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| January 31, 2007 =Thu= 昨日、娘が買い物に出かける前に、「子供たちが寝ている間、暇だったらこの本でも読んでみたら。」と 貸し てくれたのは、ジョン・パーキンズという人の書いた「エコノミック・ヒット・マン」(原題は"Confessions of an Economic
Hit Man")何でも、私がパナマにいた頃に現地で起きたことも描かれていると言う。実際には、子供たちの面倒をみるのに精一杯で、その本を読む時間も無かったが、パラパラとページをめくったところでは、次のような内容らしい。著者は、あるコンサルタント会社に就職するが、その会社の実態は米国の国歌安全保安局(NSA)の意を受けて発展途上国に潜入し、経済援助などを通じて相手国政府を抱き込み、過大な債務を負わせてその資源や外交を米国の意のままに操る工作を任務としている。彼が良心の呵責を感じつつも中南米や東南アジア、中近東などでこうした工作を行い、そこから抜け出した今、反省を込めてその行為を告白すると言うもの。何か余りに芝居じみてフィクションに思えるが、この本は2004年に出版されてベストセラーになり、今年になってテレビでもEconomic Hit Man(EHM)の実態が放映されたそうだ。 今日、休み時間にOAZOの丸善に寄ったとき、この「エコノミック・ヒット・マン」(東洋経済新報社)が平積みになっていたから、訳書は日本で今、ベストセラーになっているのだろう。その時は買うつもりはなかったが、会社帰りに八重洲ブックセンターの洋書売り場に行ったら、この本の原書が、なんと"Politics"の売り場に置かれていた。だが、安っぽいペーパーバックなのに2500円くらいの値段がついている。訳書はいくらなのかと探してみたが、丸善では山積みになっていたのに八重洲ブックセンターでは見当たらない。レファレンスコーナーで聞いてみると、2階の社会・経済専門書売り場にあるという。行ってみると確かにあったが、隅の方に数冊置いてあるだけだ。丸善とYBCでこれほど扱いが違うのも珍しい。訳書は1890円だったので原書を買うのはやめにしたが、家に帰ってからAmazonで調べたらペーパーバックが1620円で出ていたので、こっちを注文した。 ..... |
| January 30, 2008 =Wed= 妻と、11時に五番町の娘の家に行く。娘の夫が海外出張中で、双子の面倒を一人で見ている娘を少しでも休ませようというのが目的。妻が一人で行くつもりだったようだが、大雑把な性格の妻だけでは娘の方が不安がり、私も同行することになった。何時にミルクを飲ませ、何時間昼寝させて、何時に離乳食を与えるなど、こと細かく娘が書いた引継ぎ書を受け取り、娘は久しぶりの買い物とマッサージに六本木あたりに出かける。あとは妻と私で孫たちを見るのだが、しばらく合わないうちに二人ともハイハイや伝い歩きをするようになったので目が離せない。寝ている間はいいのだが、二人が交互に目を覚ますのでゆっくり本を読んでいる時間も無い。なるほどこれが毎日では娘も大変だ。 夕方、双子をベビーカーに乗せて、買い物を終えた娘と靖国通り沿いのアルカディア市ヶ谷で落ち合う。ここには和食、中華、フレンチの三つのレストランがあるが、フレンチのコースを取るのも本人の希望による娘の慰労のメニュー。といっても双子たち、大声で泣くことこそなかったものの、テーブルの脇に停めたベビーカーから身を乗り出してテーブルクロスを引っ張ったりフルコースのナイフとフォークを取ろうとしたりで、これまた目が離せない。デザートのケーキを終えた頃にはもう八時前。「寝かせる時間をとっくに過ぎてるよ~」と帰りを急ぐ娘と市ヶ谷駅で別れる。今夜は妻も娘の家に泊まりこみで双子の面倒を見る。 ..... |
| January 29, 2008 =Tue= 会社関係の会合が、表参道の十四郎である。地下鉄の表参道から神宮前の交差点に向って歩き、右側の表参道ヒルズを通り越したあたりの左手、一階にシャネルが入るファッションビルの四階にあるのだが、案内されたのは能舞台のように高く設けられた桟敷風の場所。十四郎というのはどこかで聞いた名前だと思って店員に聞いてみると、本店は人形町にあるとのこと。それで思い出した。やはり会社関係の会合で去年の9月に行ったのが人形町の店だった。人形町の方は地味な構えの店だが、こちらはぐっと派手な感じだ。 ..... |
| January 22, 2008 =Tue= 先週の木曜日に同僚Kさんの送別会が会ったが、これはいわばプライベートな方で、今日は会社の公式行事?としての送別会。場所は八重洲地下街の海賓亭という店だが、仕事を4時に切り上げた後、6時半まで時間があるので会場近くの八重洲ブックセンターで時間を潰す。いま呼んでいるSteve Berryの"The Templar Legacy"(テンプル騎士団の遺産)があと少しで終わるので、次は何にしようかと8階の洋書売り場に行ってみたら、Michael Crichtonの"Next"がペーパーバックで出ていたのでこれを購入。先月、ペルーへ行く途中で、ロスでの乗り換えの際、飛行場の本屋に立ち寄ったら、"Next"は分厚くて大きいサイズのハードカバーしかなかったので買うのをやめにした。そのうちペーパーバックが出るだろうと思っていたら案外早く出てきた。 スティーブ・ベリーの本は、"The Ambar Room"、"The Romanov Prophecy"に続いて3冊目だが、内容がテンプル騎士団というだけあって難解な用語が多く、電子辞書を片手に持っていないとなかなか読み進めないが、マイケル・クライトンの方はこれまでの例だと比較的読みやすいはずだ。 ..... |
| January 21, 2008 =Mon= 京橋あたりには画廊がたくさんある。その中の一つ、ギャラリービータという画廊で、以前の同僚であるN氏の絵の展覧会があるというのででかける。展覧会と言っても個展というわけではなく、中国人の同じ先生について習っている人たちが、フランスに写生旅行に行き、その時の絵を展示した、いわばグループ展だ。行った先はセーヌ川河口のオンフルール(Honfleur)など。海外旅行もこうした趣味があればいいのだが、私は絵は鑑賞するのは好きだが自分で描く自信はない。小学校の時、毎日新聞主催のコンクールで金賞をとった覚えはあるが、あれは何かの間違いによるものだ。展覧会の後は、一緒に見に行ったいつもの仲間、H氏とS氏、それに京都から出てきたY氏と四人で居酒屋へ。そこにグループ展を終えたN氏も合流する。 ..... |
| January 18, 2007 =Fri= 相模大野の駅近くにL'assietteというレストランがある。ここのママ、Yさんは、1994年に妻がはじめて町田市議会議員選挙に立候補した時、選挙の実質的な責任者として活躍してくれた。当時は同じ場所でご主人とレンタルビデオ店をやっていたが、二三年前からこのレストランに切り替えたらしく、妻のところに会計と税務申告を依頼してきた。この店ではライブをやっており、今日はバンドネオン奏者早川純のTangoJackによるアルゼンチンタンゴのライブ演奏があるからとのお誘いを妻が受け、二人とも風邪気味だが相模大野に出かけた。一軒家の、コンクリート打ちっ放しの凝った造りで、中庭もある。ご主人がシェフをされているようだ。少し遅刻で、ライブはもう始まっていた。バンドネオンにピアノ、ベース、ギター、バイオリンのクインテット。さすが生で聴くアルゼンチンタンゴは迫力がある。2月にはママのYさん自身がシャンソンを歌うそうだ。 ..... |
