Diary


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September 29, 2008 =Mon=

湘南新宿ラインで大船まで行き、タクシーで「横浜霊園」へ。若くして亡くなった甥の七回忌。といっても参列者は故人の母親(私の弟の妻)とその長男(故人の兄)、それに私の三人だけ。弟一家はむかし金沢文庫に住んでいたので、弟が55歳で亡くなった時にその妻が横浜霊園にお墓を建てたが、妻は大阪の彼女の実家近くに家を買い、息子兄弟だけが関東に残った。しかしその弟の方は父親の死後2年目に後を追うように亡くなった。だから法事には弟の妻は大阪から出てくることになる。わが家系は祖母が87歳、父が91歳、母が92歳と、比較的長命なのだが、なぜか弟のところが早世なのだ。

この横浜霊園という墓地、規模は結構大きいのだが、ネットで見てもホームページが出てこない。金沢文庫からバスもあるらしいのだが、どうせ本数が少ないので、いつも大船からタクシーで行くことになる。大きいので入口も二つか三つ、管理事務所も二つくらいあっていつも迷ってしまう。今度行くときのためにここに書いておこう。「第一横浜霊園」という看板の出ている入口だ。

今日はまだ九月だというのに寒い日だった。お坊さんがお経を読んでいる間は雨は止んでいたが、終わったらしとしとと降り始めた。親切なお坊さんで、個人が若くして亡くなったのに同情していろいろと説話を話してくれるのはいいのだが、甥(個人の兄)など風邪気味な所へジーンズに上はTシャツ一枚という格好なので震えていた。
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September 26, 2008 =Fri=

忙しい一日。朝から品川で会議があり、終わって丸の内、それから神田、また丸の内に戻って再び品川。その間にアフリカ出張のことで旅行エージェントと東京検疫所に電話。黄熱病の予防接種ができるのは東京には二か所しかなく、しかも曜日が決まっていて、一番近い八重洲の鉄鋼ビルにある日本検疫衛生協会の診療所は10月下旬まで満員とのこと。それで台場の東京検疫所に電話して来月7日に予約が取れた。早ければ10月末にも出発となるので、10月下旬だと間に合わない恐れがある。接種から10日経たないと有効にならないからだ。あと、ビザの手配もある。これからも忙しい日が続きそうだ。

世の中狭いというか・・・今日の午後、千葉の方に工場を建設中の会社に関して、その会社が契約する予定の税理士(公認会計士資格も持つ。)に丸の内まで来てもらって打ち合わせを行った。税理士と一緒に来られた初老の男性が、鉄鋼メーカーN社の元経理担当だったと聞いて、昨夜一緒だったYさんの名前を出してみたら、ご本人だけでなく税理士の先生もYさんをよくご存じとのこと。
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September 25, 2008 =Thu=

日本橋本石町、日銀本店の隣のビルにある「東レ社員クラブ」で、Hさんを中心とする「松戸会」の幹事会。Hさんのほか、鉄鋼メーカー出身のYさん、素材メーカーでまだ半ば現役のSさん、M物産OBのItさん、総合電機H社OBのInさん、それに私で都合6名。気心の知れた仲間なので、酒と話が進む。

日本の新内閣発足の記事は、海外ではこんな程度だった。
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September 24, 2008 =Wed=

キオスクで見かけた今日の夕刊紙の広告。夕刊フジは『麻生 自爆組閣』、夕刊ゲンダイは『麻生 墓穴組閣』。

今日の打ち合わせで、11月にエチオピアなどアフリカ諸国に出張が本決まりになったが、同時に飛び込んできたのが「エチオピアで邦人誘拐」のニュース。
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September 22, 2008 =Mon=

自民党総裁に麻生太郎を選出。最初から結果が分かっていての総裁選と言う猿芝居だが、麻生を選ばれた理由は「選挙の顔」だという。まあ、相手が小沢一郎だからどっちもどっちだが、あの口のひんまがった顔がどうして「選挙の顔」になり得るんだろう。やくざの若頭ならともかく、あの顔が日本の代表なんて考えただけでも気持ちが悪い。

一方、三菱東京UFJがモルスタに1兆円近くを出資して筆頭株主になり、野村證券はチャプター11のリーマン・ブラザーズのアジアと欧州部門を買い取るとか。日本の金融危機に際しては米国のファンドが長銀などを買った。その前の日本の不動産バブル時期には三菱地所がロックフェラーセンターを買ったり青木建設がウェスティンホテルグループを買ったりした。何かデジャブの感じがする。
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September 21, 2008 =Sun=

マリオットの入り口で棒に付けたミラーなどを使い、
車を検査する警備員(2002/5/21)
パキスタンの首都イスラマバードでマリオットホテルに自爆テロのトラックが突入し、ホテルは炎上、宿泊客ら40人以上が死亡し、200人以上のけが人が出た。まずホテルの門に小型車が突っ込んで爆発し、門が開いたところにトラックが突っ込んで爆発、さらにパイプから漏れていた天然ガスに引火したという。現場には深さ10メートル以上の穴があき、何台もの車が大破している。

2002年5月にパキスタンへ出張したときに泊まったのが確かマリオットだった。あの時も、カラチではシェラトンを予約していたのだが、われわれが行く1週間前にシェラトン前の路上で爆発があり、フランス人12人が死亡した。それで予約をヒルトンに変えたのだが、われわれが泊まった時は何事もなかったものの、帰国して1週間後にはヒルトンと隣の米国大使館の間あたりで爆発があった。シェラトンの前の道路には大きな穴が開いたままになっていた。どこのホテルも入り口に検問所を設け、入ってくる車の底を一台一台ミラーで確認していたが、検問を突破する自爆車両ではどうすることもできないだろう。

自民党は相変わらず茶番の総裁選を繰り広げているが、何を間違ってか泡沫立候補した石破元防衛相が聞き捨てならないことを言っていた。米国のいわゆる「対テロ戦争」に絡んでのインド洋給油活動の継続を訴えるのは勝手だが、「石油が高いから止める、憲法違反だから止める、そんなことでいいのか!」この言葉、裏を返せば「たとえ憲法違反であっても給油活動はやれ。」と言っているのだ。自民党総裁と言えば、今度はそうならないかもしれないが、今までだったら半自動的にこの国の総理大臣となる。一国の総理となるべく総裁選に出る人物が、平気で「憲法に違反しても構わない」と演説し、それをマスコミは垂れ流すだけで批判しようともしない。恐ろしく、かつ嫌な世の中になりつつある。インド洋給油活動とは、アフガン戦争の延長線上にある。イラクにしても、アフガンにしても、そしてパキスタンにしても、ジョージ・ブッシュが始めた戦争であり、お調子者のコイズミが追従して日本も巻き込まれることになった。その結果、イラクでも、アフガンでも、そしてパキスタンでも、何十万、何百万という無辜の一般人が犠牲にされている。
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September 19, 2008 =Fri=

