな銀行を買収し合併した。今は68歳で、80になる兄と一緒に旅行している。私有財産制を賛美し、今の基礎を築いてくれた先祖に感謝しているという。じゃあ、共和党支持者かと聞くと、「もちろん。去年の中間選挙でもカンザスでは共和党が勝った。カンザスの二人の上院議員は共和党が占めている。その一人はむかし大統領選挙に立候補したドールだ。自分もドールとは懇意にしている。」これはイラク問題を持ち出したり、ブッシュ批判をしたりすると険悪になりそうだと判断して、当たり障りのない話題に変える。彼は以前、オオニシという姓の日本の13歳の少年をホームステイで預かったことがある。「言葉が通じなくて困ったが、同じ時期に預かったドイツの子供がとても腕白だったのにくらべて、日本の子供はとても礼儀正しかった。」貰った名刺にはカンザスの田舎町の名前を冠した銀行の名前があり、肩書きは"Chaiman of the Board"とある。広大なアメリカには町ごとにこうしたファミリー経営の小さな銀行があるのだろう。

今日は10時半から下船に関する説明会があったほかはほとんどやることがない。昨夜は良く寝たはずなのにまだ眠り足りないと言う妻を部屋に残し、ロビーにさまよい出る。ネットを繋ぐと日本ではこの週末、大荒れの天候らしい。船はまだ揺れているとはいえ、南極のほうが穏やかなのかも知れない。ロビーではクイズゲームが始まっている。聞くともなしに聞いていると、「日本の正式なティーセレモニーはどのくらい時間がかかるでしょう?@1 hour、A2 hours、B3 hours、C四hours」クイズ参加者の目が一斉に私のほうに向けられる。中には指を広げて「1?、2?」と露骨に聞いてくる奴もいる。冗談じゃない、日本人だからって茶道の正式なお点前の所要時間を知っているとは限らないよ、と思いつつも、やはりばつが悪く、席を立つ。一階上のチャールストンクラブに寄って見ると、絵画が運び込まれて20人ほどが集まっている。カウンターでバーボンを注文し、「オークションやってるの?」と聞くと「あと10分で始まるよ」カウンターからグラスを片手にオークションのほうに席を移して見物してみた。どうやら一回のオークションで決めるのではなく、航海中に何度かのオークションを行い、前回の値段を引き継いでいくシステムのようだ。

夕食はドレスコードがセミフォーマルの指定。といってもそんなにいろいろと衣装を持ってきているわけでもないので、フォーマルのときとほぼ同じ服装にする。なぜセミフォーマルなのかというと、明日ももう一晩この船に泊まるのだが、クルージングもほとんど終わりなので今日のディナーではレストラン側の挨拶があるのだ。というのも、明日はクルーズ中のチップをまとめてボーイなどに渡すことになっている。今日はそれに先立っての挨拶となる。クルーズ中はルームサービスを頼んだような場合を除いて原則チップ不要。最終日に封筒が配られ、そこにチップを入れて渡す。封筒は4枚あり、それぞれ部屋付のボーイ用、レストランの担当ウェイター用、皿を片付ける係用、チーフウェイター用となっており、それぞれにrecomended amountが明示されている。その金額はあくまで目安だから、サービスの評価によってはそれより増やしても減らしてもいいが、ほぼ全員がフィリピンからの出稼ぎである彼らにとって、チップは安い給料を補填する重要な財源なのだ。午後8時ごろ、南米大陸最南端のホーン岬を通過。

January 6, 2007 =Sat=

南極旅行最後の上陸はハーフムーン島。ここではゾディアックボートの舳先を砂浜に突っ込み、舳先のほうから一人ずつ海に足を下ろして上陸する。ここのペンギンは昨日までのゼンツーペンギンと違ってアゴヒゲペンギン。顎の辺りに髭のような筋が入っているのでこう呼ばれる。昨日に続いて今日も快晴。ペンギンから5m以内にはこちらから近づいてはいけないことになっているが、ここのペンギンはどうかすると向こうから近づいてくる。エクスペディションチームの英国人女性サラの立っているあたりに行くと、足元にペンギンの卵が4つある。聞いてみるとトウゾクカモメに襲われて中身を食べられてしまったのだ。愛嬌のあるペンギンもつらい生活を強いられているのだが、ペンギンを襲う鳥の方だってトウゾクカモメなんて酷い名前を付けられているが、生きるため、子育てのためには必死なのだろう。