| January 17, 2007 =Thu= OB再活用というのが今の職場だが、それでも停年がある。先輩のKさんが今月で70歳の停年となるので、同じ立場の仲間で送別会。私はこの職場へは昨年11月から来たばかりだが、こうした場合、場所はTOKIAビル地下の菊亭と決まっているらしい。もっと広い、会社の同一グループでの送別会は来週にある。ご苦労様でした。 ..... |
| January 2, 2008 ~ January 11, 2008 in Morocco 旅行は多少トラブルがあったほうが後々の思い出になるというが、今回のモロッコ旅行はまさにトラブルの連続だった。暴風雨、雪による道路閉鎖、スリップ事故による道路閉鎖、デモ隊による道路封鎖、私自身の体調異変、帰路の飛行機の出発遅れと危機一髪の乗り継ぎなど。それでも予定のコースは一通りこなして予定通り帰ってきた。だが、このDiaryをまとめている今日、13日は、私自身が父の七回忌をしようと妹たちに連絡していたのに、京都の大谷本廟から妹が電話をかけてくるまですっかり忘れていた。これは私の責任で他に転嫁しようもないのだが、大切な七回忌を忘れるほど疲れきっての帰国だったのだ。 今回の旅行の反省点 もう歳なんだから、二ヶ月続けて、しかも地球を東と西の反対方向に半周するような旅行をするのは今回限りにしないと。(と、誰かから言われそう。)若い頃なら簡単に取れたジェットラグも、抜けるのに時間がかかるのだ。 ...... |
| Jan. 10 =Thu= ~ 11 =Fri= ラバトからフェズにかけての暴風雨、フェズからエルフードへのアトラス越えでの雪による道路閉鎖、雪の問題が解決したらスリップ事故による道路閉鎖、エルフードからワルザザードへの途中でデモ隊による道路封鎖で宿泊地変更などなど、トラブルの連続だったが、マラケシュに着いてからは何も問題なくカサブランカに帰ってきた。後は帰国するだけだが、少し心配なのはパリでの乗り継ぎ時間が1時間15分しかないこと。同じエールフランスだからカサブランカからの到着が少しくらいなら遅れても何とかしてくれるはずだが、この航空会社は結構杓子定規なところがある。 パリ行きの便の搭乗はほぼ予定の時間に始まったので、まあ大丈夫かと思っていたら、乗り込んでからなかなか出発しない。どうやらチェックインした人数と搭乗した人数が合わないらしい。そのうちパーサーが搭乗者リストのプリントを持って一人一人名前をチェックし始める始末。 2001年9月7日、9-11の四日前のことだが、ニューヨークのJFK空港でサンパウロ行きのアメリカン航空機に搭乗した時のこと。機体は四日後にWTC北棟に突っ込んだのと同じボーイング767だった。当時としては荷物検査が異常に厳しく、チェックインする荷物まで中を空けて調べられた。ビジネスクラスなので席に着いたらパーサーが離陸後の飲み物の注文をとりに来た。だからすぐ出発するのかと思ったのに一向に出ない。そのうち、機体を変更するので全員降りてほしいと言われた。機体に問題があったわけではなく、荷物をチェックインしながら乗ってこない乗客がいたというのだ。全員が降り、並べられた荷物のうち各自自分のものを選んで、そのまま国内線まで長い距離を歩いた。国内線に泊まっていた同じボーイング767に乗り込んでやっとJFKを離陸したのは9月8日の早朝になっていた。 今回も同じように荷物を預けて搭乗しない人間がいるとしたら結構やばい。カサブランカでは2003年に大規模な自爆テロが起きているし、昨年も市内のインターネットカフェで自爆事件が起きている。だが、結局はどうも幼児の数を数えたかどうかの問題だったようだ。飛行機が滑走路に向けて動き出したのは定刻より一時間以上遅れていた。さあこうなるとパリでの乗り継ぎがいよいよ切実な問題になってくる。われわれの乗る便はシャルル・ド・ゴールを13時15分に出るAF-276だが、これに乗り遅れた場合、次のエールフランスは約半日後になる。夕方にはJALもあるが、団体用の割引航空券だから他社便に振替できるかどうか。いずれにしても空席がなければどうしようもない。 シャルル・ド・ゴールには40分遅れで到着。出発の遅れを少し取り戻したが、成田行きの出発時間まであと35分しかない。この間にE棟からF棟に移動し、手荷物検査を受けなければならない。駆け足に近いスピードで突進する。何とか荷物検査もクリアし、登場口までたどり着く。ゲートから直接乗り込むのではなくバス便だ。バスがなかなか出発しないがバスに乗せてくれたのだからまず心配はないだろう。ようやく席に着いたらやはり定刻より一時間近く遅れていた。 というわけで11日朝に帰国したが、問題はまだ残っていた。私たちの荷物はすぐにちゃんと出てきたが、ツアーグループ約30人のうち、10人くらいは荷物が出てこなかった。パリでの乗り継ぎで乗客は間に合ったものの、カサブランカでチェックインした荷物の積み替えは一部間に合わなかったらしい。しっかりしてくれよ、エールフランス! ...... |
Jan. 9 =Wed= 今朝は9時にマラケシュ駅発の列車、カサブランカ・エクスプレスでカサブランカに向う。モロッコでは始めての列車の旅となる。なぜだか、モロッコの駅ではホームでの写真撮影は禁止だとのこと。国境なら話は分かるのだが、国内線のホームでどうして写真を禁止品けらばならないのだろう。一等車のコンパートメントは6人掛け。最後尾の車両だったので、線路がカーブしているところで列車の姿を写真に撮れるかと思ったが、なかなかうまいシャ ッターチャンスには巡り会えない。マラケシュからカサブランカまで3時間余りの乗車時間だが、先月のマチュピチュ行きの電車とは違って軽食や車内ショウの提供があるわけではない。カサブランカに近づくと、駅で停まったタイミングで少年が二人、最後尾の連結器部分に乗り込んできた。かなり危険だが、れっきとした無賃乗車だ。扉には鍵がかかっているので中に入れてあげる訳にも行かない。乗ったのはマラケシュ駅だが、降りるのはカサブランカという名前の駅があるわけではない。カサ・なんとかという駅が三つくらい続いていて、その中のたぶん真ん中の駅がカサ・ヴォワジャー駅で、ここがカサブランカのメインの駅になる。 ![]() カサブランカは人口400万人を超える、モロッコ最大、というよりも北アフリカ最大の都会。今までが中世にタイムスリップしていたような所だったから、カサブランカに着くと現代社会に戻ってきたような安堵感を覚える。マラケシュの駅が日干し煉瓦の色を模したピンクがかった建物だったが、カサブランカはその名の通り白い駅舎だ。モロッコの中で、カサブランカだけがスペイン語由来の名前なのはどうしてか不思議だったが、ガイドの、というか添乗員のSさんの説明では、むかしこの地を発見したのはポルトガル人で、その時に白い家が見えたため、ポルトガル語で「白い家」と名づけた。