リーマン・ブラザーズに続いて経営危機に瀕していたAIGグループはFRBによる緊急融資で何とか破綻を免れることになったようだが、このニュースを見て思い出したのは「きっこの日記」で何カ月か前に、「いまテレビでじゃんじゃんコマーシャルを流している外資系保険会社が近いうちに倒産する。」と予言していたことだ。しつこくテレビでCMを流している外資系保険会社と言えば、アリコなどAIGグループ、アメリカンファミリー、アクサなどだが、「きっこの日記」で言っているのがAIGだとすれば予言的中と言うことになる。もっとも、2年から5年くらいのうちにとも言っていたので、少し予言より早すぎるようではあるが。
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September 18, 2008 =Thu=

会社を少し早めに出て、4時過ぎに娘の家へ。娘がヴァイオリンのコンサートを聴きに行きたいと言うので、双子の面倒を見る。娘も双子の子育てを懸命にやっているが、少しは息抜きさせてやらないと。娘の夫は残業続きだし、我々夫婦はしばらく日本を留守にしていたし、この間大変だったろうと、今日は私、明日は妻が、そして明後日は夫婦で手伝いに行くことになっている。双子のうち一人が少し風邪気味で熱っぽい。夕食を食べさせ、風呂場でシャワーで身体を洗い、寝かしつける。以前は食事はスプーンで食べさせていたのだが、この頃は自分でフォークやスプーンを使って食べないと気が済まず、スプーンで口元に持って行ってやっても受け付けない。自分でやってくれるのだから楽だろうと思ったが、フォークにうまくご飯を乗せられなかったり、途中で遊びだしたりで、却って大変だ。娘の指示では8時に寝かせるとのことだったが、風邪気味なのを考慮して予定より15分ほど早めに寝かしつける。それでも10時過ぎに娘が帰ってくるまでに2度起きて泣き出し、その都度あやしてまた寝かせる。
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September 15, 2008 =Mon=

リーマン・ブラザーズがチャプター・イレブンを申請。メリルリンチはバンカメが救済合併。3月にモルガン・チェースに救済合併されたベア・スターンズを含め、花型業種だった投資銀行がサブプライムローンのお蔭で見るも無残な凋落。今日は日本は休日だが、明日の東証は暴落だろう。やれやれ。
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September 14, 2008 =Sun=

歌舞伎町のスポーツクラブ、東急スポーツオアシスで、いるも見かける顔がある。クラブのビルの屋上にある屋外プールに行くと、時間にもよるがたいがい顔を合わすことになる。髪を金髪に染め、真黒に日焼けしている。プールにいつもいるので、最初のうちはプールの監視員かとも思ったが、ジムでも見かけるのでクラブのメンバーには違いない。平日の昼間でも見かけるので、場所柄から言って夜の仕事なのだろうと見当をつけていた。旅行に行く前、ジムで見かけたときに「日焼け命」と染め抜いたTシャツを着ていたので、「それ、特注ですか?」と声をかけてみた。そうしたら「ええ、お笑いをやってまして、これ、舞台衣装です。」との返事。その時はそれだけの会話だったが、今日またあったので、「この前、お笑いをやってられるってことでしたが・・」と聞くと、「日焼けのジョー」という芸名でこの近くのライブ劇場に出ているのだそうだ。「やっぱりテレビに出ないとだめです。オーディションもいろいろ受けてるんですが・・」一見、若そうだが、どうやら40歳代くらいらしい。「変わったキャラだから、一度火がつくと大化けするかも知れませんね。」「そうなるといいんですが。」

家に帰ってから「日焼けのジョー」をググってみたら、結構情報が集まった。今年の¥「27時間テレビ」にも少し顔を出していたらしい。
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September 12, 2008 =Fri=

朝8時過ぎ、ほぼ定刻に成田に着く。それでも通関を済ませ、スーツケースの宅配手配をしたりしていると、新宿に着いたのは12時前。海外旅行の帰りは、食事時だと必ず新宿地下街の回転寿司「沼津港」に行く。今日は帰りを急ぐ用事もあり成田エクスプレスだったが、「沼津港」はエアポートリムジンの発着場所のすぐそばにある。ここは回転寿司では少し高いが、ネタが新鮮で外国の食事に辟易した後にはちょうどいい。明日から三連休なのもありがたい。
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September 11, 2008 =Thu=

ザグレブの市内から空港まではそれほど距離があるわけではないが、それでも一応国際線で朝8時40分の飛行機に乗るとなると、暗いうちに出発しなければならない。朝食は昨夜のうちに渡されたランチボックスだが、ジュースだのヨーグルトだのが入っているから、空港でのセキュリティチェック前に食べてしまわなければならない。昨夜のサッカーは、イングランドが3点目を入れて3-1としたところまではテレビで見ていたが、結局4-1でイングランドがクロアチアを下した。ニュースで"Earthquakes hit Japan and Indonesia."というテロップが出ていたので、携帯電話で日本のニュースをチェックしたら「十勝沖で地震、震度5弱」とある。旭川にいる息子にメールを入れると、「だいぶ揺れたけど大したことはなかった。」との返事。

北海道と言えば、同じグループに北海道から参加の2組の夫婦がいる。一組は札幌の病院で放射線技師をやっている人、もう一組は札幌に近い恵庭で農場を経営している。その他に夫婦連れはわれわれと、あと、高田馬場に事務所のある練馬区在住の建築家、リタイアして写真三昧という鎌倉在住の人、そして関東のある県庁職員同士の新婚組と、計6組。他には旅行友達グループと言うおばさんたち4人組。別のおばさん二人組。OL二人組。今はなき某商社OBのTnさんとその友人。一人旅は某市職員、遺跡巡りが好きだという女性、それに謎のご老人。「謎のご老人」というのは、お歳が70歳くらいだがこれが初めての海外旅行(はじめての海外がクロアチア??)というが、余り他人と話をせず、目を離しているととんでもない方向に歩いて行ってしまう。どうやらうちの近くにお住まいのようで、わが家の下にあるスーパーにはよく買い物に来ているという。そういえば添乗員のKrさんもうちの近くだ。某商社OBのTnさんは私がパナマに駐在したより10年ほど前にそのパナマ駐在員だったそうで、昔の話になった。札幌の放射線技師は東国原宮崎県知事に、練馬の建築家は民芸の滝沢修に、鎌倉の写真愛好家は塩爺こと塩川元財務相に、それぞれ似ていると思ったが、食事の席で3人にそのことを話すと、三人からは「そんなこと言われたの初めてだよ。」と一笑に付された。

