Diary


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December 27, 2007 =Thu=

出勤日が月、火、木なので、今日が今年最後の出勤となる。本当は一昨日も出勤日だったのだが、風邪気味なので休んだ。12日までは旅行だったから、今月は5日しか出勤していないことになる。家にいる時の方が忙しいくらいだから、「会社で仕事をしない生活」が当たり前に思えるようになってきた。こうして社会からフェードアウトしていくのもまたいいかもしれない。


December 21, 2007 =Fri=

年の暮れは行事が重なることが多いが、昨夜に続いて今夜は商社時代の仲間の忘年会。新橋の割烹店「安ん座」に、N君、H君、S君、T君と私の5人。この店は魚も新鮮だが、珍しい野菜も出してくれる。

私がペルーに行っていた頃、T君もエジプトへ旅行していたとのこと。彼はみんなにお土産を買ってきてくれていた。私のほうのお土産は話だけ。エジプトにはむかし、ギリシャから個人旅行で行ったことがあるが、子供たちがまだ小さかったこともあり、カイロとアレクサンドリアだけで、ルクソールやアスワンには行っていない。これもこれからの旅行計画のターゲットだ。H君、S君は鉄鋼関係の子会社で現役だが、私と同い年のN君は今年から完全フリーになり、絵画や陶芸に精を出している。こちらもそうした趣味がもてればいいのだが。


December 20, 2007 =Thu=

今の職場は商社のOB活用の場というか、定年を過ぎた人たちが契約ベースで勤務しているのだが、その中でも法務の経験を生かして活躍されてきた方が、再度の?定年に達して退職されることになり、今日がその送別会。六本木ヒルズの中華料理店で6時半からなのだが、私の勤務時間は4時までなので、空いた時間に同じ六本木の東京ミッドタウンに行ってみた。というのも、ここの海をイメージしたと言うイルミネーションが評判になっていると聞いたから。

ミッドタウンのガーデンテラスに出てみると、なるほど大勢の人たちがイルミネーションに向けて携帯電話のカメラやデジカメでシャッターを切っている。芝生に敷き詰められたブルーのイルミネーションが、海のように波打っている。暫くそれに見とれつつ、こちらも携帯のカメラを向ける。寒くなったので建物に入ると、ロビーでは男性ボーカルによるコンサートをやっていたので、少し聞いてからヒルズに戻り、送別会に参加。

送別会の帰り、ヒルズの周りを見回すと、こちらはミッドタウンのブルーに対抗してか、紅色のイルミネーションが輝いていた。


December 18, 2007 =Tue=

以前いた商社の監査部の友人二人と昼食。先月から勤務先が丸の内になったので、古巣とは目と鼻の先だが、仕事も違うのでなかなか会う機会はない。それでも久しぶりにとお誘いを頂いたのがちょうどペルーへの出発日だった。で、帰ってきてからということになり、会社近くの「かこいや」で。


December 11, 2007 =Tue=

今回のペルー旅行での雑事をまとめてみる。
  1. ホテル
    正直言って、ペルーでのホテル環境は最悪の事態を想定していた。そのせいか、実際は思ったより良かった。歯ブラシ、歯磨きはどのホテルにもなかったが、シャンプーやリンス、石鹸はちゃんとあった。旅行者からは、シャワーと室内に段差がなく水浸しになるかもしれないから海岸用のサンダルがあればもって行った方が良いと注意されていたが、そんなホテルはなかった。アグアス・カリエンテス(熱い湯)という名の町のホテルで、シャワーのお湯が出ないということはあったが、高地では熱いシャワーは禁物ということもあり、余り不都合はなかった。
  2. マイレージ・クラブ
    成田からロスへの往復は大韓航空、ロスからリマまでと、ペルー国内はラン・ペルーだったが、大韓航空はデルタと同じスカイ・パスのメンバー、ラン・ペルーは日本航空と同じワン・ワールドなので、デルタとJALのマイレージカードを出してマイレージの登録を求めた。窓口ではどちらも登録手続きをやってくれた。だが、デルタからは運賃の種類によっては登録対象にならないと聞いていたので、実際に登録されているかどうかは暫くしてデルタのホームページにアクセスして登録状況を確かめないと分からない。JALの方は登録できるようだが、搭乗券をよく見ると、JALのカスタマー番号でなくクレジットカードの番号を打ち込んでいたりするので、これも怪しい。
  3. インターネット
    モバイルPCを持って行ったが、時間がなくて使うことはなかった。しかし、ひところに比べてインターネット環境はずいぶん良くなっているようだ。ホテルには宿泊者用にネットに繋がったPCがあり、日本語環境も問題ない。プーノのホテルにいたっては、客室内に無線LANが入っているらしい(使わなかったから有料か無料かも分からないが)。それと、どんな町に行っても「INTERNET」と看板を出す店がある。ネットカフェのようだ。
  4. 携帯電話
    リマに着いて、荷物が出てくるのを待っている時、携帯電話のスイッチを入れると暫くしてメールが入る。見ると現地のローミング先からのウェルカム・メッセージが来ている。この海外でも使えると言う携帯電話は、出発直前に買ったので、本当に使えるかどうか心配だったが、メールも通話もまったく問題なかった。Iモードでのニュースサイトへのアクセスも問題なく、証券会社のサイトを通じてペルーから株の売買すらやってしまった。
  5. カメラ
    パナソニックの10倍ズームのほかに、雨天に備えて防水防塵機能のついたオリンパスを持って行ったのだが、砂漠地帯のリマやナスカはもちろん、二日に一度は雨が降るはずのマチュピチュでも天候に恵まれ、防水カメラの出番はなかった。パナソニックのメモリは2ギガのSDカードだが、最高画質で600枚程度撮りまくってもまだ余裕がある。デジカメって本当に便利なものだ。
  6. カメラ(2)
    私が使っているのはコンパクトデジカメだが、同じグループには立派なデジカメ一眼レフを駆使している人もいる。そんな中、妻と親しくしていただいた一人旅の中年女性Nさんからは帰国後に何枚も一眼レフで撮った写真を送っていただいた。私が撮ったナスカの地上絵は10日の記事に掲載したハチドリの部分図が精一杯だったが、Nさんの写真はいくつもの地上絵を見事な構図で捕らえていた。さすが、腕と道具の違いを見せ付けられた。
  7. カメラ(3)
    Mさんご夫婦と、その奥様のお父上Nさんのの3人連れ。Nさんは85歳とグループの最長老で、もともと師範学校出の先生。戦争中は航空隊におられたそうだが、この方がグループ32人の中で一番元気だった。デジカメではなくビデオカメラを持って、いつも先頭からみんなを撮影されていた。ビデオ同好会に所属し、編集もご自分でやられるとのことで、帰国後、DVD2枚に焼いたビデオを送っていただいた。
  8. トイレ事情
    ペルーでは、トイレに紙を流せない。そもそもここのトイレットペーパーは水溶性がないので、紙を流すとトイレが詰まってしまう。そこでトイレには屑篭が置いてあり、用を足した紙はこれに捨てる。その習慣がないわれわれは、最初のうちはつい便器の中に捨ててしまう。だが、慣れてくるとそれが当たり前のようになる。慣れた頃に帰国の途に着くのだが、ロスの空港でトイレに入ると屑篭を探している自分に気がつく。見ると足許に丸めたトイレットペーパーがいくつも捨てられている。中南米人の多いロスでは、つい便器の外に捨ててしまう人もいるようだ。


