Diary


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November 27, 2008 =Thu=

インドのムンバイ(旧ボンベイ)で同時多発テロ。日本人ビジネスマンも巻き添えになって死亡した。仕事でムンバイに出張したのは2000年1月。アメリカのノースカロライナにある子会社に行ったついでに、その子会社のさらに子会社であるムンバイの会社にも行ったのだった。そのときはムンバイの空港近くにある会社の自社ビルにある、出張者用の宿泊施設にアメリカ本社から来ている米国人たちと泊まったので、今回のテロの対象になったホテルには宿泊していない。ムンバイの市街地にはあまり出かける機会もなかったが、自社ビルと市街地との間には貧民街があり、溝川にそって土と布きれで作ったような小屋が並び、子供たちが遊んでいた。その後のインドの経済発展の中心となったムンバイだから、今は大きく変貌していることだろう。当時、アメリカの会社がプラントの図面をインド子会社に送り、指示を与えると、時差の関係で翌朝には修正された図面がアメリカに届くという、ITテクノロジーと英語圏の利便と時差とを利用したオペレーションを行っていた。今回のテロは主に米国人と英国人をターゲットにしているという情報もある。欧米と連携したオペレーションにも大きな影響が出てくるのだろう。

タイのバンコックでも反政府デモが空港を占拠し、日本人観光客だけでも約1万人が足止めされているという。このところ仕事や遊びで海外に出かける機会が大いが、本当にいつこうした事件に巻き込まれるかも分からない世の中だ。
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November 26, 2008 =Wed=

昔は文章を書くことが楽しみではあっても苦にはならなかったのだが、この日記の更新が遅れるのからもわかるように、年齢とともに文章を綴る気力も衰えてくるようだ。自由になる時間が出来たら、ジャンルは何であれ本を書いてみたいと空想していたことも夢に終わりそうだ。そう思うと、作家という職業の人たちも大変なエネルギーを必要としているのだろうことがよく理解できる。アフリカ出張の帰り、ドバイから乗ったエミレーツで配られた英字紙にマイケル・クライトンが亡くなったという記事を見つけて驚いた。

驚いたのは彼の死ではなく、その年齢だ。この日、67歳の誕生日を迎えた私にとって、亡くなった作家の年齢が66歳だったことだ。先日読み終えた彼の最新作"NEXT"は昨年の出版だが、初めて彼の小説を読んだのは「アンドロメダ病原体("Andoromeda Strain")」で1969年の作品だ。宇宙の微生物を回収してきた人工衛星が着陸したアメリカの小さな町で、その住民のほとんどが原因不明の死に至る。医師や科学者のチームが組成され、原因調査に当たる。1969年というのは有人宇宙船アポロ11号が月面に着陸した年だ。月面着陸より「アンドロメダ病原体」の出版の方が数週間早かったらしいが、1969年また、マイケル・クライトン自身がハーバードで医学博士号を取った年でもある。ところがこの、身長206cmという大男の作家がベストセラーを相次いで出すのは1990年代に入ってからだ。「アンドロメダ病原体」は彼の27歳のときの作品だが、1990年の"Jurassic Park"は48歳、その後、"Rising Sun", "Disclosure", "The Lost World", "Airframe", "Prey"など次々に作品を発表している。もちろん、その間にも多数の小説を発表しているのだが、90年代以降の作品の方が(それ以前のは自分があまり読んでいないからかも知れないが)よく知られているようだ。

小説といえば最近は村上春樹にはまっている。「海辺のカフカ」「ノルウェイの森」「ねじまき鳥クロニクル」「アフターダーク」と読んできて、いまは「1973年のピンボール」を読み始めたところだが、青春恋愛小説的な「ノルウェイの森」、風俗小説的な「アフターダーク」はともかく、黙示録的な「海辺のカフカ」「ねじまき鳥クロニクル」は面白く、とくに「ねじまき鳥」は出張中から帰国後にかけて「上」「中」「下」3巻を夢中で読んだ。「海辺のカフカ」はエディプス王伝説を基調にしているので、「ねじまき鳥」は「中」を読み終えたあたりで「これはオルフェウス伝説かな」と思ったのだが、この推理は外れた。
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November 08, 2008 =Sat=