船では毎晩大ホールでショーが繰り広げられる。そこで歌い、踊っているシンガーやダンサーたちは、昼間は乗組員としての仕事を持っている。トークショー専門の、丸顔で坊主頭の男性がいる。彼の英語の話芸についていけるほどの英語力はないが、一人でのトークショーでいつも爆笑を誘っているから、日本で言えば「綾小路きみまろ」みたいなものかもしれない。ハーフムーン島からの帰り、ゴム長靴をはいて乗客をゾディアックボートに誘導している野球帽を被った大男を良く見ると、トークショーの「きみまろ」氏だった。「あんた、本職はエンターテイナーなの?それともこっちの仕事?」と声をかけると「こっちだよ。」との返事。

帰船して昼食を済ませたあたりで出航。空はどんよりと曇ってきた。船は荒波のドレーク海峡に向かう。妻が昼寝をしたいと言い出すので、邪魔をしないようにこちらはラップトップを持って船室を出る。8階中央部にあるロビーで無線LANに繋ぎ、ニュースやメールをチェックする。日本では渋谷の歯科医の家で、浪人中の次男がタレント志望の妹を殺害し、遺体を切断すると言う事件が起きている。グループの中に70代の歯科医のご夫婦がいるので、このニュースを伝えると絶句しておられた。ちなみにわれわれのグループで長老格はこのご夫婦と一人旅のチョコレート工場経営者。この3人は飛行機もビジネスクラスだった。このほかに夫婦連れはわれわれを含めて3組だが、驚いたことにこの3組6人のうち4人が妻と同じ税理士なのだ。一組はご主人が公認会計士で税理士、奥さんも税理士で最近米国公認会計士の資格も取った。もう一組のご主人は監査法人勤務の公認会計士だったが、定年になり税理士事務所を開業した。他に男性は熊本から来られた女性用衣料品店経営者、母子連れで30代の男性でウェブデザイナー、それ以外はすべて女性で、30代の独身の女医さん、年齢不詳の独身の司書、60代の姉妹、某有名企業の幹部だったご主人を数年前に亡くした未亡人、昨年ご主人に先立たれ傷心旅行の奥さん、南極は二度目という女性等々。添乗員のSさんは英国のカレッジを出てキャセイ航空でスッチーをやっていただけあって英語も流暢だし、南極旅行にも精通していて若いながらとても頼りになる。長い休みが必要な旅行なので、リタイア世帯が多いのかと思っていたが、少なくとも男性はみんな現役なのが意外だった。もう一つの日本人グループは、われわれよりずっとセレブな様子で、噂によるとスイートルームを三つ使っているとか、何とかの宮のご親戚がいるとか。それだけに傍から見てもうるさ型が多いらしく、余計なことだが人のよさそうな男性添乗員の苦労が偲ばれる。

揺れがだんだんとひどくなってくるので、夕食後は流石に妻もダンスを諦めて早めに就寝。

January 5, 2007 =Fri=

内側の船室なので窓がないのだが、テレビをつけると上甲板に設置されたテレビカメラが常時甲板の様子をモニターしている。モノクロ画面だが甲板を歩く人の影がくっきりと映れば陽が射している証拠だ。朝一番の上陸だが、今日は快晴らしい。ゾディアックボートの着く先はパラダイス湾。今日の上陸こそが島ではなく南極大陸に足を下ろす第一歩となる。このあたりにはチリとアルゼンチンの基地があり、両国とも南極半島の領有権を主張しているそうだが、アルゼンチン領のウシュアイアから出向したわれわれが訪れるのはチリ空軍の南極基地。ここにはちゃんとボート用の桟橋も用意されており、小さな土産物店まである。もっとも売っているのは絵葉書とTシャツくらいのもの。ここからも絵葉書にスタンプを押して投函できる。ここに来たという証明書(Certificado)が3ドルというのでこれを買うことに。fecha(日付)は入れるからnombre(名前)は自分で書け、というのに、"Nombre tanbien, por favor"と頼んで名前も"Sr & Sra Katayama"と書いてもらう。ここも昨日と同じゼンツーペンギンが基地を囲んで暮らしている、というか営巣地の中に基地を建てたようなもの。天気もよく風も穏やかで雄大な氷河、マルコポーロ号の船体、それにペンギンたちの姿が絵になる。ペンギンたちが海で泳ぐ姿や生まれたばかりの子供に口移しで食物を与える姿はビデオカメラの絶好の対象だ。同じ船の研究者が採集したオキアミ(krill)を見せてくれる。ルーペで見ると小さい体ながら目が大きい。ここでも多数のゼンツーペンギンが子育てをしているが、やはり双子を育てる母ペンギンに目がいく。