その後スペイン人がやってきたが、「白い家」はそのままに、スペイン語でカサブランカと呼ぶようになったそうだ。 ![]() 列車で到着したわれわれとは別に、マラケシュでスーツケースなど荷物を積み込んだバスが先に到着していて、そのバスに乗り込んで昼食に向う。昼食は大西洋に面したシーフードレストラン。茹でた小エビと魚の唐揚げが口に合う。私の体調もほとんど快復してきたようだ。この頃になると、食事ごとに別精算する飲み物代が気になってくる。Sさんから、モロッコのディルハムはドルやユーロへの再両替ができないから、明日の出発までに使い切るように注意されているので、うまく使い切るには何を注文すればいいか、という問題だ。 食事の後は、国連広場を経て、この町にも当然にあるメディナを歩くが、フェズやマラケシュと違ってここのメディナでは商店で売っている品物が現代的、実用的なものが多い感じがする。 メディナ以外は建物も近代的で、とくにフランス統治下で建てられたものはアールデコ様式の建築も多い。一通り市内を回って、最後はハッサン2世モスク。大西洋に面した9ヘクタールの敷地に建坪2ヘクタールの広大な建物が建っているが、これらは国民からの寄付金で建てられたのだそうだ。ミナレットの高さは200mもある。モロッコ最後の宿泊は、カサブランカ・シェラトンの予定だったが、オーバーブッキングとかで、大西洋に面したリゾート地、アイン・ディアブにあるリアド・サラムに変更になった。そのため出発前に旅行会社から一人6千円のキャッシュバックがあり、加えて昨日のマラケシュでの馬車旅行が無料になった。別にシェラトンにどうしても泊まりたいと思っていた訳ではないので、この措置は私にはラッキーだった。もう一つラッキーだったのは、カサブランカでぜひ行ってみたい場所がリアド・サラムからは一本道らしいことだ。 カサブランカでぜひ行ってみたい場所、それはRick's Cafe。私は自分で言うのも変だが、映画「カサブランカ」フリークだ。携帯電話の着信音も「As time goes by」だし、1991年にターナー社から出版された「カサブランカ」50周年のビデオ・書籍セットも持っている。「カサブランカ」の冒頭のナレーションも空で覚えている。 With the coming of the Second World War, many eyes in imprisoned Europe turned hopefully, or desperately, toward the freedom of the Americas. Lisbon became the great embarcation point. But not everybody could get to Lisbon directly; and so, a tortuous, roundabout refugee trail sprang up. Paris to Marseilles, across the Mediterranean to Oran, then by train, or
auto, or foot, across the rim of Africa to Casablanca in French Morocco.
Here, the fortunate ones through money, or influence, or luck, might obtain
exit visas and scurry to Lisbon, and from Lisbon to the New World. But
the others wait in Casablanca, and wait, and wait, and wait.この映画はカサブランカで撮影されたものではなく、ハリウッドでモロッコらしきセットを組んで撮影されたものだ。従って、その舞台がカサブランカにあるわけではない。だが、世界の人々に愛されるこの名画から、誰でも考えつきそうなことだが、その舞台となるRick's Cafe Americainを再現したカフェを造れば、物好きな観光客の足を惹きつけることができるだろう。以前はハイヤット・リージェンシーのホテルの中にRick's Cafeがあったらしいが、今はなくなっている。だが、2004年にアメリカ人の女性が1件のレストランを買い取り、これを改装してRick's Cafeとしてオープンした。そのRick's Cafeがハッサン2世モスクと旧メディナの間あたりにあると、「地球の歩き方」に出ていたのだ。これは「カサブランカ」フリークとしては見逃せない。 ![]() ホテルにチェックインしたのは5時ごろ。夕食は7時半からだ。明日の朝が早いので、夕食後に行ったのでは遅くなる。そこでチェックインの後、ホテルの前でプチタクシーを拾い、行ってみた。予想通り一本道だが、思ったより距離があってタクシー代は33DHかかったが、6時半の開店時間にはまだ15分ほどある。そこで港のほうに行ってみたら、道が暗く、向こうから得体の知れない男たちがやってくるので敬遠して反対側に出る。そこはまったくの下町というか庶民街で、空き地では子供たちがサッカーをやっていたり、小さな屋台で羊の串焼きを売っていたりする。その中を暫く歩き回って時間を潰し、6時半を少しまわったところでRick's Cafeに入る。 テーブル席には先客のカップルが一組いるだけ。「飲み物だけならカウンターか二階のサロンへ」というので二階を見せてもらうと、そこでは「カサブランカ」のビデオがかかっている。だが、カウンターの方が雰囲気が出そうなので一階に戻る。私はスコッチの水割り、妻はカサブランカ・ビールを注文する。映画でサムが弾いていたより立派なピアノの前でワンショット。それを笑いながら見ていた先客のカップルが、ピアノにカメラを乗せてセルフタイマーで写真を撮ろうとしているので、シャッターを押そうと申し出る。そこで彼らとの会話が始まる。オーストリア人のカップルで、アブダビで医療関係の仕事をしている。休暇でカサブランカに来ているが、われわれと同じで今朝の列車でマラケシュから到着し、明日はカサブランカを離れるそうだ。アブダビではミツイのイシイさんという日本人と仕事の関係があるという。私もミツイのライバル会社にいたんだよ。もう停年で辞めてるけどね、と言ったら、「え!そんな歳?」と驚いていた。(若く見られたという自慢) ...... |