December 10, 2007 =Mon=

モーニングコールは今朝も4時半。6時にホテルを出てバスで10分ほどのナスカ空港でセスナに乗り、かのナスカ地上絵を見に行く。セスナは操縦士を含めて4人乗り、もしくは6人乗り。だから、乗客は一機あたり3人か5人。われわれのグループは32人なので、8~9機にぶんじょうすることになる。われわれの乗るのはコンドル・エアーといってナスカ遊覧飛行では最大の会社の飛行機だが、遊覧飛行は全部で8社くらいが運行しているので、管制塔の離陸許可は順番になる。われわれのグループだけが続けて飛べるとは限らないので、一機のフライトは30分くらいだが、全員が飛行を終えるのは何時になるか保証の限りではないとのこと。だが、空港にはわれわれのグループ以外、誰もいない。セスナは10分ほどの間隔で順調に離陸する。われわれ夫婦と一人旅のおばさんとが組み合わされ、3番目のセスナに乗る。パイロットと握手する時に一人1ドルずつチップを渡す。(機に乗り込むと、操縦席の横に張り紙があって、"Las proninas son bienvenidas" "Tips are welcome" "Benvenuta la mancia" "Pourboires acceptes" Trinkgeld Willkommen"と各国語で書かれ、その下に怪しげな文字でで「ちっぷありがとうございます」と手書きされている。)おばさんはパイロットの隣。妻はパイロットの後、私はその隣の席に着く。滑走路に出るとあっという間に離陸。ナスカ平原の上空に来ると、パイロットが機体を左右に傾け、ヘッドフォンを通して「ツバサノシタ、クジラ、クジラ」などと説明する。日本人観光客が多いのだろう、パイロットもそのくらいの日本語は話せるようだ。地上絵はクジラから始まり、三角、宇宙人、犬、猿、コンドル、蜘蛛、ハチドリ、フラミンゴ、オウムを上空から見る。絵を識別するのは最初は少し難しいが、慣れればなるほどこういうものか、と思う。上空からは思ったより小さく見えるが、フラミンゴ(これは奇妙な形をした鳥の絵で、アルカトラスとかアホウドリとかとも名づけられていて、定説はないようだ。)など長さが280mに及ぶ。

フライトの順番が早かったので、同じグループの人たちがフライトを終えて戻ってくるのを空港の前のホテルで待つ。このホテルのプールサイドでは鳳凰木が真っ赤な花をつけている。鳳凰木の種子は40cmほどもある鞘に入っていて、振るとマスカラのような音がする。実際に現地の人たちはこれを楽器の一種として使っているそうだ。鳳凰木は世界三大花木の一つで、マダガスカル原産のマメ科落葉樹。ほかの二つは火焔木(別名:アフリカン・チューリップ)とジャカランダだが、今の時期、ペルーではこの三つともが咲いている。
どうやら今朝のフライトはわれわれだけのようで、飛行はとても順調に進み、10時過ぎには全員が飛び終わった。時間が余ったのでさきほど出発したホテルに戻り、昼食まで休憩となる。部屋も使えることになり、睡眠不足の妻は一眠りするので邪魔しないで、と言う。仕方なく一人でアルマス広場へ出かけてみた。今度は昼間なので少し横道へも入ってみる。食べ物屋が多いが、米や野菜を売っていたり、またこのあたり、地鶏が有名なようで、鶏を売る店も多い。

昼食の後、まだ時間が余ったので、予定外だがナスカ土器のレプリカを製造販売している店に寄る。店主のトビーさんの父親がナスカ土器の製法を復元し、この工房を開いた。壁にかけてある父親の肖像は謹厳そうな紳士だが、トビーさんのほうはメタボなユーモラスな体型に相応しく、コミカルな演技でナスカ土器について説明してくれる。ナスカ土器の絵柄が、クジラ、サル、鳥など、地上絵と類似しているのも興味深い。

予定のスケジュールに戻って、ナスカ平原のパンアメリカンハイウェイ沿いに立つ櫓、ミラドールに登る。これはマリア・ライヘ女史が地上絵を観察するために建てた金属製の櫓で、ここから「手」と「木」の地上絵を見ることができる。約10mの高さで、一度に登れるのは10人と制限されている。ここから見ると、ナスカの地上絵がすぐ身近に見られるのもさることながら、この地上絵のすぐそばをパンアメリカンハイウェイがまっすぐに走り、地上絵を分断しているのが気になる。このあたりのパンナムハイウェイは有料になっているが、料金所の近くでは料金逃れのため砂漠に車を乗り入れて迂回する輩が後を絶たないらしい。こうして遺跡が荒らされていくのだが、それを取り締まるのに警官が配備されている。しかし、1000平方キロメートルにおよぶナスカ平原で、警官の数はわずかひとりなのだそうだ。