船に戻り昼食を取った後は、瑠璃子さんによる南極観光の始まりに関する話が面白い。彼女の亡くなった夫であるリンドブラッド氏はノルウェー人で、南極だけでなく未開の地を旅する自然探求ツアーの開拓者で、いまでも関係者からは「エコ・ツアーの父」と呼ばれている。ツアー参加者とモンゴルの草原でテントを張っているとき、次はどこに行くかと言う話になり、当時世界一周路線を持っていたパンナムの地図にも載っていない南極と決めた。米国、英国の政府機関に相談したが、南極に観光などとんでもないと剣もほろろで困っていたとき、アルゼンチンの将軍が家族を南極基地に連れて行っているという話を聞き、伝を頼って頼み込んだら案外気軽に引き受け、アルゼンチン軍の船を利用して同国の基地を巡るツアーができた。ところがワシントンのチリ大使館から電話がかかり、「わが国の領土である南極半島にアルゼンチンの船で行ったと聞いたが」とのこと。さらに「大統領が話があるのでサンチャゴまで来てほしい。」恐る恐る出かけると、「うちでも船も基地もあるので使ってもらいたい。」とのこと。渡りに船だったが、そこは商売人で、「イースター島へのツアーも許可してもらえるなら」との条件付で引き受けた。(以下略)

快晴で暖かいので、今日はジャグジーが大人気となる。昨日まではほとんど使う人がなく、われわれ夫婦以外は数人の日本人とあと台湾人が二人ばかり使っているのを見かけただけだが、今日は白人たちも何組も南極の露天風呂を楽しんでいた。

夕食前に日本人客だけを対象にしたカクテルパーティが行われ、南極の氷を入れた飲み物が振舞われる。水割りのグラスを耳元に近づけると、氷山に埋もれていた空気がぱちぱちと弾ける音が聞こえる。氷はさきほどのパラダイス湾からの帰路、スタッフが採集してきたもの。このカクテルパーティではわれわれの団体の長老お二人が手品を披露。

夕食後は妻はダンスに熱中しているが私は一眠り。船内新聞によると11時44分が日の入りだと言うので、11時半に甲板に出てみるとすでに日は沈んだあとだった。妻によれば日が沈んだのは11時過ぎくらいで、ダンスの最中だったがとても美しかった。私を呼びに行く間もなく沈んでしまったとのこと。妻のダンスのお相手は、この船に乗船しているプロのダンスホスト3人のうちの一人。60歳を超えたくらいの年齢だが、日本人の婚約者がいる。彼は日本語は話せないし、婚約者も英語は得意ではないが、何とかコミュニケーションは取れている。彼女とはこの船で知り合ったとのこと。

January 4, 2007 =Thu=

今朝も昨日と同じ6時半の起床。今朝は南極でもっとも美しいと言われるラメール(le Maire)海峡を通過するのだ。青空が広がり太陽も照る絶好の天気だし、昨日の経験から言っても寒さはたいしたことはないだろうと、パルカは着たものの手袋なしで上甲板に出たら、思いのほか風が強く、カメラやビデオを操る手は凍りつきそうだ。南極半島とブース島の間の海峡を北から南へ進み、南の端でUターンして今日の上陸地であるポート・ロックロイに向かう。流石にここまでくると氷に覆われた山や黒い地肌に氷河を頂く景色は雄大かつ荘厳と言うほかない。今日は朝食後は11時15分集合のゾディアックボートまで何もすることがないので、昨日で味を占めた妻がまたジャグジーに行こうという。今日もジャグジーの周囲には誰もいないが、服を脱ぐと昨日とは比べ物にならないほど寒い。気温も違うが風の影響が大きいようだ。われわれが入っているのを見て台湾人の夫婦も入ってきた。ジャグジーを出て水着にタオルを纏っただけでしたの階へ降りると、パルカを着込んだアメリカ人から"Oh! Crazy!"と呆れられてしまった。