| Jan. 8 =Tue= ロイヤル・ミラージュ・ホテルはメナラ通りとムハンマド6世通りの角に位置しているが、このメナラ通りを突き当たったところに12世 紀に造られたメナラ庭園がある。庭園はオリーブの林だ。マラケシュのローカルガイドは珍しく流暢な日本語を話すアラブ人。植物通なのか、オリーブの種類の違いなど、説明に熱が入る。庭園の中心は大きな貯水池で、池に面して建つ建物は王族たちの逢引の場であったとか。このあたり、マラケシュの新市街は新しい建物が多く、建設中のものも多い。ヨーロッパの富豪がここに別荘をもっているらしい。そういえば、ホテルの裏側に食料品店や酒屋があるというのでミネラルウォーターを買いに行ったら、食料品店などのある建物の一階にいくつもの不動産屋が看板を掲げていた。たぶん、この町では不動産ブームが起きているのだろう。![]() この町ではコウノトリの姿を良く見かける。それもコーランを呼びかける電波塔の上などに巣をつくっている。ローカルガイドによれば、昔はコウノトリは渡り鳥で、冬はモロッコに来るが、夏の間はフランスなどヨーロッパで過ごしていたのだが、最近はモロッコに居ついてしまっているそうだ。その理由は・・「ビザが難しくなったからでしょう。」と。 コーランを呼びかける塔といえば、この町の象徴なのがクトゥピアと呼ばれるミナレット。セビージャのヒラルダの塔と双璧をなす。マラケシュでは建物の壁面はすべてピンク色に統一するよう条 ![]() 例で定められているが、もう一つ規制があって、それはクトゥピア(77m)より高い建物は建ててはならないこと。クトゥピアの尖塔部分の横に支柱のようなものがあるので工事中なのかと思ったら、メッカの方角を指し示すためのものだそうだ。われわれツアー仲間のうちでも同世代の人たちの間で話題になったのが、マラケシュが性転換手術で有名だったこと。1970年代の話だが、マラケシュ在住のフランス人医師が男性→女性の性転換手術の技法を開発し、世界中から性転換希望者が集まった。日本でもカルーセル麻紀がマラケシュで手術を受けたというので一躍この町の名が有名になった。ただ、マラケシュが「魔羅消し」に繋がるというのは日本人にしか分からないジョークだろう。 ![]() マラケシュもメディナ(旧市街)全体が世界遺産になっている。アグノウ門を入ってすぐにサーディアン(サアード王朝)の墓がある。モロッコには各地のメディナにその美しさで有名な門があるが、これまでの門は雨の中だったり、夕暮れで薄暗かったり、逆行だったりでうまく写真に収めることができなかったが、このアグノウ門になってやっとちゃんとした写真を撮ることができた。 ![]() サアード朝は16世紀から17世紀にかけて栄華を極めたが、アフメド・マンスールの時代にはスーダンあたりにまで勢力を伸ばしたという。この墓はそのアフメド・マンスールを中心とした一族の墓だ。写真の部屋はそのアフメド・マンスールの墓で、12本の円柱と鮮やかなモザイクで飾られている。 墓に隣接して現在の王宮もあるが、ここは外壁といえども写真撮影禁止だそうだ。王宮のすぐ隣には極めて庶民的な商店が並んでいるにかかわらず。少し歩くとバイア宮殿。これは王ではなく摂政だった人の邸宅だったそうだが、大規模なもので、正妻4人と24人の愛妾たちのハーレムでもある。正妻の中でももっとも愛された人の部屋はアトラス杉の天井やタイルと大理石の床など、他よりも一段と豪華な仕様になっている。 いったんホテルに戻り、昼食を済ませてからジャマ・エル・フナ広場に行き、そこからスークに足を踏み入れる。ここもフェズの迷路のような細い道だが、鉄職人やなめし革職人などさまざまな工芸職人が業種ごとにスークを形成している。中学 生くらいの子供たちが大人に混じって作業しているが、彼らは仕事そのものより観光客相手の写真用らしく、カメラを向けるとモデル料を要求してくる。スークから再びジャマ・エル・フナ広場に戻り、ここでいったん解散。われわれはすぐ目の前のカフェ・グラシエの二階テラスに向う。このテラスからは広場の全貌を一望できる。この広場では夜になると屋台が出て、大道芸人たちがパフォーマ ンスを繰り広げる。今はまだ夕方前なので、屋台はほとんどが準備中で飲食を提供している屋台は少ない。屋台といっても鉄骨を組み立てたしっかりしたもので、これを毎日組み立てたり解体したりするのも結構大変だろうと思う。大道芸人たちもコブラ使いやアクロバットなどが既にパフォーマンスを始めている。現地の人たちの輪にわれわれ観光客が近寄っていくと、芸人たちは観光客の方に寄ってくる。写真を撮らせてモデル料を稼ごうということらしい。ジャマ・エル・フナという名前は「死者の広場」という意味で、もともとここは公開処刑場だったそうだ。この広場を含むメディナが世界遺産だが、この広場で繰り広げられる芸人たちのパフォーマンス自体も「無形世界遺産」に指定されることが決まっているそうだ。![]() 帰りは、広場から馬車でホテルまで帰る。この馬車によるマラケシュ巡りは、本来はオプショナルツアーだった。だが、明日のカサブランカでのツアー最終日のホテルが、当初予定していたシェラトンがオーバーブッキングのため少し格落ちのリヤド・サラムに変わったため、旅行者の方がそのお詫びにとオプショナル料金なしで全員参加となったもの。広場からホテルまで、直線距離ならたいしてかからないのだが、スークの中をはじめ、歩いては回れないようなマラケシュのいろんな見所を通ってくれる。馬車は御者の隣に一人、後の座席に向かい合わせで二人ずつ、計5人乗りだ。ホテルの前に着いた時、御者席に座らせてもらって記念に一枚→ ...... . |
| Jan 7 =Mon= 昨日のことがあるので、朝食はパスしてその分の時間をベッドで過ごした。今日は本来ならワルザザードから出発して世界遺産で あるアイト・ベン・ハッドゥを訪れ、マラケシュに向うのだが、ワルザザードから2時間半手前のティネリールからの出発となる。バスの右手には雪を頂いたオートアトラスの山々が見える。スケジュールがビハインドしていても、昨日行くはずだったバラの香水の土産物店にはちゃんとストップする。昨日泊まるはずだったワルザザードは映画の町で、民族資本や外国資本による大きな映画スタジオがいくつか点在している。ワルザザードを過ぎるといよいよ世界遺産のアイト・ベン・ハッドゥに着く。ここは「アラビアのロレンス」をはじめとして、さまざまな映画のロケに使われてきたことでも有名であり、「バベル」も、Sさん はまだ見ていないとのことだったが、ガイドのジャリル氏によればやはりここで撮影していたとのこと。ただ問題は、アイト・ベン・ハッドゥの村に入るには川を渡らなければならず、水が少なければ飛び石伝いに歩いていけるが、水嵩が少しでも多ければ対岸から眺めるしかないとのこと。現在、電気もないアイト・ベン・ハッドゥの村に住んでいるのは四家族だけで、かつての村人もほとんどは電気や水道のある、川の手前に新しくできた村に住んでいる。川のところに着くと、やはり水はかなり深いようだ。少し迂回した場所だと川幅は狭いのだが 、その分深さも深いらしい。ところが、この川には「渡し」があった。現地のベルベル人たちが、馬やロバを引いて観光客の「渡し」をやっているのだ。料金は往復で10DH(150円)とのこと。「あれに乗って渡りたい人、います?」とSさんが聞く。どうもSさんはあまり乗せたくないようだ。だが、半数以上が乗りたいという。もちろんわれわれもだ。で、Sさんも立場上乗ることになる。Sさんがリラクタントなのは、以前、彼女のお客さんがこれに乗って、川の中に落ちた前例があるかららしい。なるほど乗ってみると、「渡し」の男たちはお客の安全よりも、早く客を渡して次の客を確保しようと競争する方に神経が行っているから、うかうかしていると振り落とされそうだ。だが、この日干し煉瓦で造られた迷路のような建造物は、実際に歩いてみる価値は十分にある。頂上に建っているのは穀物倉の跡だそうだ。一通り歩いて川べりに降りてくると、また「渡し」の男たちが馬を引いて駆け寄ってくる。渡り終えると往復分の料金を払うのだが、 私も含めて20DHのお札しかないケースが多い。