ウィーンでの乗り継ぎは、来るときと違って4時間ほどある。Krさんに「外へ出てウィーンの市内まで行ってきてはいけない?」と聞くと、「別に禁止はしませんが、入出国審査の時間を除けば3時間弱だから、ちょっと難しいんじゃないかしら。」ということで、空港内で待つことに。だがトランジットルームでは店も少ないので、いったん入国手続きを取る。考えてみると、今回の旅行はパスポートを新しくして初めてなので、査証欄は真白なのに、入出国のスタンプを押したのは(成田を除けば)来たときのウィーンでのオーストリア入国、出発時のザグレブでのクロアチア出国、そしてウィーンでの入出国だけ。スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、モンテネグロと国境を越えて行き来した割には寂しいような気がする。
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September 10, 2008 =Wed=

ホテルをバスで出発するとすぐにプリトヴィッツェ湖畔国立公園の入り口。この公園内には16の湖があり、湖面の高さには最大500メートル近い差がある。このため湖の水は数多くの滝となって湖から湖にと流れ落ちる。一番低い湖のそばから入り、湖と滝と森を見ながらハイキングコースを歩く。湖には無数の魚がいる。鯉の一種だそうだ。標高の高い湖に行くと鱒もいる。湖の水があまりに清らかで、中央部には魚の餌となる生き物がいないらしく、魚たちは森や草むらの虫たちがいる湖岸近くに集まっているらしい。枯れ木が湖に沈んでいるのが見えるが、湖はかなり深そうだ。

このプリトヴィッツェ湖畔国立公園は、1979年にすでにユネスコの世界遺産に登録されていたが、1991年のクロアチア内戦に際して一時セルビアの管理下に置かれた。その後クロアチアに戻ったものの、千歳により荒れ果て、世界遺産危機リストに載せられることになった。しかしクロアチアの努力で現在は元の姿を取り戻し、危機リストから除外された。実際、公園の中を歩いてみると戦災の痕など全く見られず、心憎いばかりに整備されている。もっとも歩いたのは200平方Kmに及ぶ公園のほんの一部に過ぎないのだが。

入場券には、誰にも分かるように禁止事項が絵で表示されている。①通路以外を歩いてはいけない。②草花を摘んではいけない。③ゴミを捨ててはいけない。④焚き火をしてはいけない。⑤(冬に滝が凍った)つららを折ってはいけない。⑥木に落書きしてはいけない。⑦キャンプをしてはいけない。⑧湖で泳いではいけない。⑨魚を釣ってはいけない。⑩犬を鎖から離してはいけない。

滝から生まれる陰イオンと森の空気のおかげで身体の芯まで清浄になったようなハイキングの後、遊覧船に乗り細長い湖を縦方向に渡る。船で隣り合った人に、「どこから?」と聞くと「ケープタウン」とのこと。ハンガリーに一週間、クロアチアに一週間いて、あとブルガリアに一週間で合計3週間のバカンスだそうだ。「もしかすると、11月頃仕事でヨハネスブルグに行くかも」と言うと、「ヨハネスブルグなんてビジネスばかりでつまらないよ。ぜひケープタウンにおいで。」そういえば、飛行機の中でトイレの順番待ちをしていて前に並んでいるスェーデン人と話をしていて、「北欧は行ったことないんで、機会があれば行きたい。」というと、「ストックホルムよりずっと北の方だけど、Ice Hotelというのがある。これは素晴らしいよ。ぜひ行ったらいい。」と言われた。まだまだ行くべきところがたくさんある。もっとも、アイスホテルの方は後でネットで調べたらとても高そうだが。

船を下りるとまた少し歩いて、今度はエコカーに乗る。環境負荷が少ない天然ガスで走る3両連結のバスだ。これを降りたところから少し歩くと今日の昼食場所だ。バスで一緒になったのは台湾から来た団体。向こうには日本語を話す人もいるので、われわれのグループと声を掛け合う。昼食のレストランは彼らは隣の建物だった。昼食はこの湖で獲れたのだろう、鱒料理。レストランを出て裏手に回ると、そこは今朝出発したホテル。われわれのバスはそこに戻っている。

今回の旅も次のザグレブで終わりになる。プリトヴィッツェから首都ザグレブまでは2時間半ほどのドライブ。ここも古い町だが、いままでのアドリア海沿岸のリゾートタウンと違って人口120万人の大都会。Krさんの説明によると、アドリア海沿岸がヴェネツィア支配下にあったのに対して、ザグレブはスロヴェニアと同様に、ハプスブルグ家率いるオーストリア・ハンガリー帝国の影響が大きく、それだけ建物は重厚で人々は勤勉なのだそうだ。

今日はちょうどザグレブでクロアチアとイングランドのサッカーの試合がある。このため、ザグレブでバスを降りたときから、紅白の市松模様のクロアチア国旗を模したTシャツを着たサッカーファンが大勢集まっては気勢を上げている。興奮した群衆が騒ぎを起こさぬよう、こちらも大勢の警官が警戒に当たっている。英国から到着したイングランドの応援団らしい人々も見受けられるが、こちらは少し肩身が狭そうだ。まだ試合前にこれだけ盛り上がっているのだから、勝つにせよ負けるにせよ、試合が終わった後の騒ぎも想像がつく。