地上絵が描かれた目的については、暦法説、雨乞い儀式説など諸説があって確定していない。しかし宇宙人が描いたと言う説は、実際に現物を見てみると到底受け入れられない荒唐無稽なものだと分かる。帰国後、日本の官房長官がUFO論争に絡んで、「UFOがいなければナスカの地上絵なんて説明がつかない。」と言うのを見て、「何だ、このバカ」という印象を持った。
以上でペルー観光はすべて順調に終わったが、ここからリマまでパンアメリカンハイウェイの450kmが、そしてその後にはリマからロス、ロスから成田までと長いフライトが控えている。帰路のドライブ中、ガイドの森川君がペルーに貢献した二人の日本人について話を聞かせてくれた。一人はペルー最大の家電量販店を成功させたヒラオカ氏。もう一人はペルーの女子バレーボールを世界的水準に引き上げ、国民的英雄とされた加藤明氏。森川君はこの話の伏線として、われわれがリマに着いた最初の日に、ヒラオカ電気のビルと、加藤氏を記念したバレーボールの像を見せてくれていた。どちらも長くなるので、加藤氏についての説明を要約する。

1933年生まれの加藤明は、慶応大学時代からバレーボールの名選手として活躍し、卒業後は八幡製鉄の主将として世界選手権に出場後、現役を引退した。1961年に慶応大学バレーボール部の監督になり、弱体化していた同チームを全国制覇に導いた。しかし彼は、1964年の東京オリンピックで優勝した大松監督率いる日本女子チームの活躍にショックを受ける。翌年、ペルーから女子チームの監督要請があり引き受けるが、ペルー女子チームの余りのレベルの低さに愕然とする。日本からの遠征チームとの対戦はまったく一方的で、セットどころか1ポイントも取れなかった。加藤は、それまで上流階級のお嬢様チームだったのを、ペルー各地を回って人種に関係なく潜在的能力を持つ選手を集め、厳しい特訓を行う。選手の一部は加藤の厳しい指導に反発し、チームを去る。練習風景を取材したペルーのスポーツ記者たちは、加藤を「悪魔」と書き立てる。だが、彼は一切気に留めず、規模しい指導を変えることはない。練習を離れると、加藤は選手たちを自宅に招き、すき焼きを振る舞い、自らギターを弾いて、当時世界的にヒットしていた「上を向いて歩こう」を日本語で歌った。

厳しい練習の成果を試す機会は1967年に日本で開かれた世界選手権だった。政治的理由で共産圏各国が大会をボイコットし、参加国は日本、アメリカ、韓国、ペルーの四カ国だけだった。ペルーはまず日本と対戦し、1セットも取れなかったが、それでも以前と違って数ポイントはとることができた。アメリカとの対戦では最初の1セットをペルーがとった。だが、その後は奮起したアメリカに敗れた。監督との戦いでは、互角に近いところまで行ったが、結局は1セットも取れなかった。結果は3戦3勝の日本が優勝、選手一人一人の首に金メダルが下げられた。2勝1敗のアメリカが銀、1勝2敗の韓国が銅メダルだった。3戦3敗のペルーには屈辱感だけが残った。その時、ペルーチームの選手たちから一斉に歌声が上がった。「上を向~いて、あ~るこう」日本語だった。最下位チームの歌声に、武道館を埋めた観客席からは失笑が漏れた。だが、やがて失笑は静寂に変わった。ペルーチームの歌声の意味を、観客たちが理解し始めた。そのとき、信じられないことが起こった。日本チームの選手たちが、ペルーチームに駆け寄り、自分たちの首から金メダルを外して、ペルーの選手の首にかけたのだ。観客席はどよめき、ペルーの選手たちは今度こそ人目を憚らず涙を流した。

帰国後、選手たちは変わった。それまで加藤に指導されるだけだったのが、選手たち自身が考え、提案するようになった。その年、ブラジルで南米選手権が開かれた。南米ではブラジルがダントツの強さを誇っていた。その大会でペルーチームはブラジルを破り、全勝優勝した。リマ空港には大統領を初め、数万の群集がチームの凱旋を出迎えた。加藤と選手たちは英雄となった。選手が買い物をしても、店主は金を受け取ろうとしなかった。「あなたたちはペルー国民に自信と誇りを与えてくれた英雄だから」と。翌1968年には初めて出場したメキシコ五輪で4位入賞を果たした。

だが、大量の飲酒が加藤の身体を蝕んでいた。加藤は監督の座を降り、自ら育てた選手に指導を託した。1982年、加藤はリマ市内の病院で亡くなった。49歳の若さだった。ペルーの新聞は一面で加藤の死を報じた。ある者は協会で彼の冥福を祈り、ある者は深夜まで車のクラクションを鳴らし続けて彼の死を悼んだ。彼の育てたチームは、1988年のソウル五輪でついに日本を破り、銀メダルに輝いた。


December 9, 2007 =Sun=

もう慣れたというか、開き直ったというか、ともかく今朝も3時45分のモーニングコール。昨日クスコから来る途中にあったフリアカという町に空港があり、そこから7時過ぎの飛行機でリマに向う。リマにはガイドの森川君が迎えに来ている。リマからはナスカまでパンアメリカン・ハイウェイを450キロ南下する。今日一日は移動日というわけだ。

リマからナスカまでのパンナム・ハイウェイの両側はほとんどが砂漠地帯だが、時折砂漠の中に小屋のような建物が並んでいることがある。森川君の説明では、これは貧しい人たちによる不法占拠なのだそうだ。不法であろうと、この国では4年間住んでいれば合法的にその土地が自分のものになる法律がある。だから、こうした不法占拠は町の始まりなのだ。よく見ると不法占拠といっても誰か仕切る人がいるのか、一応都市計画のようなものが見られ、いずれ町の中心となる「アルマス広場」すらあるそうだ。もちろんこの段階では電気もないし、水だって水屋が売りに来るのを待たなければならないが、やがて店ができ、電気や水も来るようになるのだろう。