二人分で20DHでいいのだが、彼らは仲間と分け合うという習慣がないらしく、ここで一揉めする。川の手前の村には電気も来ているのだが、こちらも多くは日干し煉瓦作りの建物だ。「バベル」に出てきたのは、どうやらこっちの村の方らしい。日干し煉瓦の壁に眩しい陽の光があたっているのは、なぜか懐かしい感じがする。 アイト・ベン・ハッドゥを後にして、道はアトラス越えの峠にさしかかり、大きくカー ブしながら山を登っていく。オートアトラスには4000m級の山々が連なるが、われわれが越えるティシュカ峠の最高地点は2260m。先月、ペルーのクスコからティティカカ湖に向う途中に越えたラ・ラヤ峠の標高が、4335mだったから、それに比べれば物の数ではない。峠を越えると、道は更にヘアピンカーブが多くなる。カーブのところどころに壷だの絵皿だのを並べて売っている土産物屋がある。雪の残る峠道。こんなところで車を停める人もいないだろうに、どんな商売をしているのだろうか。だんだんと高度が下がってくるのが肌に感じる。 そしてマラケシュの町に近づきつつあるのも。今晩は、テント風のレストランで夕食の後、ベリーダンスと騎馬ショウを見に行く予定だが、かなり寒いとのこと。私の体調は大分快復してはいるが、今日の夕食もパスしてベッドで横になっていることにした。その代わり、ビジネスセンターで30分ほどインターネットをやることに。マラケシュのホテルもフェズと同じロイヤル・ミラージュだが、こちらの方が規模ははるかに大きいようだ。プールを囲んで四つの建物がある。ビジネスセンターはわれわれが泊まっている棟の後ろにある。フェズではインターネットは30分25DHだったが、こちらは同じ30分で60DHと高い。だが、日本語環境もOKで、メールもタイトルこそ文字化けするものの本文はちゃんと日本語で表示される。もっとも返信は英語で出すしかなかったが。 夕食は、今朝のホテルの朝食バイキングから妻が持ってきてくれた林檎を齧って済ませた。騎馬ショウを見に行っていた妻が帰ってきたのは午前零時になっていた。 ...... |
Jan. 6 =Sun= Part Ⅱ バスは昨日までのトラブルを忘れたように、カスバ街道を順調に西に進む。カスバ街道と言うだけ合って、道路の両サイドにカスバ(要塞)を思わせる建築物が見られる。トイレ休憩に降りたガソリンスタンドの向かいにもそれらしき建物がある。入り口に立って話し込んでいる若い女性に、入ってもいいか?と聞くと、綺麗な英語でどうぞ、と返ってきた。だが、彼女たちの写真を撮っていいか聞くと「悪いけど、それはダメ。」ときっぱり断られた。日干し煉瓦の塀に囲まれた中に、やはり日干し煉瓦のいくつかの家がある。塀の外では子供たちの姿もあるが 、中は洗濯物が干してある以外、人の姿はない。だがここで人々が生活しているという気配は伝わってくる。やがて、バスはティネリールの町からカスバ街道を逸れてトドラ渓谷に入る。そそり立つ岩壁が得意な光景を繰り広げる。垂直に切り立った岩壁では、ロッククライミングをしている人の 姿も見られる。峡谷の間の道を突き当りまでいった先のレストランが今日の昼食の場だ。レモンをふんだんに使ったタジンが食欲をそそる。だが、順調な旅はこのあと暗転する。カスバ街道に戻り、目的地ワルザザードに向けて出発。オアシスの前で写真を撮り、バスがブーマルン・ダデスの町に入ったときだった。前方に車が列を作っている。初めは単なる渋滞かと思っていた。だがどうやら違うらしい。この町は、この辺りの県庁所在地にあたり、県庁舎の前に大型トラック数台がバリケードを築いているらしい。バスが止まったあたりに小さな土産物屋がある。車から降りてそこの店主に聞いてみた。「この奥の村から抗議に来てるんだ。」「抗議って、何の?」「村では前から学校もない。医者もいない。そこへもってきて昨日の雨と雪だ。だが役所は何もしてくれない。だから村人あげて何とかしろっていってるのさ。」パトカーが到着するが、小さなパトカーに二三人のおまわりさんが乗っているだけ。とてもデモ隊を鎮圧する用意なんてない。どうやら長くなりそうだ。こうなると困るのはトイレ。近くに小さなカフェがあるが、早々に店を閉じてしまう。前方に有料のくせに汚いトイレが あり、それを利用するしかない。2時間、3時間と過ぎるが、一向に解決する兆しが無い。あたりは夕闇に包まれ始める。添乗員のSさんは皆にバスに座っているように要請する。同じ旅行会社のツアーで、ペルーでデモに巻き込まれ、投石で旅行客が怪我をした前例があり、こうした場合はバスの中で待機するのが規則になっているとのこと。パナマで反政府運動のさなか、道路でデモ隊がタイヤを燃やしている中を運転して通勤したり、米軍の侵攻の後、同じアパートに住む米国人が政府軍民兵に誘拐され殺された事件の捜査中に外に出ようとして米兵に機関銃を突きつけられたりした経験のある私には、こんなおとなしい抗議運動に危険が伴うとは思えなかったが、バスの中にはこの騒ぎの近くにいることの不安を訴える声もあがり、日本大使館に救援を求めるべきだとの意見も出始めた。 去年見た映画「バベル」の場面を思い出す。モロッコ南部の砂漠地帯で遊牧民の少年が戯れに撃ったライフルの流れ弾が女性観光客(ケイト・ブランシェット)の頭部を直撃する。医者を求めて観光バスごと現地の村に急行するが、日干し煉瓦で囲まれた村には医者もいなければ設備もない。夫(ブラット・ビット)は電話で米国大使館に救援を求めるが、モロッコ政府との関係で時間がかかる。怪我人を動かすこともできない中、観光バスの乗客の中には銃弾がテロによるものとの不安が生じ、こんなところに留まっては自分たちもテロに巻き込まれると騒ぎ出す。出発に反対する夫と他の乗客との対立の中、バスは夫婦を置いたまま村を去る。 だが、そんな回想とは別に、私には私だけの問題が生じていた。先ほどから胸焼けが酷くなっている。原因は想像がついていた。食道から胃に通じる部分の締りが悪く、胃液が食道に逆流する「逆流性胃炎」という持病がある。毎晩一回、その薬を飲んでいるのだが、昨夜は雪とスリップ事故による到着遅れもあって、飲むのを忘れていたのだ。いや、この旅の初日の夜には飲んだ覚えがあるが、一昨日も飲み忘れていたと思う。普通なら一日や二日、薬を飲み忘れてもどうってことはないのだが、連日の睡眠不足が重なって胸焼けと胃もたれがだんだん激しくなってきている。今、薬を飲めればいいのだが、薬はスーツケースの中に入れてしまっているのでホテルに着かなければ取り出せない。 とうとう夜になった。現地の人たちは騒ぎを楽しんでいるのか、楽器を持ち出して踊ったりしている。例の有料トイレも閉まってしまった。Sさんが悲壮な宣言をする。「男性の方は適当に処理してください。女性の方はいざという時は「特設トイレ」にご案内します。あの壁の向こうです。私がガードします。今はフランス人の女性二人が使っています。」つまりは男女とも青空トイレだ。 運転手とガイドが警官と話している。もうそろそろ皆の忍耐も切れかけた頃、Sさんが「Uターンして近くの町に戻ることにします。」大型バスがUターンできる道幅はないが、警官が前の方にスペースを作ってくれたらしく、バスは大回りして何とか反対方向に動き出す。県庁所在地とはいえ、観光とは無縁のこの地方都市に30人以上の団体客を受け入れるホテルはない。さきほど、トドラ渓谷に入ったときのティネリールまで、約1時間かけて戻る。