ザグレブのシンボルは聖母被昇天大聖堂。ここ数年来補修工事が続けられている。内部に入ると、前方の祭壇とステンドグラスにも目を惹かれるが、後方の壁の十字架像の上に奇妙な文字が描かれているのに気が付く。ラテン文字でもキリル文字でもない。象形文字のようにさえ見える。これは帰ってからネット検索で調べたのだが、この文字はグラゴル文字といって、9世紀後半にギリシャ正教会のキュリロスとメトディオスがスラブ圏の異教徒たちに正教を布教する目的で作ったもの。グラゴルとは、古代スラブ語で「言葉」を意味する。このグラゴル文字を元にして現在のキリル文字が生まれたのだ。キリル文字の「キリル」というのは「キュリロス」から来ている。スラブ圏ではグラゴル文字はキリル文字に置き換わっていくが、クロアチアでは比較的最近までグラゴル文字が使われていたらしい。ギリシャ文字とキリル文字には共通する、あるいは似たような文字が多いが、キリル文字のルーツがギリシャにあるのなら納得がいく。

聖母被昇天大聖堂から石の門をくぐる。ここの祠に祀られた聖母像は、18世紀の大火でこの城門が焼け落ちた際に奇跡的に無事だったという。今も多くの市民が蝋燭を献じている。石の門から坂道を上がっていくと聖マルコ教会。ここも修復工事中だが、クロアチアの紋章とザグレブ市の紋章をモザイクで現した屋根は見ることができる。聖マルコ教会の隣にある政府機関らしい建物には、クロアチアの旗とEUの旗とが並んで掲げられていた。クロアチアのEU加盟はまだのはずだが。

聖マルコ教会から少し歩くと、ケーブルカーの乗り場がある。下のイリツァ通りに降りるのだが、非常に短い距離でケーブルカーに乗るほどでもない。脇の階段を下りていくと、その下あたりにKrさんお奨めの自然食品の店がある。実は、出発前に調べたサイトで、クロアチア在住の日本人の方が、日本へ帰国時のお土産に最適なものとして「ラベンダー入りのチョコレート」を挙げていた。バスの中でKrさんは、お土産に「胡椒入りのチョコレートを」推薦していたのだが、彼女に「ラベンダー入りチョコレート」売ってる店知らない?と聞くと、彼女もそのサイトのことを知っていて、「胡椒入りチョコレートと同じ店で売ってます。」とのこと。聞きつけた同じグループの人たちで争奪戦みたいになったが、数枚手に入れることができた。

このあと、クロアチアといえばネクタイということで、有名なネクタイの
店”CROATA"(店名では真ん中の"A"がネクタイの絵になっている。)に案内してもらったが、近頃はネクタイなど100円ショップの品で間に合わせている身としては、ここはパス。因みに、なぜクロアチアがネクタイかと言うと、クロアチアはネクタイの発祥の地だというのだ。一説には、ルイ13世警護のためクロアチアからフランスに来た兵士たちが、故郷の女性たちから無事を祈って贈られたスカーフを首に巻いているのを見て、ルイ14世が興味を持ち、側近に「あれは何だ?」と聞いたところ、側近はクロアチア兵のことを聞かれたと思い、「Cravat(クロアチア兵)です。」と答えた。これからフランス語でネクタイを"cravat"と呼ぶようになったと言う。(Wikipediaより)

"CROATA"のあるショッピングセンターを出るとザグレブの中心街であるイェラチッチ広場。二両連結の市電が走っている。ここでもまた大勢のサッカーファンが気勢を上げている。ザグレブで自分用にTシャツを一枚買って帰ろうと思っていたが、流石にあの紅白市松模様のは買う気になれなかった。

今晩のホテルはスタンダードクラスだが、首都だけあってちゃんとバスタブも付いている。だが、今夜は荷物の整理もしなければならず、明日の出発も早い。
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September 9, 2008 =Tue=

チャフタットを発ってシベニクまで戻るのだが、まずドブロヴニクを通過する。そこで道路際の丘の上からドブロヴニク旧市街を一望する。旧市街の中や、城壁の上からだとあまりに近すぎて旧市街の全体像が見えない。絵葉書やパンフレットに載っている写真は、みなこのあたりから撮ったものに相違ない。この街に冠せられた「アドリア海の真珠」という呼称が偽りではないと感じさせる景観だ。

ドブロヴニクから再びボスニア・ヘルツェゴビナを通って(ここのスーパーでまたミネラルウォーター
を仕入れる。)シベニクまでの道のりは長い。ホテルを出たのが8時だが、シベニクについて昼食を終えたのは3時過ぎになっていただろうか。それからシベニクの観光が始まる。アドリア海の町々で、どこに行っても旧市街の中世風の石畳を歩き、教会や大聖堂を見てきたが、ここまで来るとどこも同じように思えてきて、教会もどこに何があったのか思い出せない。旅を終えてからいまこうして日記を綴っているが、写真の順番や日程表、ガイドブックなどを見比べながら、なんとか思い出して書いている。といっても、ガイドブック「地球の歩き方
」の中欧編では、このシベニクなど、スプリットからの日帰りエクスカーションとして数行の記述と聖ヤコブ大聖堂の写真が載っているだけだ。「地球の歩き方」は旅行前に買っていたのに、うっかりして持っていくのを忘れてしまっていた。

さて、その聖ヤコブ大聖堂だが、これも世界遺産になっている。15世紀から16世紀にかけ、100年以上を費やして建築された、ゴシック様式とロマネスク様式の混ざり合った建物だ。写真では前の建物に邪魔されてよく見えないが、インターネットで探してみても、近くから撮ろうとするとどうしてもこんなアングルになってしまうようだ。この建物で特徴的なのは、周囲に人の頭を形どった71の彫刻が施されていることだ。この71の頭は、聖人をモデルにしたのではなく、15/6世紀当時の一般市民を描いたものらしい。

シベニクの旧市街も他と同じ石畳の道に中世の町並み。日本にはないこうした街並みが、何となく懐かしく感じるのはなぜだろうか。むかし、ギリシャに赴任した最初の正月休暇にロードス島に行った。その時に撮ったこんな写真が残っているが、ここも道路こそ石畳が残っていないものの、十字軍が造った中世の城壁の中。その後、家族でヨーロッパの古い街々を旅する機会があったが、このロードス島が中世との最初の出会いだったのだと思う。だが、こうした町で実際に生活を営んでいる人たちもいる。その人たちの生活は快適なのだろうか。いや、生活の快適さよりも、中世から綿々と受け継がれた自分たちの生活習慣を守る方が、人々にとって重要なのかもしれない。人間にとって大切なものとは何なのか。そんなことを考えつつ、石畳の道を歩く。

今日はシベニクを発つとアドリア海から離れて内陸のプリトヴィッツェに向かう。最初のスロヴェニアのブレッド湖と同様、高原の世界遺産だ。暑さともしばらくお別れとなるだろう。ホテルには8時前と遅めの到着。食事を済ませるともう寝る時間だ。
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September 8, 2008 =Mon=