2週間にわたってアフリカ5カ国を訪れた出張から本日帰国。行きも帰りもドバイ経由のエミレーツ航空だから、帰り道は関西空港から羽田着だったが、羽田から京急・山手線で帰るのではなしに、わざわざエアポートリムジンに乗って新宿駅で降り、リムジンバス発着所のすぐ地下にある回転寿司「沼津港」で久しぶりに新鮮な寿司を食べる。成田に着いたときは、時間がお昼時や夕食時だと、ここに寄るのが定番になっている。そ
れにしてもこの2週間の間に日本はずいぶん寒くなった。行き先がアフリカとあって、冬物の衣類は持っておらず、夏服のままリムジンを降りると夕暮れ時の寒さが身に沁みる。

エチオピア(Oct. 26-29)

関西空港を発ったのが10月26日土曜日の夜。ドバイで同じエミレーツに乗り換えてエチオピアのアディスアベバに着いたのは日曜の昼過ぎだった。会社からの迎えの車でシェラトン・アディスに着いたが、チェックインタイムの3時にはまだ間がある。追加料金を払って早くチェックインするよりも、少し雨模様だが市内を見て回ろうと、コンシエルジェにタクシーをアレンジしてもらった。といっても市内にさほど有名な観光対象があるわけでもなく、エチオピア正教の三位一体教会、国立博物館、聖ゲオルギウス教会などを見たのち、アフリカ最大の露天市場であるメルカドに車を走らせる。

三位一体教会では流暢な英語を話す聖職者が内部を案内してくれる。旧約聖書と新約聖書から題材をとったステンドグラスが美しい。この教会にはエチオピア最後の皇帝、ハイレセラシェの墓があり、同じ敷地内の博物館には皇帝が身につけた王冠などが展示されている。敷地内には英雄たちの墓所もあるのだが、その向こうが大統領府になっているため、撮影は禁止とのこと。国立博物館には、最古の人類であるアウストラロピテクス属の骨の化石(通称「ルーシー」)がある。入口に骨格を図にしたパネルがあり、そこには"Hi! I'm Lucy. I'm almost 3.2 million years old, but am walking fully upright."と入館者に呼びかけている。八角形の聖ゲオルギウス教会では、熱心な正教徒が壁に額を付けて祈りを捧げるのを横目に案内人が扉を開けて我々だけを中に入れる。内部には様々な壁画があり、祝祭に使う太鼓を案内人が演奏してくれる。案内人も聖職者のようだ。

マルカドは日曜なので正規の店は休みだが、地方からバスでやってくる人々が集まって路上に店を展開している。道は舗装のない部分もあり、雨が水たまりを作り、饐えた臭いが漂っている。シェラトンなどに泊まっているととても分からないが、ここは一人当たりGDPが約700㌦(注:CIA-World Fact Bookによる。)、世界最貧国のひとつなのだ。このマルカドも、外国人が歩くことは非常に危険だと言われているが、その様子はここで見られる。

モザンビーク(Oct.30-Nov.1)

エチオピア航空でいったん南アフリカのヨハネスブルグに行き、翌日の南ア航空でモザンビークの首都マプトに入る。むかし、私が海外関係を見ていた時はモザンビークには駐在事務所はなかったし、NTTドコモの海外携帯電話のエリアではモザンビークはi-modeはおろか音声通話すらできない地域になっていたので、どれほどの僻地かと思って行ったのだが、案に相違して飛行場からホテルのある中心部までの町並みは清潔で近代的だ。Per capita GDPは800
㌦と、エチオピアよりほんの心持ち上にすぎないのだが、人々の表情も何かしら穏和な感じがする。ここでは日本企業も資本参加しているアルミ精錬工場が、CSRの一環として小中学校などを建設している。もっとも、その小中学校の周囲はまったくの貧しい村落なのだろう、埃っぽい林の中に点在する小屋小屋に人々が暮らしている。

モザンビークは元の宗主国がポルトガルで、公用語もポルトガル語になっている。泊まったのはPlanaという名前のホテルだが、これが素晴らしい。朝食に降りていくと、海を見渡すプールに面したレストランなのだが、アメリカ人があまりいないせいか、実に静かな雰囲気に包まれている。ポルトガルには行ったことがないのだが、スペインの地中海岸の高級リゾートにでも来ているのかと錯覚するほどだ。プールのある庭を横切って海辺の方へ行ってみると、本当にリゾートというにふさわしい景観が広がっていた。