船内アナウンスでゾディアックボートの予定が30分遅れることが知らされる。今日、葉書をフロントに出せば、下船地にある英国の基地から出せると言うので売店で絵葉書を3枚購入し、息子、娘の宛名を書く。もう一枚は記念のため自分自身のアドレスを記す。遅れて出発したゾディアックボートは昨日より揺れが大きい中、上陸地のポート・ロックロイに接岸する。この島は多くのゼンツーペンギンの生息地になっている。島に近づくと例の南極香水の臭いが漂ってくる。身長は50cmくらいだろうか、数え切れないほどのペンギンが子育てをしている。中には双生児と思しき子ペンギンを育てている親もいて、双生児を身ごもっている娘を想起する。ペンギンはそれぞれ適当は大きさの小石を集めて巣を作るのだが、要領のいい(あるいは小ずるい)ペンギンもいて、他のペンギンの巣から小石を横取りして自分の巣に運んでいる奴もいる。取られた方のペンギンもしきりに抗議しているのだが、自分がまだ卵を抱いているらしく、なかなか防御できない。ペンギンの世界も世知辛い面があるようだ。「置いてくるのは足跡だけ。持って帰るのは写真と想い出だけ。」と瑠璃子さんから何度も注意される。その言葉の通り、帰りのゾディアックボートに乗るときは、乗組員が乗客の長靴に付いた泥(ペンギンの糞?)を海水とブラシで洗い落としてくれる。泥さえも持って帰ってはいけないのだ。帰りのボートは往路よりもずっと激しい揺れだった。

船に着くと、アトランタからの飛行機で隣り合わせた黒人の大学教授夫妻と再会する。彼らはブエノスアイレスで二泊して、ウシュアイアに着いて直接船に乗船したのだが、4個の荷物のうち一つがなくなっていたという。(後に見つかってウシュアイアの港に保管されていたことが判明。)話していると、夫婦で東京に旅行したことはあるそうだが、奥さんの方は近江八幡に行ったことがあるという。ミシガン湖と琵琶湖という共通点から、奥さんが教育長をやっていたミシガンの市が近江八幡と姉妹都市だったので、仕事で行ったとのこと。

January 3, 2007 =Wed=

6時半に起床して7時に9階の甲板に出る。ドレーク海峡は完全に抜けたようだ。流石に寒く、昨日支給されたパルカを取り に戻る。船はデセプション島に差し掛かり、小さいながら氷山が船の周囲を流れ始める。北極圏を舞台にしたダン・ブラウンの小説に"The Deception Point"というのがあったが、デセプション島と言うのも変わった名前だ。デセプション島は海底火山が噴火してできたカルデラで、馬蹄形をしている。19世紀のはじめ、オットセイ猟の船が嵐を避けるべくこの島の周囲をめぐるうちに、思いがけなく馬蹄の割れ目から内海に入り、難を逃れた。入り口がないと思っていたのが騙されたように入れたのでデセプションと名づけられたそうだ。ここは活火山で、近くでは海水が地熱で暖かくなっているところもあり、昔はここで下船して南極での海水浴もできたというが、今は観光客の下船は禁じられている。その代わりというわけでもないが、船の上の方の階の船尾部分にジャグジーが3つ設けてあり、いつも湯気を上げている。いわば露天風呂だが、寒いので誰も使っていない。昼食後に思い切って妻と水着を下に着て行き、少し霙交じりの雨が降る中、着ているものを脱いで見たらさほど寒く感じない。そのままジャグジーに入るとなかなか気持ちがいい。周囲に誰もいないのをいいことに、水着のまま甲板に出て氷山をバックに写真を撮る。ジャグジーのあとはタオルで身を包み、甲板の階段を一つ下りたスポーツジムのサウナで体を温める。