チャフタットからさらにアドリア海岸を東南方向に向かい、モンテネグロとの国境を越える。このあたり道路の両側には糸杉の木が多い。モンテネグロに入ると、道路標識などはラテン文字だが、看板には3割がたキリル文字のが目につくようになる。モンテネグロでは両方の文字を併用しているのだ。立ち寄ったガソリンスタンドの売店ではMontenegroと書いた地図のほかに、同じデザインでЧерногорияと書かれた地図も売っていた。これは明らかにロシア語だ。昔、ロシア語を少しだけかじったことがあるので、何とか「チェルノゴリア」と読むことはできる。最初はチェルノブイリかと思ってドキッとしたが。モンテネグロ語では少し違ってЧрна Гора(クルナゴーラ)となるらしい。モンテネグロはイタリア語で「黒い山」を意味する。ロシア語、モンテネグロ語も同じ意味だ。そういえば以前、町田の緑山という住宅地に住んでいた頃、近くに「モンテヴェルデ」という喫茶店があった。モンテ(山)ヴェルデ(緑)から店の名を付けたのだろう。

クロアチアに比べて経済格差があるのだろうか、モンテネグロに入ると民家がかなりみすぼらしくなる。通貨はユーロだが、モナコやサンマリノと同様に正式なユーロ参加国ではないので、ほかの国のように自国独自のユーロ硬貨は発行していない。観光産業もこれからで、あちこちで道路工事がおこなわれていて、これにひっかかると渋滞がひどいらしい。だがすでに欧州各国からの観光シーズンはピークを過ぎているので、渋滞は少ない。まずはコトルという町に入る。コトルはアドリア海から複雑に入り組んだ湾の奥にあるので、バスは15分ほどフェリーに乗って運ばれる。ここも旧市街の街自体が世界遺産だ。門を入ったら時計台。その足元にある四角錐の小さな塔のようなものは、犯罪者を縛りつけて公開刑罰にかけたものだっそうだ。少し奥に行くとコトルの象徴である聖トリフォン大聖堂のツインタワーが建っている。この大聖堂はローマ・カトリックだが、このあたりではカトリックとオーソドックスが共存している。名前は忘れたが、オーソドックスの教会に入ってみる。

実は、旅行に出る前の日から、風邪気味でもないのに咳が出るようになり、飛行機の中でもバスの中でも、ホテルで寝ている間も、咳が止まらずに困っている。コトルでの自由j時間に旧市街を歩いていると薬局が見つかった。薬局なら少しくらい英語が通じるだろうと思って、cough dropありますか、と聞いてみる。「咳止めならあるけど、錠剤かシロップかどっちにする?」というので錠剤を買う。毎食後に飲みなさいと言われ、まあ中の説明書に詳しいことは書いてあるだろうと思ったが、薬局を出て蓋を開けてみると、説明書に英語はなく、ラテン文字ではあるが訳のわからない言語だ。今回の旅行中、どの町でもガイドがつくが、みんな日本語はしゃべれず、英語でのガイドで、出発前に配られたイアフォンガイドを通じて添乗員のKrさんが通訳する形だ。そのガイドを見つけて、薬の説明書を見せ、「これ、何語?」と聞くと、"This is our language."とのこと。しばらく説明書を見ていたが、咳止めの薬に間違いないこと、毎食後でなく、服用には8時間から12時間の間隔をあけるべきことを教えてくれた。

コトルの次はやはりアドリア海沿岸のリゾート地にあるブドヴァへ。このあたりはブドヴァ・リビエラと呼ばれるほどで、クロアチア国境付近の貧しい雰囲気と比べ、華やかな気配だ。今月下旬にはマドンナがこの町に来演するとかで、そのポスターも貼られている。旧市街入口近くの公園では、観光客だろうか、ほとんどビキニ姿のまま歩いている女性も見かけられる。旧市街はこじんまりしているが、ほかの町と同様に教会が多く、石畳の細い路地が連なっている。

ブドヴァからさらに南東へ少し行ったところにスヴェティ・シュテファンがある。ここは目下リノヴェーション中だが、セレブ御用達の高級リゾート島(本土とはコーズウェイで繋がっている。)。Wikipediaには次のように書かれている。"as of September 8, 2008"って、われわれが行った日じゃないか。12ユーロ払えば島に入れたんだ。

Sveti Stefan was inhabited in 15th century as a fisherman's village. In 1950s last residents of the village were evicted, and Sveti Stefan was transformed into a luxury town-hotel. It is the most exclusive resort on Montenegro's coast.
Sveti Stefan was popular among celebrities, so some of its guests were Marilyn Monroe, Willy Brandt, Bobby Fischer, Boris Spassky, Sophia Loren and Carlo Ponti, Monica Vitti, Ingemar Stenmark, Kirk Douglas, Jonathan Miller and Claudia Schiffer.
The streets, walls, roofs and façades of the buildings have retained their original shapes, while the interior of the houses has been transformed to offer the most modern luxury hotel comfort.
In 2006, Villa Montenegro, one of the villas situated by the very bank of the isthmus connecting the island with the mainland, won the prestigious Five Star Diamond Award, which is handed out by the American Academy of Hospitality Sciences for superior quality of service.
Sveti Stefan, along with the Miločer resort and Kraljičina beach resort, is leased by Amanresorts on 30 years period.
Sveti Stefan, as of September 8 2008, is closed while being completely renovated. While closed the beaches north and south of the island are open to anyone along with beach side parking which costs 12 Euro. Local sources predict Sveti Stefan will re-open late 2009.