ドコモの世界携帯こそ通じなかったが、ここのホテルでは有線・無線のLANが無料で使え、スピードも結構速い。この国で一番大きいBIM (Banco Internationale do Mocambique)いう銀行のマネージャーと話す機会もあったが、モザンビークでは6年前からインターネットバンキングも導入され、かなり普及しているそうだ。面積は日本の2倍強、人口は日本の15%程度というこの国では、都市部と地方とでは事情が大きく違うのだろうが、少なくとも首都マプトに関してはインフラはかなり整備されているように見受けられた。

南アフリカ(Oct.29-30, Nov. 1-2)

モザンビークへの前後にヨハネスブルグに立ち寄るが、他の訪問国のように事前の調べはほとんどしていかなかった。それでもまあ、アパルトヘイトの時代が終わり、ブラックアフリカの中でも唯一の先進国で、一人当たりGDPも9,700㌦とアフリカでは群を抜いていることは承知していた。しかし、南アフリカ、その中でも特にヨハネスブルグが「世界一危険な都市」というレッテルを貼られていることは知らずに出かけて行ったのだ。会社の事務所はヨハネスブルグ支店という名称ではあるが、ずっと前にサントン(Sandton)という郊外に引っ越している。ヨハネスブルグの中心部はあまりにも治安が悪くなっているので、ヨハネスブルグ証券取引所などを含め多くの企業は中心部を離れ、サントンなどのより安全な郊外に移っているのだ。そのため中心部はさらにスラム化して一層危険度が増しているらしい。ヨハネスブルグ中心部の治安状況についてはWikipediaでも詳しく説明されているほどだ。サントンでは厳重な警備で安全は保たれているが、それでも連れて行っていただいた日本料理屋でもそうだが、個別の店の警戒も厳重を極めている。駐在員によれば、彼の自宅の建物に入ってから自分のベッドルームにたどりつくまで、何個も鍵を開けなければならないという。

しかし、ホテルから空中回廊を通って、カルティエやルイ・ヴィトンなど高級ブランド店が立ち並ぶショッピングセンターを歩いていると、まるでここが赤坂か六本木辺りではないかと錯覚するほどきらびやかだ。比率としては白人の方が多いようだが、肌の黒い人たちもショッピングを楽しんでいる。ショッピングセンターの前はネルソン・マンデーラ広場になっていて、マンデーラ氏の巨大な銅像が入口を護るように立っている。

タンザニア(Nov.2-4)

ダルエスサラームは首都ではあるものの、今回訪れたアフリカ諸国のうちでももっとも田舎っぽい感じの町だ。昼食に連れて行ってもらったのはオフィスから歩いて10分ほどの野外レストラン。アルマイトのような食
器にご飯と野菜の煮物、小魚の煮物などをのせてもらい、最後にご飯に汁をかけてもらう。これで150円くらいだ。これをペプシコーラを飲みながら食べる。このランチが案外美味しい。しかし、こんなのどかな町でも治安は良くないようで、オフィスにいる海外青年協力隊出身の日本人社員は先日、路上で鉈を持った連中に襲われ、額を割られたそうだ。必死に逃げて血だらけのまま警察に駆け込み、パトカーで病院に連れて行ってほしいと頼んだが、ガソリンがないからと断れれたとか。泊まったホテルはホリディ・インから改名したSouthern Sunで、駐車場を隔ててオフィスと向かい合っている。面白いのは、このホテルでも無線LANが無料なのだが、ホテルの部屋では電波が弱く、よく途切れるのに、昼間向かいのオフィスで仕事をしているときはホテルの無線LANがよく受信できたことだ。

ここでの仕事は予定より順調に進んだので、水曜日出発の予定を一日繰り上げて火曜日に次の目的地ナイロビに移ることにした。出発前に連れて行かれたのがティンガティンガという民族芸術の集落。布地にエナメルペンキで動物や人物、あるいは人々の生活を描く。絵は様式化され、色はとても鮮やかだ。画家によって画風が違うらしく、画家のサインが入っている。大きな絵でも折りたたんで持って帰れるのだが、どのみち持って帰っても飾る場所もない。そういう場合にはA4サイズを細長くしたような大きさの絵の余白に名前を書き込んでくれる。表札代わりに使うのだそうだ。