ナスカでのホテルは、今度の旅では初めてだが、ナスカで一番の高級ホテル。ナスカ・ラインズという名前で、ナスカの地上絵の研究に一生を捧げたドイツ人マリア・ライヘ女史が晩年を過ごしたのがこのホテル。ロビーには女史の肖像画や資料が掲げられている。女史は1998年、リマの空軍病院で亡くなり、ナスカ近郊に埋葬された。享年95歳。以前、週刊誌だったか月刊誌だったか、タレントの楠田枝里子がライへ女史と対談するのを読んだことがある。

ホテルに着いて夕食まで少し時間があるので、また外に出てみる。歩いて10分くらいで「アルマス広場」に着く。小さな広場だが、他に娯楽がないからなのか、夕暮れ時の広場は家族連れで賑わっていた。森川君から横道には入らないでくださいと念を押されていたので、広場を一回りしただけでホテルに戻る。

December 8, 2007 =Sat=

またもや4時半のモーニングコール。今日はクスコを朝6時に出発してティティカカ湖畔の町プーノに向う。最初のトイレ休憩に立ち寄った土産物店は、広い中庭にアルパカやピクーニャが放し飼いにされており、哺乳瓶に入れたミルクをやると人間の赤ちゃんのように喜んで寄ってくる。コカ茶の無料サービスもありおおらかなもの。因みにこのコカ茶はペルーではホテルを初めどこにでも置いてある。だいたいはティーバッグになっていてお湯を注ぐだけだが、コカの葉そのものの乾燥したのを噛む場合もある。このコカは、高山病に有効とされ、ペルーだけでなく隣国ボリビアでも極めて一般的なのだが、何を隠そうコカインの原料でもある。コカからどうやってコカインを製造するのかは詳らかでないが、コカ茶とコカインは別物であり、コカ茶に麻薬作用があるわけではなさそうだ。コカ・コーラは19世紀末にアトランタのジョン・S・ベンバートンなる人物が発明したのだが、彼は南北戦争で負傷し、その治療にモルヒネが使われたことからモルヒネ中毒になっており、中毒を解消する目的でコカインを入れた薬用シロップを開発した。それを水で薄めて出すべきところ、従業員が間違えて炭酸水で薄めたのが美味しいと評判になり、コカ・コーラの原型となった。1903年にコカインが麻薬として禁止されたため、それ以降はコカ・コーラにコカインは含まれていないという。

で、プーノに向うのだが、クスコの標高3400mに対して、ティティカカ湖の標高は約3800m。その途中に超えていくラ・ラヤ峠には看板が立っていて「LA REGION PUNO LES DESEA Feliz Viaje--Altitud 4335m.s.n.m(プーノ県は皆様に良い旅を祈ります。標高:海抜4335m)」

プーノのホテルに入る前にシルスタニの遺跡を訪れる。これはプレ・インカ時代からインカ時代にかけて造られた石積みの墓。ウマヨ湖に面した荒涼とした台地に、このような石塔状の墓がいくつも建っている。現地ガイドの話だと、こうした墓は日本と同じように家族単位で作られるそうだ。ここで標高4000m。

シルスタニからプーノの町までは近い。プーノは、ティティカカ湖畔の町というからロマンチックな綺麗な街を想像していたのだが、実際は他のペルーの町と同様に貧しい、ごみごみした街並みだ。自転車の前部に座席を取り付けた輪タクが走り回っている。ティティカカ湖には確か1986年にボリビア側から行ったことがある。出張のついでだから特に観光ということではなく、ラパスから車で連れて行ってもらったのだが、周囲には誰もおらず、神秘的な静けさに包まれた湖という印象だった。だが今度ペルー側から来て見ると、団体ツアーということもあるが、かなり現世的な雰囲気だ。「ティティ」とはケチュア語でインカの聖獣であるピューマを、「カカ」は石を意味する。ティティカカとは「聖なる石」というような意味になる。貰った資料によると、ティティカカ湖の標高は3809m、長さが198km、幅が69km、面積は8562平方㌔㍍、深さ(最深部)は284m、周縁部の長さ915km、体積は903立方㌔㍍、湖の中にボリビアとの国境線があり、ペルー領、ボリビア領がほぼ同じ。国境は両国の話し合いで決められ、領有についての紛争はないそうだ。

船に乗ってウロス島に向う。ウロス島はトトラという葦を組み合わせて造った浮島ということだが、行ってみるまでイメージが湧かなかった。船が島に着くと、民族衣装を着けたインディオの人たちが出迎えてくれる。まず、ウロス島といっても一つの島ではなく、トトラでできたいくつもの島の集まりだ。ここには日本人ガイドはいないので、ペルー人のガイドが説明するのを添乗の後藤さんが通訳する。島の土台はトトラの腐葉土みたいなものを50㌢立方くらいに固め、これをビニール紐でつなぎ合わせてつくる。昔はつなぎ合わせるのにもトトラを使ったが、今はより強く安価なビニールに代わられた。その上にトトラを縦横に組み合わせて重ねる。土台は数年はもつが、上のトトラは二年に一度くらい取り替えなければならない。島の上に造られる家もトトラだし、島と島とを行き交うパルサという舟もトトラで造る。トトラは食用にもなる。試しに少し齧らせてもらったが、お世辞にも美味とはいえない。トトラの家、夏は涼しいだろうが冬は寒そうだ。

ホテルに戻ると夕食にはまだ少し時間がある。そこでまた市場を探しに出る。15分ほど歩くと市場が見つかった。ここはかなり大きな市場だが、構成は前に見たアグアス・カリエンテスの市場と基本的に変わらない。ここでは一軒だけだが魚屋もあった。ティティカカ湖で獲れた鱒が売られていた。

December 7, 2007 =Fri=

ここアグアス・カリエンテスは現在は駅名だが、もともとは村の名前。今は村はマチュピチュ村となっている。その名の通り温泉の町で、ホテルからウルバンバ川の支流沿いに少し遡ったところに温泉があるという。温泉といっても温水プールのようなものだが、高地では温泉や風呂に入ると血液の循環が良くなりすぎて高山病にかかりやすい。だから風呂はシャワーくらいで済ませておくよう、添乗員から繰り返し注意されている。だが、その心配はない。ホテルの部屋のシャワーからはアグア・カリエンテ(お湯)は出ず、寒さをこらえながらアグア・フリオ(冷水)のシャワーで済ませた。