また国境を越えてクロアチアに戻り、チャフタットのホテルに帰ったのは5時半ごろ。まだ明るいし、夕食までに時間があるので、ホテルのプールに行ってみる。みんな水着は持参していないのか、我々のグループは誰もいない。30分くらいいて、陽もだいぶ傾いてきたので、プール受付にタオルを返し、プールわきからビーチに続く階段を下りていく。下まで行くとわれわれに声をかける人がいる。見ると添乗員のKrさんが超大胆なビキニ姿で歩いてきた。スロヴェニアでの一日目に、バスの席がガイドと添乗員の席の後ろだったので、二人の会話が聞こえてきて、Krさんの元夫がブラジル人のミュージシャンで、別れた後も友人として仲よくしていると言っていたが、彼女自身が語ったことからみて、おそらく「アラフォー」と呼ばれる世代だろう。だが、まったく贅肉というもののない身体に感心する。「この下にニューディストビーチがありますよ。」とKrさんが言う。左手の下の岩場は日光浴や水泳をする人たちでにぎわっているのだが、右手は崖になっている。気がつくと右手の崖の方を指し"Nudist Beach"と書かれた看板が立っている。Krさんはこの看板の反対側から崖を降りて行ったら、偶然ヌーディストビーチに行き当たり、崖の上から覗いてみたらかなりお年寄りのヌーディストたちがいたそうだ。われわれも看板が示す方向に崖を下ってみたが、ヌーディストたちは引き揚げた後だったらしく、誰もいなかった。

余談だが、もう30年ほどむかし、われわれもヌーディストビーチに行ったことがある。ギリシャのミコノス島、観光客の行くところから見て裏手に静かなビーチがあり、泊まったホテルからシャトルバスが出ている。そこに幼い子供たちを連れて家族で行った。別に水着を着ていても構わないのだが、ほとんどの人たちは完全ヌード。水はどこまでも透明で美しく、とても健全な感じだった。
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September 7, 2008 =Sun=

トロギールを発ち、今回の旅行のハイライトであるドブロヴニクに向かう。だが、ドブロヴニクに行くにはボスニア・ヘルツェゴヴィナを通らなければならない。アドリア海沿岸はほとんどクロアチア領なのだが、途中ネウムという町のあるところだけボスニア・ヘルツェゴヴィナ領になっている。つまりクロアチアはネウムを挟んで飛び地になっているのだ。その間、わずか9キロ。ボスニア・ヘルツェゴヴィナにとって、ここが唯一、海に面した領土だが、別にこれを貿易港として使っているわけではなく、リゾート地になっている。18世紀はじめに、ダルマチア地方を支配下に収めたヴェネツィア共和国と、ドブロヴニクを領有していたオスマン帝国との紛争を防ぐため、緩衝地帯として設けられたのが、その後の変遷を経てなお生きている。だが、ダルマチア式海岸の特性上、ネウム沖合には地中海への航路を阻むような形でクロアチア領の細長い半島が海岸線と平行に連なっている。いま、この半島に橋を架け、ボスニア領を通らずにドブロヴニクまで行けるように工事中なのだそうだ。だが、国境では一応バスを止め、運転手が係官にミネラルウォーターを差し入れするくらいで、パスポート検査もない。

人口5000人足らずの小さな町だが、物価が安いこともあってクロアチアから買い出しに来る人が多く、スーパーマーケットもある。ここではボスニアの通貨マルカだけでなく、ユーロやクロアチアのクーナも使え、払った通貨でお釣りもくれる。クロアチア旅行ではミネラルウォーターが不可欠で、バスの中でも0.5リットル入りのペットボトルを1ユーロで運ちゃんが売ってくれるが、私は一昨日泊まったホテルの近くのスーパーで1.5リットル入りのを安く買って0.5リットルのボトルに移して飲んでいた。ネウムのスーパーでそれとおなじ銘柄のミネラルウォーターが1.5リットル1ユーロなのを発見してそれを買うと、同じグループの人たちがみんな真似をして買い始めた。しまった。運ちゃんの小遣い稼ぎを邪魔してしまった。この運ちゃん、スロヴェニアのリュブリアーナ近くに住んでおり、運転席には3歳になる双子の女の子の写真が貼ってある。孫の双子の写真を見せると、”Oh, cute!"と言ってくれた。

大きな橋を通ってドブロヴニク市街に入る。これまで訪ねたアドリア海沿岸の町はどれもそうだが、町の一部がいわゆる旧市街で要塞に囲まれている。その中世の雰囲気を残した旧市街が観光の中心だ。ドブロヴニクの旧市街を取り囲む城壁の幅は広く、その上をゆったりと歩くことができる。まずはピレ門をくぐって旧市街に入り、大噴水からスポンザ宮殿に至るメインストリートを歩き、城壁に上る入口のところで解散。ここで自由時間が3時間余りある。

城壁の上からは、それが取り囲む旧市街の赤瓦の屋根屋根が連なるのが見える。歴史的な建造物もあるが、いまなお人々が生活している民家の屋根もある。城壁をめぐる途中には茶店もある。ゆっくり時間をかけてひとめぐり。城壁から見下ろす岩場では、地元民なのか観光客なのか、水着姿の若者たちが青い海に飛び込んでいる。

城壁から降りてもまだ集合時間までには間がある。途中で会った添乗員のKrさんから、クロアチア内戦で亡くなった人たちの追悼記念館があると聞いて入ってみた。若くして命を落とした人たちの写真が並んでいる。内戦のビデオが上映されている。今は平和な観光地になったドブロヴニクだが、17年ほど前には血腥い戦いが繰り広げられていたのだ。入り口に置かれた記帳ノートを見ると、一番新しいページにKrさんがメッセージを残していた。

旧市街を出たところにある港から船に乗り、アドリア海をクルーズしながら海辺のレストランでディナー。このレストランは最近できたのだが、海からしかアクセスできないため、海が荒れると閉店するそうだ。ディナーはもちろんシーフード。このあたり、地中海沿岸だけあって蛸やイカがよく出るのだが、残念ながらこれらは私には苦手だ。

今晩のホテルはドブロヴニクから20分ほど先に行ったチャフタットという町にある「クロアチア」というホテル。今回の旅行で唯一連泊の、そして唯一五つ星のホテルだ。バスルームにはシャワーだけでなくバスタブがあり、外にはプールだってある。連泊だから、やっと溜まっていた洗濯もできる。
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September 6, 2008 =Sat=

ザダールはアドリア海に面した町で、旧市街は海に突き出た半島にある。ザダール自体はかなり大きな町だが、旧市街の城域内は400m×800mほどの広さ。過去、ローマ帝国、ビザンチン帝国、ヴェネツィア共和国などの支配を受けてきた。ここの見どころは円形の建物と尖塔の組み合わせの聖ドナト教会。

クロアチアのアドリア海沿岸部はダルマチア地方と呼ばれ、その複雑な海岸線はリアス式海岸に似ているが、海岸線に並行した山脈が沈下したため、細長い島々が海岸を護るように連なっていて、ダルマチア式海岸と呼ばれる。同じアドリア海でもイタリア側は海岸の傾斜が緩やかなので良港が少なく、海もあまりきれいではないらしい。それでイタリア人の観光客も多い。