夕方になってパルカと長靴を身につけて集合場所に集まる。これから順番にゾディアックボートに乗り、クーヴァーヴィル島周辺で一時間足らずのクルージングを行う。ゾディアックボートでの上陸の予行演習のようなもの。ボートはペンギンの営巣地のある島のすぐそばまで近づく。小さなペンギンたちがあるいは集まり、あるいはよちよち歩いている。ペンギンの主食がオキアミであるため、営巣地はペンギンの糞に含まれるオキアミの殻で赤っぽい色をしているのと、それが発酵して独特の臭いが鼻を襲う。瑠璃子さんによれば、これは「南極香水」といって南極の香りなのだそうだ。夕方と言っても日の入りが23時50分ぎという当地のこと、まだ十分に明るい。ボートのすぐそばを流れる氷山の幻想的な青い色が美しい。

船では毎日船室に船内新聞が配られる。無論中身は英語だが、添乗員と瑠璃子さんが要旨を邦訳した日本語新聞を配ってくれる。だから普通は日本語の方を読んでいるのだが、ふと英語版に目を通すと、ロビーなどパブリックスペースでは無線LANが利用できるとある。美容室の隣にネット・センターがあって、ここでインターネットや電子メールを使えるが、料金がばか高いと聞いていたのであきらめていた。しかし無線LANが使えるならと思って持参のラップトップで試してみると簡単につながった。だが、実際に利用するのは有料で、接続時間により50ドル、100ドルのコースがあり、ほかに時間当たり単価は少し高いが1分75セントと言うコースもある。50ドル、100ドルコースでも使い残した時間分はリファンド出来ないとのことなので、1分75セントで繋いでみる。朝日新聞のサイトで日本のニュースをチェックしたら、日本では余り大きなニュースもないようだ。メールも年賀メッセージがいくつかあるほか、重要なものは入っていない。なにしろ日本もまだ年始の休みが明けていないのだから。



January 2, 2007 =Tue=

朝起きて船室の床を見ると、入り口の扉から何か差し込まれている。手に取ると日本 の「お年玉付年賀状」だ。差出人は添乗員。なかなか心 憎い演出に感心する。昨夜からドレーク海峡を渡っている筈なのだが、夕食後に飲ん だ船酔い止めの薬が効いたのか、良く眠れたし、それほどの揺れも感じない。南米大陸と南極大陸との間のドレーク海峡は、太平洋と大西洋を結ぶ海峡でもあり、海が急に狭くなっているため海流も早く、風も強いので、小さい船だと文字通り木の葉のように揺れる、魔の海峡と聞いていたのだが。

朝食にメ インダイニングに行くと、フリーシッティングのはずなのに「日本人か?」と 聞かれて夕食時に割り当てられた日本人グループの席に案内される。こちらとしてはむしろいろんな国の人 たちと接触したいのだが、先方は気を利かしてくれているつもりなのだろう。朝食後 はすぐに講義が始まる。最初はこの船に乗船している「南極エクスペディションチー ム」のメンバー紹介と「南極のエコロジー」についての講義。あらかじめ渡されているイヤフォンを耳に当てると日本語の同時通訳が流れてくる。同時通訳はエクスペディションチームの一員でもある瑠璃子・リンドブラッドさんだ。エクスペディションチームのメンバー紹介で瑠璃子さんの名が呼ばれ、彼女も舞台に上が ってきた。耳元では彼女本人の紹介が日本語で流れている。なんだ、通訳も録音だったのか、と思ったところ、舞台の上 の瑠璃子さんの口が動いているのに気づく。なんと正真正銘の同時通訳で、司会者が彼女の紹介をするのを本人が壇上からマイクで同時通訳していたのだ。二つ目の講座「 南極の海鳥たち」が終わるともうランチタイム。今度はメインダイニングではなくブ ッフェのほうに行き、日差しの当たる甲板に出て食事にする。陽があるので暖かい。 どうやら一日中食べてばっかりのようだ。昼食後も二つのセミナーをこなし(と言い ながらもだんだんと眠くなってきて、講義内容はあまり頭に入らない。)、フォーマ ルに着替えて船長主催の歓迎レセプションへ。入口で船長と記念写真を撮るほかは、 船長からクルーの紹介がある程度。船長はノルウェー人で機関長はギリシャ人。他にもさまざまな国籍のクルーがいる。パーティに続いてはフォーマルのままディナーへ 。