現地代理店が手配したのだろうが、オフシーズンとはいえ、こんな状況で30人以上の宿泊を三ツ星ホテルで確保したのは賞賛に値する。ホテルに着くと夕食も準備されていたが、私はほとんど食べられず、先に部屋に入らせてもらった。 薬は飲んだものの、胸焼けと胃もたれは治まらず、睡眠不足なのに眠れない。むかつきはだんだん酷くなってくるようで、これでは明日は出発は無理かもしれないと思い始める。私だけ一日か二日このホテルで休み、タクシーでワルザザードまで行けば、そこからカサブランカ行きの飛行機があるだろうから、日本への出発には追いつけるだろうなどと計算を始める始末。午前3時ごろ、突然吐き気を感じ、口を押えながらトイレに駆け込むと、四五回続けさまに嘔吐した。吐きながら、吐瀉物がよく消化されているのを感じていた。夕食はほとんど食べていないから、ここ二三日分の食べ物が消化されたまま胃の中に溜まっていたらしい。胃の中が完全に空っぽになると、胸焼けや胃もたれ感は消え、楽になった。 翌朝、妻に「昨夜、夜中に吐げたよ。」と言うと、「ああ、何かトイレで音がしていたような気はしたけど。」と、彼女の方はよく眠れたらしい。 ...... |
| January 6, =Sun= 昨夜の到着が遅かったことから、添乗員のSさんは今朝の出発4時半の予定を5時半に遅らせてくれた。おかげでモーニングコールも4時45分となったから少しだけ余分に睡眠時間が取れた。だが、この旅行が始まってからどうもよく眠れない。時差が理由なのかもしれないが3日目の今日になってもなかなか寝付けない。まして朝4時半起きだからほとんど寝ていない。起きると妻が「ほとんど 眠れなかった。」という。だが妻は昨夜横になるとすぐに鼾をかいていた。「そんなことないだろ。こっちは一睡もできなかった。」というと「嘘、よく鼾をかいてた。」という。だとすると少しは眠ったのかもしれない。出発は四輪駆動車に5人ずつ分乗。今日は今回の旅のハイライトでもあるのだが、サハラ砂漠の日の出を見に、メルズーカ大砂丘へ行くのだ。まだ真っ暗な空に無数の星が輝く。都会ではお目にかかれない星空だ。東の地平線上に糸のように細い下弦の月が昇っている。6台の四輪駆動車は最初は一列縦隊で進んでいたが、道路を外れ砂漠に入るとわれわれの車は隊列を離れ、勝手な方角に走り出す。砂漠だからどう行ってもいい のだろうが、夜中だし、一台だけ変なところに連れて行かれホールドアップされたらどうしよう、などと不安な気持ちになる。だがわれらの運ちゃんはただ独立行動が好きなだけらしく、隊列に戻ってはまた離れたりする。40分ほど走ったところで停車する。ここから砂丘の上までは徒歩か駱駝で行くことになる。砂丘まで約30分。最後の5分は駱駝も登れない急な坂で、全員徒歩となる。足許はさらさらの砂で、一歩一歩足がめり込んで歩きにくいことこの上ない。駱駝は足の面積が大きいので歩きやすいのだろうが、ゆっくりした歩みで徒歩のわれわれと変わらない。頂上に着いたのは7時前。「風があるとものすごく寒いです よ。」と添乗員のSさんに脅かされていたのだが、風もなく、砂漠の中を歩いたので汗ばむほどだ。舞い上がった砂がカメラを壊す恐れもあるとのことだったので、防水防塵仕様のカメラだけを持ってきたのだが、こんな無風状態ならビデオカメラホテルに置いてこなくても良かったのにと、少し悔やむ。日の出は7時15分くらいとのことで、東の丘が明るんでくるのを見つめる。ほどなく砂丘の切れ目にダイヤモンドの光が射す。最初の二日は暴風雨、次の日は雪による足止めでどうなることかと思ったが、サハラ砂漠の日の出は完璧な条件で見ることができた。いま、手許にはミネラルウォーターのペットボトルに入れて持っ てきたサハラの砂があるが、赤茶けた砂はまるで水のようにサラサラしている。昔、サウディアラビアのリヤド近郊の「赤い砂漠」に行き、砂を持って帰ったことがあるが、その時の砂と同じようだ。ちなみに今回の旅行では、旅行者の方からもお土産として小瓶に詰めたサハラの砂を一つずつくれた。こちらには一瓶に一つずつアンモナイトの小さな化石が入っている。砂漠からホテルに戻る途中、遊牧のベルベル人のテントに立ち寄ってミントティをご馳走になるというイベントがある。どこまでも広がる砂漠の中にテントを張りっているが、横にはテントではなく日干し煉瓦でできた小屋もあるし、山羊のため の家畜小屋もある。小屋には機織機があって、幼い女の子が機を織り、弟らしい少年がそれを見ている。テントでは母親と姉とがわれわれ観光客のためにミントティを淹れている。この一家は現地の旅行会社と契約して、これを生活の糧にしているのだろう。ベルベル人のミントティはフェズの民家でご馳走になったのよりも美味しかった。いったんホテルに戻り、朝食を済ませた後、いつものバスに乗る。これから約2時間かけてカスバ街道を西へ進み、トドラ渓谷を観光かたがた昼食となる。砂漠の中を町が現れてはまた砂漠にという繰り返し。その中に、昔ベルベル人たちが造った水道の跡がある。砂漠の中を高さ3メートルほどの土の山が点々と並んでいる。その真ん中には穴があり、穴は深さ10メー トルほどあるという。その穴の底には隣の穴へと向けて水道が通っている。今はフランス人が建造した水道に置き換えられて使われていない。だがベルベル人の技術も大したものだ。ベルベル人といえば、旅に出る前にwikipediaでベルベル人を引いてみた。大体の概要を頭に入れるためだったが、そのとき「有名なベルベル人」という項目の一番最後に「澤尻リラ - 女優澤尻エリカの母」とあった。澤尻エリカといえば、たしか昨年、映画の舞台挨拶だか記者会見だかでぶっきらぼうな発言をしてバッシングを受けていた若手女優だ。念のため澤尻エリカの方もwikipediaで調べてみたら、日本人の父親とフランス人の母親のハーフとある。母親はアルジェリアの生まれだそうだから、もしかするとアルジェリアのベルベル人でフランス国籍なのかもしれない。 ...... |
| Jan. 5 =Sat= 昨日までの雨が嘘のように上がり、青空が広がっている。今日は8時の集合で、アトラス山脈を越えて砂漠地帯のエルフードまで7時間かけて460kmの移動を予定している。集合時間にロビーに行くと、添乗員のSさんが「まだバスには乗らないでください。」と呼びかけている。バスの運転席の後の列には添乗員とガイドが座るので、その次の列が乗客の最前列となる。人気のあるこの列は抽選で交代に座ることにしているが、乗客の中に耳の不自由な、一人旅の若い女性がおり、彼女は人の口の動きが読めれば言葉が分かると言うので、昨日の話し合いで、添乗員の口の動きが分かりやすい最前列を彼女に譲ろうと言うことになっていた。そのことでバスに乗るのを待ってくれ、というのだと思っていたのだが、皆が集まってからSさんの口から出たのは予想外の言葉だった。「山越えの道路が昨日からの雪ですべて閉鎖されているとの情報です。暫くこのまま待機します。」 昨日まで暴風雨に悩まされ、やっと晴れたと思ったら今度は雪で道路閉鎖とは。だが、天候のことなので文句を言っても始まらない。チェックアウトしたホテルの部屋をもう一度使えるようにするので、部屋で休 むこともできるとのことだが、じっとしていても仕方ないのでホテルの周りを一回り。