ザダールを発ち、次の訪問地スプリットに向かう。道順からいえばシベニク、トロギール、スプリットの順番だが、今夜はトロギールに泊まるのでスプリットまで行って戻る形になる。シベニクはドブロブニクからの帰りに立ち寄ることになる。

スプリットはアドリア海沿岸で最大の都市。人口19万人で首都ザグレブに次ぐ第二の都市だ。ここもザダールと同様、アドリア海に面した半島にある。

ローマ皇帝ディオクレティアヌス帝が退位の後ここに住んだ。ディオクラティアヌス帝はキリスト教徒を弾圧したことで知られるが、歴代ローマ皇帝には珍しく、亡くなる前に退位し、この地で余生を送った。ディオクレティアヌス宮殿や大聖堂などの遺跡群がユネスコの世界遺産に登録されている。宮殿の前にはローマ兵士の衣装をつけた観光用モデルもいる。ディオクレティアヌス宮殿にはドーム状のホールがあり、そこの音響効果を利用して本職の歌手たちが歌を聞かせてくれる。もっとも歌が終わるとさっそく自分たちのCDの売り込みを始めるのだが。

スプリットから今度は今来た道を戻ってトロギールへ。ヴェネツィアの影響か、狭い道に面した家の二階、三階の窓から窓へとロープが渡され、洗濯物を干している。むかし、やはりアドリア海に面したギリシャのコルフ島(ギリシャ語ではケルキラ島)に行ったとき、やはり同じように洗濯物を干していた。コルフ島もかつてはヴェネツィアの支配下にあった。

ここの聖ロブロ大聖堂も世界遺産に登録されている。というか、この古都トロギール自体が世界遺産なのかもしれない。狭い螺旋階段を鐘楼の最上階まで登ってみる。

これまでの三泊は、いずれもスタンダードクラスのホテルで、このあたりのスタンダードクラスといえばシャワーのみでバスタブはない。シャワーを浴びるとカーテンを閉めていてもバスルームの床が水浸しになる。で、今晩のトロギールのホテルだが、これもスタンダードクラス。だから今までと同じようなホテルだろうと思いつつ鍵をあけると、何とバスタブ付きでしかもスイートルーム。おまけにミニキチンまで付いている。おそらく長期滞在用のホテルなのだろう。まだ明るいうちにホテルに着いたので、前のビーチに行き、少しばかりアドリア海の水に浸かってみる。

夜の10時頃、寝ようと思ったら窓の外が突然赤くなった。何だろうと窓を開けると濛々たる煙。「すわ、火事か!」と慌てて服を着ようとしたが、よく見ると花火だった。窓の下で人が大勢集まっている。照明はあまりないのだが、どうやら結婚披露宴のパーティを中庭でやっているらしい。新婦のドレスの裾を小さな子供が二人で持ち上げている。料理や飲物は質素な感じで、この村の若い二人が結婚し、親せきや知人たちが集まっているようだ。宴は夜中の二時くらいまで続いていたらしいが、安いホテルの割には防音もしっかりしていて、睡眠に支障をきたすほどではなかった。
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September 5, 2008 =Fri=

8時半にホテルを出てボストイナに向かう。ここはまだスロヴェニアで、首都リュブリアーナから1時間弱の距離。ボストイナ鍾乳洞はヨーロッパ一の規模を誇る。鍾乳洞の中は写真撮影が禁止されている。鍾乳洞の入り口からはトロッコ列車に乗って約2キロ進む。なにしろこの鍾乳洞の全長は20キロ以上あるのだ。列車を降りるとスロヴェニア語、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語のグループに分かれてそれぞれのガイドのところに集合する。洞内は大変な人数だ。一日に1万数1千人が訪れるという。今この時点だけで洞窟内には約1000人が入っているそうだ。撮影禁止のはずなのに列車からも、洞窟内でも盛んにフラッシュが焚かれている。英語ガイドのところに行き、「ここ、撮影禁止ってきいてるんだけど。」というと、ガイドは「私から皆さんに言います。」で、ガイドが始まるとまず撮影禁止について説明がある。フラッシュの光が光合成を促すのか、鍾乳石が緑色を帯びてしまうらしい。ドイツ軍のガスで鍾乳石が黒くなっているところもある。第1次大戦中にロシア軍捕虜を使って架けさせたロシア橋というのもある。数千万年の歳月を経て形成された鍾乳洞も、19世紀になって現代人が入り込むことにより、数々の変化を受けてきているようだ。最後の出口のホールにきてようやく写真撮影OKとなる。われわれの英語ガイドさん、どうもぎごちないと思っていたら、本業は学生でガイドをやるのは今日が初めてとのこと。

鍾乳洞の後は国境を越えて(といっても例によってパスポートさえ出さない。)いよいよクロアチアに入り、アドリア海沿岸をひたすらザダールヘ向けて走る。クロアチアという国名、英語ではCroatiaだが、クロアチア語ではRepublika Hrvatskaと書く。"HRVATSKA"という名前には見覚えがある。むかし、といっても中学生の頃だが、切手の収集に凝っていたことがある。そのころ、クロアチアの切手としてコレクションに入っていたのが左の切手だ。当時としては珍しい三角形の切手。もちろんその頃はユーゴスラヴィアであってクロアチアという国はない。これは西側の企業が勝手に作って収集家向けに売っていたフェイクの切手だ。そのときも、何でクロアチアが"HRVATSKA"なんだろうと不思議に思っていた。フルヴァツカというような発音らしい。左の切手は大阪の実家を処分するとき、空き缶に詰めて保存していた収集品を回収してきたもの。
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September 4, 2008 =Thu=