今朝は7時半のモーニングコールだが、早めに目が覚めて早めに朝食も済ませ、9時の出発まで時間があるので外を歩いてみることにした。現地の人たちの生活がよく分かるのはやはり市場だ。ホテルのフロントでマーケットの位置を教えてもらうが、どうやら教えてくれたのは観光客向けの民芸品マーケットのようだ。そんなのに興味はないので、道行く人(ここではみんなインディオの人たちだ。)たちに「ドンデ・エスタ・メルカード・デ・カルネ・イ・ペスカド?(肉や魚を売っている市場はどこ?)」と片言のスペイン語をつなぎ合わせて訊いてみる。誰もが親切に教えてくれるが、「ここをまっすぐ行って、その先を・・・」のその先以降は理解できない。それでもまっすぐ行ったその先あたりでまた、「ドンデ・エスタ?」とやればいい。それで何とか小さな市場にたどりついた。肉のコーナー、野菜のコーナーがあるが、どれも一坪か二坪くらいの店で、個人で出店している。だから同じような店がいくつも並んでいる。肉屋には鶏肉、豚肉が売られているのだが、冷蔵庫というものがない。魚屋は市場の中には見当たらなかった。
今日はインカ道のミニ・トレッキング。インカ道の本格的なトレッキングとなるとそれだけで普通は3泊~4泊。長ければ一週間くらいで4200m近い高地にも上る。テントや食料を担いで行かなければならず、それ専門のポーターもいるらしい。だが、われわれのは昨日のマチュピチュ遺跡を一望するポイントあたりからインカ道に入り、比較的なだらかな坂を一時間半ほど登って太陽の門に至り、そこから折り返して下り道は一時間弱で帰ってくるというお手軽コース。それでもホテルで杖を貸してくれるので一本借りていった。
インカ道を進むに連れて高度も上がり、マチュピチュの遺跡を見下ろす角度が様々に変化するのが面白い。一人旅のカナダ人や、ガイドを連れた英国人の夫婦などに声をかけながら追い越していく。途中、マチュピチュ山に登る道が分岐する以外は一本道だから、迷う心配はない。このインカ道、征服したスペイン人も「こんな立派な道はわが国にもない。」と驚いたそうだ。インカ帝国の最盛期、北はエクアドルから南はチリに及ぶ大帝国。その情報伝達にはインカ道を飛脚が走ったそうだ。各地にタンボ(宿場)があり、そこを飛脚が駅伝方式で伝える。その飛脚を「チャスキ」と呼ぶ。駅伝で「タスキ」を渡すのはここから始まったのかも、と赤井さんがいたずらっぽく説明する。

インティプンク遺跡の入り口でもある「太陽の門」に着くと、見張りの男性が腰を下ろしている。例によって片言スペイン語の会話。
「何歳?」「34」「この仕事、何年やってるの?」「16年」「子供は?」「いるよ。14歳と12歳の男の子と、それから4歳の女の子。あんたは?」「うちも男の子と女の子だけど、もう大きいよ。日本のキャンディ(甘梅)食べる?」「ありがと。うまいね。」「ここ、ゴミ捨てちゃいけないよね。」「貸しな。後で捨てといてやるよ。」と、この程度なら通じる。

帰りは下りなので順調。乗り合いバスの停留所に行くと、ペルー人の修学旅行らしい一行がバスを待っていて、これだとなかなか乗れないかなと思ったが、われわれを先に乗せてくれた。アグアス・カリエンテスに戻り、ホテルの集合まで少し時間があるので、朝行った市場にもう一度行ってみた。市場の二階に上がると、広大な食堂になっていて、インディオの人たちが昼食を取っていた。われわれの昼食は駅近くのココス・ハウスという店。ここの二階には何やら猥褻な壁画があるのだが、他の人たちは気がつかなかったようだ。
帰りもビスタドームの列車に乗る。来た時はオリャンタイタンボから1時間半だったが、今度はオリャンタイタンボを通り越してポロイまで約3時間の乗車。車窓からは遠く万年雪を頂いたアンデスの山々が望まれる。

軽食のサービスが終わってしばらくすると、後の方が騒がしくなる。振り返ると、道化師に扮した車掌が通路を進んでくる。音楽に合わせて奇妙な踊りを踊っている。それが済むと、こんどは「ファッションショー」が始まる。軽食サービスや土産物販売を担当する男女ペアの職員がアルパカのセーターやショールなどを着て車内の通路を練り歩く。来る時の列車でも、この地方で見かけるペルー人と比べてやけにスタイルがいいと思っていたが、理由はこのファッションショーにあったのだ。

ところでこのアルパカだが、ペルーではどこに行ってもアルパカのマフラーだのショールだのを売りに来る。動物としてのアルパカもあちこちで見かける。アルパカは動物学的分類では、ウシ目・ラクダ亜目・ラクダ科・リャマ族・ピクーニャ属・アルパカ種ということで、アルパカ同様ペルーでよく見かけるリャマの仲間、さらにはラクダとも親戚だ。非常に可愛い姿をしており、毛織物としてはカシミヤと並んで珍重される。とくに生まれて初めて刈った毛で作ったのをベビー・アルパカといって最高級品とされる。

ポロイ駅で列車を降り、バスで再びクスコへ。3400mのクスコでは、先日の市内観光中にツアー仲間のうち7~8人が倒れてしまったのだが、ガイドの話だとわれわれ一向はすでに高地に慣れているので、今回は先日のようなことにはならないだろうとのこと。だが、フォルクローレのショーが付いたホテルでの夕食にも、大事をとって欠席する人もいたようだ。