11時前になって、「まだ道路がいつ閉鎖解除になるか分かりませんが、ともかく出発してみます。」との見切り発車で出発する。確かに山道にさしかかるとだんだん雪が多くなってくる。車道は除雪されているが、道路わきには雪が積み重なり、周囲は白い絨毯で覆われている。通り過ぎる町ごとに、赤白まだら模様の遮断機が道路を区切っている。この遮断機が下がっていればそこから先へは進めない。今のところ、遮断機は上がっているが、もともと雪の少ない地方であり、この先どこまで除雪ができているかの保証はない。除雪車といってもブルドーザに除雪用のブレードを付けただけのものらしい。だが道路は除雪された状態がどこまでも続く。今日越えるのは西側のオート(高)アトラスではなく、東側のモヤイヤン(中)アトラスだ。除雪されているとはいえ、日陰部分は道路が凍結している恐れがある。バスは時速40キロ弱で慎重に進む。トイレ休憩に訪れたイフレンのカフェでパンを買って食べる。イフレンはアトラス杉の林に囲まれたヨーロッパ風の別荘地で、近くにスキー場もある。もうお昼を回っているが、昼食を予定しているミデルトまではまだ大分距離がある。 イフレンを出て暫く行くと、道路が渋滞している。これまでは雪のため徐行していても、もともと行き交う車の数が少ないから渋滞はなかったが、ここでは前方に車がずっと続いている。いよいよ道路が閉鎖されているのかと思ったがどうやらそうではないらしい。様子を見に行ったバスのアシスタントによれば、前方で小型バスがスリップして道路を塞いでいるとのこと。道路の反対側をこちらに来る車はあるし、われわれのバスを追い越していく小型車もある。小型車なら少し無理をすれば通れるのかも知れない。だがやがて対向車も来なくなった。大型バスが無理に通ろうとしてやはりスリップしたようだ。こんな山道ではレッカー車も来そうもない。時間は30分、1時間と過ぎていく。二時間近くたったろうか、私が現場に近づいた時、ようやく立ち往生していた小型バスが動き出した。凍結した地面に木の枝や葉っぱを敷き、人々が押してやっと脱出したのだ。小型バスが動けば大型バスも動く。こうしてようやくのこと、われわれのバスも前に進むことができた。かくしてミデルトのカスバ風レストランで鱒料理の昼食にありついたのは5時前になっていた。このあたりはもう砂漠地帯で、当然雪なんかない。砂漠の丘に沈む夕陽を車窓越しに見ながらエルフードのホテルに向う。予定ではホテルに夕方6時到着のはずが、9時をまわっていた。それから夕食。明日は4時起きだ。 ....... |
| Jan. 4 =Fri= 朝起きると今日も雨。もしかすると砂漠でも雨に降られるんじゃないかと憂鬱になる。モロッコ旅行ではカサブランカの空港に着いた時点から、ローカルガイドが同行する。ガイドのジャリル氏は50歳前後だろうか、 髪の毛が大分後退している。先月のペルーでは、リマでもマチュピチュでもガイドは日本人だったが、アラブ人のジャリル氏は日本語は話せない。添乗員のSさんがジャリル氏の英語によるガイドを通訳する形だが、モロッコにもう20回以上も来ているSさんは、ジャリル氏のガイドがなくとも説明できるし、現に彼の言葉の1.5倍くらいの説明をしているようだ。そしてそれぞれの町ではジャリル氏に加えてもう一人ローカルガイドが着く。おそらくガイドたちの権利を守るために法律でそうなっているらしい。われわれが30年前に住んでいたギリシャでもそうだった。在住の日本人が、たとえ日本から来た友人であっても、数人の来訪者を前に「あれがパルテノンで・・」と指をさして説明しようものなら、早速観光警察が飛んでくる。昨日、ラバトでもローカルガイドが来た が、来るなり「雨だからいいだろ。」と、来たと言う伝票だけを受け取ると帰ってしまった。後でその伝票を会社に提出して規定の料金を受け取るのだ。今日のローカルガイドは背が高く、もう少し真面目な男で、「おはようございます。」を英・仏・独・西・日の5ヶ国語で挨拶するが、実際には日本語は話せない。だが、特に今日は世界遺産でもあるフェズ旧市街の迷路を歩くので、ローカルガイドは必須なのだろう。ツアー参加者から、合羽を買いたいという希望が出る。妻のように折り畳み傘が壊れてしまった人も何人かいるし、強風の中では傘が役に立たず、またフェズの迷路の細い道では傘をさしていられないこともあるので、合羽の方が歩きやすい。昨日、ジャリル氏が調べたらどこにも売っているところがないとのことだったが、ローカルガイドはいくつか心当たりの 店があるという。だが今日は金曜日。ほとんどの店が閉まっており、結局買うことはできなかった。雨を見込んで傘を売り出す連中が増えたのはやっと昼前になってからだが、この傘がまた大きく、旅行で持って歩くには不便なため、誰も買う人はいなかった。かつてモロッコの首都であったフェズにも王宮がある。現在も国王がフェズに来るとここに泊まるという王宮は、正面からしか写真を撮ってはいけないそうだ。メディナに入る入り口にあるのがブー・ジュルード門。門のアーチの向こうに二つのミナレットが見える位置が写真ポイントとのこと。門をくぐって少し行くとブー・イナニア神学校がある。ここは二階が寄宿舎になっているとのこと。14世紀に建てられたこうした建物にはイタリア産の大理石がふんだんに使われている。当時、モロッコは砂糖をイタリアに輸出し、交換に大理石を輸入していた。砂糖は消費 されてなくなってしまうが、大理石は今なお残り、建物を支え、飾っている、というのがモロッコ人の自慢らしく、これから何度も聞かされる。雨は少し小降りになってきたようだ。ここからローカルガイドを先頭にフェズの「迷路」を歩く。金曜日なので閉まっている店が多いが、開いている店もある。 雨の中でも人通りの多い路もあれば、暗く、人の気配のない路もある。二階部分に材木で支えを組んだところもある。ローカルガイドに聞いてみると、ユネスコがスポンサーになって修復工事をやっているのだそうだ。このあたり、狭い路地に家々が接して並んでいるが、火事になったら一たまりもないのではないか。消防車も入っては来られないだろうし。ガイドによれば、何百年か前、火事で多くの死者が出たことがあり、それ以来、街を挙げて火の元には用心しているのだそうだ。無数の入り組んだ小路にはそれぞれ名前があり、家には番地が振られている。郵便物は扉の下の隙間から投げ入れられるが、一部には扉に郵便受けをつけた家もある。![]() フェズはまた、工芸の都市でもある。土産物屋を兼ねているブロンズ工芸の店に立ち寄る。もっともわれわれは例によって何も買わないのだが。 代表的なモロッコ料理といえばタジン。分厚い陶器の大皿に肉や野菜を盛り付け、円錐状の陶器の蓋をして長時間かけて蒸し焼きにする。素材の味が引き出され、日本人の口にも合う。今日の昼食は、大邸宅を改造したレストランでのビーフとプルーンのタジン。アラブ式のパンも結構いける。この円錐形の独特のタジン鍋はこれからの食事でもいつも出てくるし、街角の土産物店でも売られているが、こんな嵩張るものを土産に買って帰る人は少ないだろう。 食事と言えばもう一つモロッコで独特なのがミントティ。食事の後、民家を訪れてそこでミントティをご馳走になる。緑茶の葉をポットに入れて湯を注ぎ、それにたっぷりとミントの葉を加える。これをグラスに注ぐのだが、ポットを高々と掲げ、大きな落差をつけてグラスに注ぎ込む。