部屋に戻ると赤いパルカと白い長靴が届けられている。ゾディアックボートで上陸するときなど、このパルカと長靴を着用する。パルカは支給、長靴はレンタルと聞いていたのだが、水虫など衛生上の問題があるので今年から長靴も支給されることになったという。"Antarctica 2007"の文字が入ったパルカはともかく、長靴なんか貰ったって日本で使うことはありそうもないのだが。

January 1, 2007 =Mon=

午前中はフエゴ国立公園(Parque Nacional Tierra del Fuego)の観光。公園内を巡る観光列車が出ている。京都・嵯峨野のトロッコ列車みたいな列車だ。駅に着くと昨日ホテルでカウントダウンの生演奏をやっていた人たちがここでも演奏している。駅の周囲には、ウシュアイア市内の家々の庭と同様、ルビナスの花が咲いている。列車が進む園内には、ここが国立公園に指定される前、流刑の囚人たちによって切り出された木の切り株が並んでいる。熱帯雨林地帯と異なり、寒冷地のここでは伐られた森はなかなか再生しないのだ。

列車を降りて再びバスに乗ると、次は同じ国立公園内にあるラパタイヤ湾(Bahia Lapataia)へ。ここは、はるかにチリ領の山々も望む最果ての湾の景色の美しさだけでなく、アラスカから北・南米大陸を貫くパンアメリカン・ハイウェイの終点(もしくは起点)なのだ。むかし、パナマに住んでいた頃、パナマ運河にかかるアメリカンブリッジを渡って米軍基地にあるオロコゴルフ場に通ったものだが、そのアメリカンブリッジのパンアメリカン・ハイウェイの一部だ。しかしその頃、ハイウェイは貫通してはいなかった。ダリエン・ギャップと言って、パナマからコロンビア国境にかけてのダリエンと呼ばれるジャングル地帯で途切れていたのだ。パンアメリカン・ハイウェイが通じていると信じて自転車で縦断旅行を試みた日本青年が、ジャングルの中、自転車を担いで崖を攀じ登り、なんとか所期の目標を達成したとの話も聞いたことがある。当時のパナマ政府は、ハイウェイを完成させない理由を「コロンビアから口蹄疫に罹った牛が入ってくるのを防ぐため」としていたが、実際には国境地帯のジャングルにはコロンビアで栽培されている麻薬の精製工場があり、これを隠しておきたいためとも噂されていた。だが、添乗員のSさんによれば、数年前に開通したとのこと。ラパタイア湾に向う道路もパンアメリカン・ハイウェイの一部だと言うが、大型バスがすれ違うのも難しいほどの狭い道で、現に向こうからやってきたバスとのすれ違いに10分以上かかった上、先方のバスのバックミラーが壊れ、こちらのバスにも傷がついたほど。この道路の左右の原生林には、チャイニーズ・ランタンと呼ばれる球形の寄生植物や、茸の一種で木の枝に固い瘤をつくるインディアン・ブレッドなどが見られる。そしていよいよパンアメリカン・ハイウェイの最終地点に着くと、「アラスカまで17,848Km」の標識があった。