December 6, 2007 =Thu=

昨日ほどではないものの、モーニングコールは5時45分。7時過ぎにホテルを出てオリャンタイタンボに向う。タンボという地名が多いが、これは「宿」というような意味らしい。大型のスーツケースは明日の夜の宿泊先であるクスコのホテルに直行するので、身の回りのものをまとめたキャリーバッグとリュックサックだけを持つ。オリャンタイタンボにも遺跡があるのだが、我々が向うのはクスコとマチュピチュを結ぶ鉄道の駅。クスコからこの列車に乗ろうとすると朝の6時発だが、われわれは途中駅からなので8時15分が出発時間となる。駅で列車を待っていると、土産物売りに混じって、茹でたトウモロコシを売りに来る人がいる。トウモロコシはアンデス地方が原産地だと言う説もあるだけあって、ここのトウモロコシは粒の大きさといい、もちもちした食感といい、日本のトウモロコシとは別格のような気がする。

列車はビスタドームという名称で、全席指定。約1時間半の乗車だが、途中で軽食が配られる。軽食を配ったり列車のロゴの入った帽子を売りに来たりする乗務員は男女ペアで、なかなかスタイルも良いが、その理由は帰りの列車で判明する。
10時前に終着駅アグアス・カリエンテスに到着。ここの標高は約2000m。徒歩5分ほどのホテルに荷物を置き、乗り合いバスに乗って今回のツアー最大の目玉であるマチュピチュに向う。バスは曲がりくねった坂道を登り、20分くらいで標高差400mを乗り越えて遺跡の入り口に着く。入り口を通って、坂道を15分ほど歩くと、あの、写真で何度も見慣れた「空中都市」の全景がいきなり目の前に広がる。屋久島の縄文杉を見に行った時は、ガイドが「上を見ないで!」と声をかけながら最後の石段を登り、パーティが全員揃った時点で「はい、後を振り返って!」の声と共に振り向くと、そこに樹齢7000年と言われる縄文杉がある。だが、マチュピチュではそんな演出は必要ない。本当に、今まで見えていなかった全景が、ある地点に到着すると同時に眼前に広がるのだ。数ある世界遺産の中でもマチュピチュが一番の人気だというのも、このいきなりの遭遇という感動が大きな要因となっているのかもしれない。1911年、段々畑を攀じ登り、マチュピチュ遺跡を発見したエール大学の歴史学者ハイラム・ビンガムの感動の何分の一かを、現代のツーリストにも伝えてくれているかのようだ。
写真の遺跡の背後に聳える岩山はワイナピチュ(若い峰)と呼ばれる。ちなみにこの写真の位置からは背中にあたるところにマチュピチュ(老いた峰)が聳えている。ビンガムが遺跡をさして地元民に「あれは何だ?」と聞いたところ、山の名前を聞かれたと勘違いした村人が「マチュピチュ」と答えたため、遺跡の名が「マチュピチュ」となったという説もあるらしい。
観光客に混じってリャマがのんびりと草を食む丘から、マチュピチュの全貌を目とカメラに収めてから、「市街地への入り口」の門をくぐり、遺跡に足を踏み入れる。遺跡のひとつひとつをここで解説するつもりはないが、こうした石造りの建築物を見ていると、むかしギリシャにいたころしばしば訪れたミケーネの遺跡を思い出す。アガメムノンの墳墓と言われるミケーネの、右の写真の「ライオンの門」なんか、左のマチュピチュの門とそっくりではないか。石の文化というのは共通の要素を持つのだろうか。

それにしてもマチュピチュで驚くのは、ハイラム・ビンガムも攀じ登ったと言う段々畑だ。まるでギリシャの円形劇場の観覧席を大きくしたかのように、斜面を隙間なく段々畑が埋め尽くしている。緩やかな斜面はもちろん、恐怖を覚えるような急斜面にも段々畑が刻まれている。それははるか下を流れるウルバンバ川まで繋がっている。遺跡の中にもこの一帯で栽培されていた植物を集めた植物園のようなものも作られている。インカの人たちは、この段々畑でトウモロコシ、ジャガイモ、コカなどを栽培していたというが、どうやって灌漑をしていたのだろうか。

一通り遺跡を巡った後、遺跡入り口近くにあるマチュピチュ・サンクチュアリ・ロッジで昼食。ここはもともとはペルーの国民宿舎だったのがホテルになったもので、マチュピチュ遺跡に隣接したホテルはここしかない。従って、設備は三ツ星クラスだが、値段は五つ星並みだという。食事の後はもう一度遺跡を散策しても良いし、ホテルに帰って休息してもいい。元気な数人は遺跡に戻ったが、われわれは休息を選ぶ。毎日朝が早い上、ジェットラグもあって、睡眠不測を解消する必要に迫られているからだ。マチュピチュには明日も来ることができる。帰りのバスでは隣にガイドの赤井さんが来たので、ペルーの政治情勢やそれに対する外国人居住者としてのスタンスなどについて聞いてみた。


←太陽の神殿


インティワタナ(日時計)→

December 5, 2007 =Wed=

なんと今日は午前2時にモーニングコール。リマ発5時35分のLanPeruでクスコに行くのだ。クスコの標高は約3400m。いよいよ高地への挑戦が始まる。クスコではやはり日本人ガイドの赤井さんが付くほか、ペルー人の医師も同行する。到着が午前7時前なのでホテルには入れない。

空港からそのままクスコ郊外のサクサイワマン遺跡へ。ここは巨石がインカの技術によりピタリとかみ合うように積み重ねられている。スペイン人に反逆を企てたインカ兵たちがここに立て篭もったと言われる。
むかし、確か中学生の頃だったと思うが、「インカ展」が大阪のデパートで行われた。たぶん写真だけだったと記憶するが、「カミソリの刃すら入らない」インカの石組みが紹介されていた。その時の写真が右のようなものだったような気がする。
サクサイワマンからすぐ近くのタンボ・マチャイへ。泉が湧き、インカ時代に沐浴場として使われていた遺跡へと、だらだらした坂道を登っていくうちに、ふと気が緩むと頭がくらくらしてくる。やはり高山病の兆候がでてきたのだろうか。