ケニア(Nov.4-7)

アフリカ最後の仕事はケニアのナイロビ。タンザニアから予定より一日繰り上げて到着したのだが、これが大正解だった。というのは、11月4日のアメリカ大統領選挙が原因だった。
5日にオフィスに出勤して仕事をしていると、突然、明日6日が祝日に決まったという知らせが入る。バラク・オバマが米大統領に選出されたことで、彼の実父の出身地であるケニアは大祭り騒ぎとなり、とうとう翌日を祝日にしてしまったのだ。予定通り6日に移動したのでは、半日しか仕事にあてられないところだった。オバマの実父はもう亡くなっているが、その母、つまりオバマの祖母はもう90歳を越えているものの、オバマ一族とともにケニア北西部の村で健在であり、オバマの当選に伴ってセレブ扱いになっている。オバマ当選を祝う現地紙はこちら

というわけで木曜日は一日中会社も休みなので、現地の旅行社に日帰りのできるツアーを頼んだ。行先はナイロビの北西160Kmにあるナクル湖国立公園。フラミンゴの大群が棲息することで有名なのだそうだ。9座席のサファリ用SUVに乗客はわれわれ二人だけ。運転の荒いケニアの道路を飛ばすのは恐ろしい。事実、今日の往復でも事故現場に二度も遭遇した。そのひとつは大型ローリーが横転した事故だ。なにしろ、事故が起きるとけが人の救助よりも被害者の持ち物から目ぼしいものを奪うのが先というお国柄だと聞いている。それでもナイロビを出てから3時間後には静かな国立公園に到着した。

確かにここのフラミンゴの大群は壮観だ。大きな湖は見渡す限りフラミンゴのピンク色で埋まっている。この湖の水は強アルカリ質で、特殊な藻類が繁茂している。フラミンゴは小魚や泥鰌のようなものを食べているのかと思ったが、この藻類が餌なのだ。季節的には別の場所で子育てをしていたフラミンゴがナクル湖に帰ってきたばかりで、フラミンゴの数は数百万羽にのぼるらしい。フラミンゴ以外にもペリカンも数多く密集している。ケニアの小中学生たちもバスでやってきており、写真を撮ろうと声をかけると大勢が集まってきた。

公園内をサファリカーでめぐる。大型動物ではサイやバッファロー、中型ではイボイノシシ、シマウマ、インパラ、トムソンガゼル、グランガゼル、等々。フラミンゴを好物とするハイエナも歩きまわっている。この公園にはライオンもいるそうだが、あいにく遭遇できなかった。昼食は国立公園内の"Lion Hill Lodge"というホテルでとったが、ここのブッフェ食事の内容も従業員のサービスも、ナイロビ市内のインターコンチネンタルホテルよりもはるかに良く思えた。

アフリカ出張最終日の7日は、奇しくも私の67回目の誕生日に当たる。朝、現地オフィスの所長に何気なくそのことを漏らした。出発は今日の午後なのだが、所長はその日の昼食を社宅で用意してくれていた。社宅について驚いたことに、リビングの壁に誕生祝いのメッセいーじが貼ってあり、バースディケーキまで用意してくれていた。所長の奥様は3か月の赤ちゃんがいるのに、えらくお手数をかけてしまった。

2週間にわたるアフリカ出張だったが、ビジネスクラスで移動し、一流ホテルとオフィスを往復する毎日で、町に出るといってもほとんどが車の窓から外を眺めるだけというのでは、とてもではないがアフリカを知ったなどと言えるものではない。だが、たとえ車窓からの観察ではあっても、アフリカの貧困の一端を見、同時にそこに一生を送る人たちの苦悩、諦観、そして希望にも触れたような気がする。考えてみれば、アフリカ大陸に来たのは、遊びと仕事で二度訪れたエジプトを別にすれば、20年ほど前に仕事で行ったスーダンと、今年初めに行ったモロッコに次いで三度目になる。アフリカのサファリも海外旅行の計画に入っていたのだが、今回はその一部の下見をしたことになろうか。帰りのドバイからのエミレーツ夜行便では、疲れが出たせいかほとんど寝て過ごした。
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