と、ここまではいわば前座の観光で、今回の主目的である南極への旅はこの日の午後、ウシュアイアの港からマルコポーロ号に乗船するところから始まる。マルコポーロの就航は1965年。1991年から93年にかけて全面的にに改装されたとはいえ、船齢42歳はかなり年季が入っている。総トン数22,080総トン、全長176.3m、全幅23.6m、喫水8.2m。乗客定員は876人だが、南極クルーズの場合500人を超える乗客は認められないので定員を500名未満に抑えている。乗組員も最大350人だが、今回は200人くらいだろう。船長などの幹部を除き、乗組員のほとんどがフィリピン人だ。最低ランクの部屋を選択したわれわれのキャビンは5階の船尾部分261号室。ツインベッドだが一つのベッドの上部に折りたたみ式のベッドが付いていて3人部屋としても使える。シャワーとトイレ、洗面台、衣装戸棚、机、セーフティボックスなどが付いている。キャビンは4階から7階、9階から11階にあり、8階は大小のラウンジとブッフェ形式のレストラン、カジノ、カードルーム、売店、パーサーズデスクなど。シッティング形式のメインダイニングは6階に、9階にはクラブ、10階にはスポーツジムと美容室、11階にはジャグジーもある。プールは8階のデッキにあるが、さすがに水は張られていない。今日のイベントは避難訓練。各自キャビンに備え付けの救命具を身に付け、キャビンごとに指定されたマスターステーションに集合して点検を受ける。その後はシッティングのメインレストランで座席の指定。日本人グループはわれわれが添乗員を含め22人、それにもう一組13人のグループがいて、二つのグループはまとめて日本人エリアを指定される。シッティングは午後6時からのメインシッティングと8時半からのレイトシッティングがあるが、夕食の早い日本人はメインシッティング。これから夕食は原則としてここでとることになる。朝・夕はここで摂ってもいいし、もっと気楽なブッフェの方でもいい。どこで食べようと食事はすべて代金に含まれている。アルコール飲料だけは有料になるが、それを含め、売店での購入やエステサロンの支払など船内の支払はすべて乗船時に渡されるPassenger Cruise Cardでの決済となる。このカードは乗船中有効で、最終日に現金で決済してもいいし、クレジットカードに付け替えてもいい。

December 31, 2006 =Sun=

午前中のアルゼンチン航空で地球最南端の街ウシュアイアへ。飛行機はカラファテ行きとなっている。ウシュアイアでほとんどの人が降りるが、機はそのまま最終目的地のカラファテに向う。カラファテはウシュアイアのあるフェゴ島よりもずっと北にあるので、ブエノスアイレスから来た飛行機はウシュアイアから戻る形になる。地球最南端の街(本当はチリ側にはもっと南にも集落はあるが、漁村程度で街の体はなしていないそうだ。)が売り物のウシュアイアは小さいながら綺麗な街だ。まず市内のレストランで蟹料理の昼食。ここの蟹はセントーヤという、パナマで食べていたのと同じ種類らしい。レストランの前はすぐ港で、われわれの乗るマルコポーロ号がすでに停泊している。

「世界の果て博物館(Museo del fin del Mundo)」というのがある。どんな博物館かと思えば小さな民家のような建物で、展示は3室しかない。むかし、このあたりが流刑地だった頃の町の様子を伝えている。いったんホテルにチェックインする。ホテルはウシュアイア郊外のLos Cauquenes Ushaia Hotel & Spa。海の際に建つ、ロッジ風のなかなか素晴らしいホテルだ。テラスからの眺めがまた素晴らしい。ホテルに荷物を置いて、再びバスに乗り、マルティアル氷河(Martial Glacier)へ向う。スキー場のリフトのようなのに乗って氷河の近くまで行くことになるのだが、リフト乗り場に着くと扉が閉まっている。予約してあったのに係員が大晦日だから帰ってしまったらしい。ガイドのエマニュエル君(左の写真中央)が携帯電話で交渉するが埒があかない。まあ、ラテンだからよくあること。南極へ行ってきた帰りにまた来ればいいということになり、ウシュアイア市街に戻って浮いた時間は買い物に当てることになった。私は南極上陸用の帽子を買った。もちろん日本から帽子も持っては来たのだが、20年以上前の冬に北京に行って万里の長城に登ったときに当時の北京飯店の売店で買った熊皮の帽子なので、余りに大げさかつダサいから、ちょっと被るのを躊躇していたのだ。この街は、どこにいても氷河を抱えた山々が見える。特に特徴的なのはこのあたりの最高峰オリヴィア山(The Olivia・写真中央の尖った山)とその右にのこぎりの歯のように5つの峰が連なるファイブブラザーズ(Cinco Hermanos)だ。