市内に戻って中心部のアルマス広場(ペルーでは、どの町に行ってもその中心はアルマス広場というらしい。)へ。ここに建つカテドラルはインカ神殿のあとに、1550年から100年かけて建てられたもの。われわれがカテドラルの前にいるとき、そこから見下ろす広場にデモ隊が入ってきた。何やらシュプレヒコールを叫んでいるが、何を求めているのかよくわからない。

添乗員の後藤さんやガイドの赤井さんからは、繰り返し繰り返し水を飲むように注意される。高地対策としては水分を取ることが必須なのだそうだ。一日に3リットルから4リットルほども飲んだほうがいいとのこと。0.6リットル入りのペットボトルが1米ドルまたは3ソル。アドバイスに従ってできるだけ頻繁に水分を取るよう心がけるが、なかなか3リットルとか4リットルも飲むのは難しい。
アルマス広場を起点に、徒歩で市内を巡る。細い道の両側にはインカ時代の石組みがそのまま残り、石組みを基礎にした家並みが続いている。この町に住むインカの末裔たちは、ご先祖様の築いた土台の上で今も生活を続けているのだ。

「カミソリの刃一枚も通さない」石組みの典型が右の写真の「12角の石」。数えてみると、たしかに角が12あるのが分かる。ガイドブックにも出ている大きな石だが、これも狭い路地のようなところにあるから、集団で写真なんか撮っていると交通の邪魔になるほどだ。
クスコ市内最後の見所はサント・ドミンゴ教会、別名「太陽の神殿」。インカの壮麗な神殿は、スペインの征服者によって略奪され、スペイン人はそこにキリスト教会を建てた。だが、その後クスコを襲った地震で教会は崩壊し、インカ時代の石組みだけが無傷で残った。

ここで事件が起きる。サント・ドミンゴ教会には救護所が設けられているのだが、30名余りのわれわれツアー仲間のうち、数人が救護所に運ばれて酸素吸入を受けることになった。高度もさることながら、日本との時差、そして今朝は2時起きの3時出発という強行軍だ。気分の悪くなる人が出るのは無理もない。標高2900mのキトでゴルフをやったこともあり、4000mを超えるラパス空港に降り立ったこともあるなど、高さには経験のある私でも少し頭がくらくらしているのだから。
高山病に倒れた人たちの回復を待って、今日の宿泊地であるウルバンバに向けて出発。ウルバンバは高度2800m台で、クスコに比べると600mほど低い。高山病と言っても病気ではないから、高度を下げれば嘘のように回復する。

今日の予定としては、もう一つ、民家訪問というのが残っている。現地の民家を訪ねると言うもので、元気なメンバーだけで出発する。民家というから本当に一般の人たちの生活が見れるのかと思ったが、訪問先の大きな家はどうやら観光用らしい。その証拠に、数人が一度に用を足せるやたら大きなトイレがある。何で民家にこんな大きなトイレがあるのか聞いてみると、観光客用だとのこと。お土産まで売っている。だが、食用のモルモットを飼っていたり、トウモロコシを原料とする焼酎を醸造していたりと、現地の人たちの生活の一端は垣間見ることができた。家の前に、竿の先に赤いビニールの玉を結びつけた旗のようなのは、「お酒あります」という印だそうだ。

ウルバンバ周辺には特に観るようなものはなく、明日に備えて早めの就寝。

December 4, 2007 =Tue=

リマの初日は、昨夜の到着が遅かったこともあって、やや遅めの午前10時30分のホテル出発。ガイドの森川君はペルーに来て4年目の32歳。息子と同い年だ。ペルーに来て、まず現地の日系人向け私立中学校(5年制)に入学したそうだ。中学生と一緒にペルーの歴史をはじめ、数学や理科などをスペイン語で学ぶ。日系人向けと言っても中学校へ通う子供たちは日本語をほとんどしゃべれない。日本語学習の時間には先生と協力して教える側にまわる。空手二段だとか。
ミラフローレスの海岸にある「恋人たちの公園」。文字通りの恋人たちの巨大な像に、南米の大胆な発想を思い知らされる。ただ、抱き合う男女の年齢がかなり高そうなのはどういうわけか。この公園では、毎年、キスの大会が開かれる。だが、参加者は少ない。というのも、参加する「恋人たち」は、男性に限られるからだそうだ。
リマではMuseo Amano(天野博物館)に行ってみたかったが、森川君に聞くと「予定に入っていません。」とのこと。実業家の天野芳太郎氏が私財を投じて作ったアンデス文化の考古学博物館だが、彼が最初に天野商会を設立したのはペルーではなくパナマだったのだ。天野博物館には行かない代わり、黄金博物館に入るが、ここは撮影禁止。
リマと言えば、1996年12月に起きた日本大使公邸占拠事件がまだ記憶に新しい。天皇誕生日のレセプションを開催していた公邸に、隣の民家を経由して武装組織MRTAが突入、レセプション出席者を人質にとって公邸を占拠した。人質は当初600名に上ったが、その後段階的に開放され、最後には70名余りとなった。事件発生から127日後、当時のフジモリ大統領が地下に掘ったトンネルから特殊部隊を突入させ、人質のうち一人が死亡したものの、残りは全員解放された。MRTA側は14人全員が死亡した。
私の知人であるK公使(当時)も人質になった一人だ。Kさんは私がパナマ駐在時代のパナマ日本大使館参事官で、1989年の米軍パナマ侵攻の際は、帰国中の大使に代わって混乱の中で指揮をとった。その前にはエルサルバドル内戦の時にも同国の大使館にいたというから、よほど事件と縁が深い人だ。ペルー公使の後は、さすがにもう事件とは手を切って、バルセロナ総領事からボリビア大使を勤められた。
その大使公邸は、事件のあったのとは別の場所に建て替えられ、要塞のような警戒厳重な建物になっているが、問題の旧公邸は建物が取り壊され、更地になって売りに出ている。6223㎡というから約1900坪。やはりあんな事件のあった、いわくつきの土地はなかなか売れないらしい。
リマ旧市街の中心、アルマス広場。北側には大統領府があり、衛兵が交替の儀式をやっている。旧市街の町並み自体が世界遺産に指定されているが、その特徴は右の写真にあるような目隠しされたバルコニー。回教徒に占領されていた歴史の影響からか、スペイン人の女性は人前に出ることを憚る習慣があり、南米の植民地でも同様の傾向があった。外に出られぬ女性たちは、外からは見られぬよう木彫りの目隠しで覆われたバルコニーに出て、木彫りの隙間から外を眺めて楽しんだと言う。パナマでもそうだが、旧市街はセントロと呼ばれ、治安が良くない。しかしこのアルマス広場は大統領府に面しているだけあって、警官の数も多く、安全なようだ。