夜のうちに雨が降ったらしいが、朝には上がって青空が広がっている。クリムという名のホテルは、薄っぺらなプラスチックの便座が使っているうちに外れてくるような安ホテルだが、湖畔まで歩いて10分ほどのところにある。朝9時の出発とゆっくりしているので、朝食の後、散歩がてらブレッド湖まで下り道を歩いてみる。湖畔からは文字通り絵のような風景が眼前に広がる。右手にブレッド城、湖に浮かぶ小さなブ
レッド島には聖マリア教会の尖塔が見える。背後にはユリアン・アルプスの山々が連なる。ホテルに戻ってバスに乗ると、同じ道を下って湖に出る。ここから船に乗ってブレッド島に上陸。教会に続く石段を登る。地元の人たちは婚約すると男性は体を鍛え、女性はダイエットに励むという。理由は、この教会で結婚式を挙げる際に、新郎が新婦を抱いてこの石段を上がらなければならないからだ。聖マリア教会を見学して出てくると、海水パンツ姿の地元の若者が二人、島の向こう側から歩いてくる。湖から上がったばかりのようだ。「寒くない?」と声をかけると、「ちっとも寒くないよ。昨夜雨が降った時は寒かったけど。」夜も泳いでいたのだろうか。帰りの船の周りを見ると若者たちだけでなく中年のおばさんも泳いでいる。ブレッド島に近い岸には、ユーゴスラヴィア時代のチトー大統領の別荘だった建物がある。今はブレッド湖一番の高級ホテルになっているそうだ。

船を下りてバスに乗り、ブレッド城に向かう。城内には博物館やワイナリー、印刷工場などがある。ワイナリーでは修道士の服装をした人が説明してくれるが、「このワインは一瓶3000」といいうので3000ユーロの高級ワインかと思うと「3000円です。」などとふざけてみせる。印刷所はグーテンベルグ時代の活字印刷を復元したもので、グループの中の新婚旅行の一組が代表して彼らの名前を活版印刷してもらう。印刷した台紙にリボンを乗せ、そこに封蝋を垂らしてシーリング印を押すという凝ったもの。この城の城壁からの湖の眺めが素晴らしい。

昼食ののち、観光バスで一時間、スロヴェニアの首都リュブリアーナに向かう。ホテルに直行し、まだ時間は早いがチェックインできるというので荷物を部屋に置き、徒歩ででかける。300メートルも歩くとリュブリアニッツェ川にかかる「龍の橋」に出る。橋を渡ってマーケット広場を通り、ケーブルカーに乗ってリュブリアナ城に上る。このケーブルカーは一昨年に開通したばかり。添乗員のKrさんによるとスロヴェニアははぷすブルぐ家の支配を受けた経緯から、クロアチアに比べて勤勉な人々が多く、建物などもどっしりしているという。城の上からはリュブリアーナの旧市街が眼下に見渡せる。再びケーブルカーで降りて、大聖堂を見学の後、三本橋を渡り、19世紀の詩人プレシェーレンの像の立つプレシェーレン広場で休憩となる。

今回の旅行は旧ユーゴスラヴィアから独立した国々のうち、スロヴェニア、クロアチア、モンテネグロの三国をめぐる。クロアチアのアドリア海沿岸部は一部ボスニア・ヘルツェゴビナの領土で分断され飛び地になっているため、ボスニア・ヘルツェゴビナにも少し立ち寄ることになる。そのほかの国と言えばセルビアとマケドニアだ。マケドニアでギリシャと国境を接しており、むかしギリシャにいたころは隣国であったのだが、小さな子供連れでは当時のユーゴを旅行しようという気にはなれなかった。ユーゴの当時は今のように観光産業も発達してはいなかったろう。

この地域は歴史的にハンガリーやオーストリア、あるいはヴェネツィアなどに支配され、民族や言語もまちまちだった。1929年にユーゴスラヴィア王国として統一され、第二次大戦中はナチスドイツに占領され、ドイツはクロアチアを独立国とするなど、王国は崩壊した。王国時代はセルビア人支配が続き、独立後のクロアチアはセルビア人への報復をはじめ、セルビア人を強制収容所で虐殺したと言われる。ドイツ占領下でチトーが率いる反ナチス運動は、東欧諸国で唯一ソ連軍の援助なく、自力での解放を実現した。チトーはユーゴスラヴィアを6つの共和国、2つの自治州からなる連邦国家ユーゴスラヴィアとして再建し、共産主義国家ながらワルシャワ条約に加盟しないなどソ連とは一線を画しつつ、多民族国家をバランスをとりながら運営した。1980年にチトーが亡くなると、連邦内で不満や独立気運が高まり、一時はミロシェヴィッチが強権で抑えたものの、1991年にはスロヴェニア、クロアチアが相次いで独立し、ユーゴは崩壊、その後も各国が独立して今の形になった。しかし、スロヴァニア、クロアチア独立の際も、ユーゴ連邦軍、セルビア軍との内戦などで受けた傷跡が今も残り、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争後の混乱は今も続いているし、セルビアはコソボ問題を抱えたままである。
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September 3, 2008 =Wed=

10時55分成田発のオーストリア航空52便はシベリアルートを順調に飛行。ウィーンでは単なるトランジットではなく入国審査もあるので、乗継時間が1時間余りでは不安だったが、幸い30分ほど早く着いた。ウィーンからは国内線でクラーゲンフルト(Klagenfurt)まで。クラーゲンフルトはまだオーストリア国内なのでウィーンで入国審査を受けなければならないのだが、審査は簡単に済む。国内線もオーストリア航空だが、運航しているのはTyrolian Airで、機体は50席ほどのDash-8。手荷物で持ち込もうとしたキャリーバッグは荷物室に預けさせられてしまう。クラーゲンフルトにも予定通り到着し、バスに乗り込んでスロヴェニア国境に向かう。30分ほどで国境に着くが、スロヴェニアもEUメンバーなのでバスは国境を止まることすらなく通過、緩衝地帯を経て8キロほどのトンネルを抜けたスロヴェニア側国境もノーチェックで通過する。バスは夕方8時ごろにブレッド湖のホテルへ。中途半端な時間なのでと、成田出発時に夕食用のインスタントおにぎりを渡されていたが、水だと食べられるようになるのに1時間余りかかるらしいのと、飛行機の中でも軽食が出ていたのでパスして寝ることにする。機内ではジョン・グリシャムの”Playing for Piza"と、村上春樹の「海辺のカフカ」を読んでいたのでほとんど寝ていない。日本では間もなく明け方になる。時差に惑わされず快眠。
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September 1, 2008 =Mon=

安倍、福田と二代続いての政権投げ出し。まあ人間としては福田の方が安倍よりも何倍かましではあるが、それにしても無責任な内閣が続くものだ。衆参ねじれ国会で「重要法案」が通らず、にっちもさっちもいかなくなったので、自分が続けるより新しい人にやってもらった方が展望が開けるとかいうのが、辞任の理由らしいが、それなら解散して国民の意思を問うのが当然ではないのか。そのことを記者会見で質問する記者がいないというのはどういうことなのだろう。
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