ホテルに戻ると、夕食の後、ロビーでシャンパンが配られる。大晦日のカウントダウンが始まるのだ。2007年は世界最南端の街で迎えた。

December 30, 2006 =Sat=

デルタ101便は予定通り30日朝にブエノスアイレスに到着。隣の教授夫妻はこれからすぐホテルに入り、ブエノスアイレスで二泊してウシュアイアに向うと言う。われわれはブエノスは一泊でウシュアイアでも一泊。ホテルへのチェックインはせずにバスに乗り市内観光へ向う。ブエノスアイレスは二度目になる。パナマで現地法人社長をやっていた頃、中南米場所長会議がここであり、召集された。取引先である食料関係の財閥が船を提供してくれて、海としか思えない広さのラプラタ川をクルージングした記憶がある。東京からやってきた当時の社長Mさんも一緒だった。船舶部出身のMさんは船長帽を被り、舵輪を取ってご機嫌だった。バスに乗ってきた日系人ガイドのIさんに、「むかし、ラプラタ川をクルージングしたことがあるよ。」というと、Iさんは私に会った覚えがあるという。中南米場所長会議で東京やニューヨークから来た幹部や、中南米各地の場所長の世話をするのに、当時のアルゼンチン現地法人が日系人ガイドに手伝いを頼むことはありうるだろうが、それにしても20年近く前のこと、覚えていると言うのは勘違いだろう。だが、当時のアルゼンチン現地法人社長の名前を挙げて「Sさんをご存知でしょう?」なんて聞いてきたところを見れば、本当に覚えているのかも。

ブエノスアイレス市内観光はアルゼンチンタンゴ発祥の地ボカ地区のカミニトが中心だが、ペロン大統領の二度目の夫人エヴァ・ペロン(通称エビータ)の墓があるレコレータ墓地にも連れて行かれた。多くの墓が並ぶ巨大な墓地の中でもエビータの墓の前には観光客が多く集まっており、死後55年を経てなおエビータ人気の高さが伺われる。パナマにいた私としては、ペロンが亡命中のパナマで出会ったナイトクラブの踊り子で、後に彼の三番目の妻となるイザベルの方に関心があるのだが。

December 29, 2006 =Fri=

予約していた成田エクスプレスに乗るべく新宿駅に着いたら、「次の成田エクスプレスは車両故障のため池袋・東京間は運転を取りやめます。」ときた。慌てて中央線の乗り場に急ぎ、横浜方面から来る成田エクスプレスに間に合ったが、成田空港に着いて駅員に「指定列車が運休になったのに払い戻しはしないの?」と聞くと「こういう場合には払い戻しはしないことになってます。」だと。JRには頭にきたが、以降は順調に運び、デルタ航空に搭乗。長い飛行機の旅が始まる。デルタの777機エコノミーの座席はこの前ロシアに行った際の大韓航空機と比べて心持ち狭いようだ。デルタでは食事中1本のみアルコールは無料だが、それ以外のときは1本5ドル。

予定通りアトランタに到着。一人一人指紋と顔写真を撮るので時間のかかるイミグレーションを済ませてbaggage claimに行くと、すでにデルタ便の荷物は出ているのにわれわれ一行22人の荷物は一つとして見当たらない。アメリカではトランジットと言えども最初に着いた空港で荷物検査があるはずなのに、と添乗員も不審そうな顔で聞きに行くと、荷物はすでに乗り継ぎ便のほうに回っているとのこと。それで日本で荷物を預けるときにTSA対応のスーツケース以外は鍵をかけないで、と言われた訳が理解できた。TSA(運輸安全局)が持ち主の立会いなく荷物を検査する仕組みに変わったのだ。おかげで荷物検査の時間は省けたが、次の乗り継ぎ便まではかなり時間がある。アトランタ空港の書店でStevw Berryの"The Romanov Prophecy"を買う。先日読み終えた"The Amber Room"と同じ著者のペーパーバックだ。

アトランタからブエノスアイレス行きののデルタ便も満席で中央の席。隣に大柄の黒人男性が座った。通路を隔てた向こうには彼の奥さん。「君たちもマルコ・ポーロに乗るのかい?」と聞いてくる。「そうだよ。」というと「私たちも南極へ行くんだ。」「どこから来たの?」「ここ、アトランタだよ。」話していると彼ら夫婦はともにミシガンに住んでいたが二人ともリタイアして、第二の人生は寒いミシガンより暖かいところで過ごそうとジョージアにやってきたそうだ。現役時代の仕事は、彼は教育学が専門の大学教授。奥さんの方はsuperintendent of schools、つまりミシガン州のある市の教育長。小・中・高等学校まで約80校を管轄していたとのこと。

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