セビッチェと魚介の炊き込みご飯で昼食の後、バスでパチャカマ遺跡へ。パチャカマは600年ごろにペルー中央部に興った文化だが、15世紀にインカにより占領される。しかしインカはパチャカマ神信仰を禁止せず、新たに太陽の神殿、月の神殿を建ててパチャカマ神と融合する。しかしそれも16世紀にスペイン人が侵入すると戦火に焼け落ち、砂漠と化すことになる。

1960年代、SF小説がブームになった頃、歴史SFを得意とする豊田有恒の小説に「パチャカマに落ちる陽」というのがあった。
インカの名将チャルクチーナが、ピサロ率いるスペイン軍と戦い戦死する。タイムトラベルが可能になった22世紀、美少女ゲルダは何度も22世紀と16世紀を往復するうちにチャルクチーナに恋をする。ついに彼女は禁断を犯し、光線銃を手に入れてチャルクチーナを救出する。ところが彼女の行為によって歴史は変わり、ゲルダは22世紀に戻ることができなくなる。

まだタイムトラベルも叶わぬ21世紀。パチャカマ神殿は強い陽射しの中、日干し煉瓦の埃を巻き上げていた。そこにどこからともなく現れたのは、毛がなくて肌がむき出しになっているのが特徴のインカ犬。時空をさ迷うゲルダの姿だろうか。

夜はレストランフジで日本食。日本から着いたばかりで日本食と言うのも変だが、本来ならペルー旅行最後の日に予定されていた日本食なのに、レストランの休日の関係で初日になってしまったらしい。ツアー参加者のうち唯一ペルーが二度目らしいHさんが、フジのオーナーと親しげに話をしていた。



December 3, 2007 =Mon=

成田を発ったのは午後3時の大韓航空だが、ロスでLanPeruに乗り継いでリマに着いたのは深夜の零時すぎ。そのままホテルに直行しチェックインしたのはすでに2時をまわっていた。リマの飛行場はむかし一度だけトランジットで立ち寄ったことがあるが、そのときも夜中で、なにやら得体の知れない人物がうろうろしているような印象だった。あの時は、息子をパナマに一時呼び寄せ、ガラパゴスに連れて行った帰りだった。エクアドルのグアヤキルから、前日に予約を確認していたエクアトリアーナ(エクアドルの航空会社)に乗ろうとしたらオーバーブッキングでグアヤキルに一日余分に滞在させられた。「確認したのに」と文句を言ったらエクアトリアーナ側は「予約の確認と言うのはお客様が当日飛行機に乗ると言う確認であって、航空会社がお乗せするという確認ではありません。」とぬかした。それ以降、金輪際エクアトリアーナには乗らないことにした。翌日、エアロペルーがリマ経由でパナマに行くと言うので、この便を捕まえた。当時、リマの空港にいると、誰かにポケットに麻薬を忍び込まされ、そこを警察に捕まって何がしかの金を払わないと開放されない、という噂を聞いていた。もちろん、麻薬を忍び込ませる奴と、警察とがグルになっているのだ。リマでの乗り継ぎの間、周りに変な奴が近づかないか、ずっと気を配っていた覚えがある。また、その当時、パナマに入国するには航空会社に10ドル払って入国ビザを買う必要があった。私はレジデントなので不要だが、息子は日本からビザを取ってきているものの、いったん出国した以上、日本から持ってきたビザは無効とみなされ、10ドルのビザが必要になる可能性がある。そこでアエロペルーのカウンターで10ドルビザを買おうとすると、職員は「日本からのビザがまだ有効だから、10ドルビザは必要ありません。」という。それでもこちらは、中南米では理屈に合わないことが起きるので、「念のため10ドルビザも買っておきたい。」と頼むと、アエロペルーは「必要ないと分かっているものを売るわけには行かない。」という。それも確かに正論だ。ところがパナマに着いて見ると、案の定「このビザはパナマから出国した時点で無効になっている。航空会社でビザを買って来るべきだった。」として息子はイミグレーションで足止めされてしまった。私はあわててパナマ空港のアエロペルーの窓口に行ったが、もう閉まっている。そこで、空いていたパナマ航空の窓口で交渉して何とかビザを手に入れた。

何が言いたいかというと、当時、エクアトリアーナアエロペルーもそんないい加減な航空会社だった。ところが今度乗ったロスからの飛行機は、当時はなかったランペルーという会社だ。昔からランチレというチリの飛行機会社があり、中南米の航空会社の中では評判が良かった。今ではランという会社がランチレ、ランペルー、ランエクアドルなどを傘下に収めている。アエロペルーは1990年代に会社を清算され、エクアトリアーナはいったんブラジルの航空会社から支援を受けたものの立ち行かず、ランの傘下に入ったという経緯がある。

December 2, 2007 =Sun=

妻が久しぶりにすき焼きを食べたいと言うので、新宿のレストランを検索するが、たいがいがしゃぶしゃぶで、すき焼きの店は案外と少ない。昔と違って、牛肉に砂糖も入れるという伝統的なすき焼きは、健康志向の現代には向かないのかもしれない。そんな中で、野村ビル50階のHARUKAで塩すき焼きというのをやっているのを知り、予約を入れる。

窓際の席に案内されると、足許までガラス張りの窓で、ガラスが割れたら超高層の50階からマッ逆様という不安を覚えるほどの景観。すぐ下に光に彩られた円形のものが見える。何だろうと眺めていると、その正体に気が付く。アイランドタワーの前の地下レストラン街だ。いつもは地上から見ているので気が付かなかったが、こんな真円形をしていたのだ。




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