こうすることでビールのように泡が立つのが正しい淹れ方なのだ。砂糖も加える。極太の大根のようなものがあり、これが砂糖を固めたものだ。この塊りを適当な大きさに切ったものを使う。だが、われわれには砂糖抜きのストレートの方が口に合う。 ![]() ところでこの緑茶だが、モロッコでお茶が栽培されているわけではなく、中国からの輸入だ。ではなぜ国産でもない緑茶がモロッコで飲まれるようになったのかというと、クリミア戦争(1854-1856)が原因だという。英・仏・トルコなどがロシアを相手にクリミア半島を舞台に繰り広げられた、当時としては大規模な戦争だが、このとき英国は自国の兵士に紅茶の代わりに緑茶を与えた。しかし緑茶は英軍兵士の口に合わず、輸送途上のモロッコの港で大量に捨てられることになる。(クリミア向けの輸送ができなくなったためにモロッコで売却したという説もある。)モロッコの人々はこの緑茶に自国産のミントを加えて新しい飲み方を考案したのだそうだ。(この話はモロッコで聞いたのではなく、帰国した翌日にテレビやっていたモロッコ旅番組からの引用。) お茶を終えてまた細い路地を歩き、広場に出ると雨が上がって青空も覗いていた。更に歩くと異様な臭いが漂ってくる。タンネリと呼ばれるなめし革と染色の職人の街だ。革かばんなどを売っている店の二階から見ると、様々な色の染料の小さい人工池みたいなのが並んでおり、下半身パンツだけの染め職人が足で染料をかき回していた。 ...... |
| Jan. 3 =Thu= 2日、エールフランス機で成田を発ち、パリのシャルル・ド・ゴール空港で乗り換えてカサブランカに着くまでは順調だった。だが、カサブランカ空港で小雨が降っていたのはやや予想外だった。雨の少ない国だという先入観があった。夜、ホテルの部屋からもわかるほど、外では強い風が吹いていた。そして翌朝起きてみると、雨こそ降っていないものの、椰子の木が強風で揺れている。こ の日は9時に観光バスでホテルを発ち、首都ラバトの市内観光に続いて世界遺産の古都メクネスを見て、宿泊地のフェズに向う予定。カサブランカは人口360万人と全人口の10%余りを擁するモロッコ最大の都市だが、ラバトは人口120万人で第二の都市。1912年にモロッコがフランス保護領となって以来、ここに首都を置いており、現国王ムハンマド6世の王宮もここにある。まず第一にその王宮に向ったが、バスを降りたとたん、強風に煽られる。王宮まで歩いていくうちに雨脚も激しくなり、傘 はたちまちのうちにおちょこになる。妻の折り畳み傘など、あっという間に骨が折れてしまう。先月、マチュピチュに行ったときは、添乗員からくどいほど雨具の用意を念押しされ、折り畳み傘のほかに合羽を持参したのだが、結局使う機会はなかった。今回は雨の確率はずっと少ないはずと勝手に判断し、合羽を置いてきたのが誤算だった。もっとも合羽を持ってきているのは30人ほどの参加者のうち数人に過ぎない。![]() 今日は一日雨の中と覚悟を決めて、次にムハンマド5世廟へ向う。ムハンマド5世はフランスからモロッコの独立を勝ち取った王で、廟は12世紀末に建て始められた未完のミナレット、ハッサンの塔と同じ敷地にある。このハッサンの塔は、スペイン・セビージャのヒラルダの塔、マラケシュのクトゥピアと並んで世界最大級のミナレット(回教寺院の尖塔)と言われるそうだ。そう言えば、30年近く前にセビージャを訪れた時、ヒラルダの塔は修復 中だった記憶がある。廟の入り口には赤い制服の警備兵が立っており、カメラにも応じてくれた。廟の内部は黄金色のランプがいくつも光る中、ムハンマド5世の石棺と並んで、彼の後を継いだ前国王ハッサン2世の棺も安置されている。 ラバトのもう一つの見所がウダイヤのカスバ。カスバというと、歌謡曲「カスバの女」のイメージから場末の酒場町のようなところを想像しがちだが、本来の意味は要塞とか城塞とかで、メディナ(旧市街)の一角を監視用の高い塀で囲ったものを指したり、地方では民家が四隅に監視塔のついた塀で囲まれているのを指す場合もあるらしい。ここウダイヤのカスバも、周囲は赤茶色の土塀で囲まれているが、中は白と青とに塗り分けられた、なかなかお洒落な感じの路地が続く町だ。ここに現地の人たちが写っていれば絵になるのだが、残念ながら雨の中を歩く人も少ない。 次に向う先はメクネス。ここは町自体が世界遺産に指定されている。周辺は葡萄畑が広がり、メクネスワインの産地としても有名。旅行中飲んだモロッコワイン はすべてメクネス産だった。この町は、17世紀に王位に着いたムーレイ・イスマイルが首都と定め、壮大な王都建設を企てたが、夢半ばにして没した。彼は異教徒(キリスト教徒)を弾圧し、数万人の異教徒を地価牢に鎖でつなぎ、昼は建設労働者として酷使したと言われる。ムーレイ・イスマイルが手がけたマンスール門は、北アフリカでもっとも美しいと言われるが、残念ながら雨の中で薄暗くなっており、その姿を堪能することはできなかった。 ![]() ムーレイ・イスマイルはフランスの太陽王ルイ14世と同時代の人間で、ルイ14世に対して対抗心があったとか親交があったとか伝えられているらしい。しかし結局、メクネスが首都であったのは半世紀に過ぎず、彼の死後はこの町も衰退していく。だが、彼の墓があるムーレイ・イスマイル廟は今なお重要なモスリムの霊廟として残っている。この廟に入るには雨に濡れた靴を脱がなければならない。 ![]() メクネスからバスで1時間、今日の宿泊地であるフェズに到着する。ここのホテル(ロイヤル・ミラージュ)には二連泊なので少し落ち着ける気がする。雨でゆっくり観光できなかった分、少し早めにホテルに入れたので、妻が一眠りしている間にビジネスセンターに寄ってインターネットを使ってみる。部屋にもLAN用のケーブルがあるのだが、これを使うと24時間単位で100ディルハム(DH、1DH=約15円)かかる。ビジネスセンターでは30分単位で25DH。割高だがそんなに使わないのでこっちで十分だ。だが、キーボードがフランス語用でキー配列が微妙に違うのと、言語は英語とフランス語だけという。それで朝日新聞の英語版のサイトに接続し、日本のニュースをチェックすると、株式市場の大発会で株価が昨年末から日経平均で600円以上暴落したという暗いニュース。 なお、部屋の机にはメッカの方角を示す矢印が付いていた。 ..... |
| January 1, 2008 =Tue= 新年といってもとくに何事か変わるわけではないが、今日のように青空が広がるとやはり清々しい気分になる。1階の郵便受けから年賀状を取り出し、さらに歩いて4分ほどの妻の事務所に来ている年賀状をとりに外に出てみると、日頃渋滞の酷い小滝橋通りも陽だまりの中に閑散としている。それでもベローチェ、松屋、サイゼリヤ、ブックオフ、ミニストップなど、開いている店もある。 年賀状のほとんどはこちらからも出した先ばかりだが、何枚かはこちらから出していない先もあるので、まずその返信を書く。その後は、明日からのモロッコ旅行に備えての荷物の準備。頼んでおいた宅配便業者が4時にスーツケースを集荷に来る。元日からも働いているところは結構あるのだ。風邪がまだ完全に抜けていないのが少し心配だ。それにしても二ヶ月連続で遠方への旅はやはりこたえる。今度からはもう少し日程を調整しなければ。 . |