Diary


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December 31, 2008 =Wed=

この年末は連日素晴らしい晴天が続いている。100年来の不況、政治の混迷と人間社会のごたごたが続く年の瀬だが、天気の良いのはせめてものコンペンセーションだろうか。新年も天気だけは続きそうだ。
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December 28, 2008 =Sun=

10月に医者に診てもらって「五十肩」との診断だったが、右肩の痛みはなかなか治まらない。この間、アフリカへ出張に行ったりハワイでゴルフをしたりいていたのだから、どうにも我慢できないような痛みではないのだが、ふとした拍子に右腕を捩じるような動きをするとズキッと痛みが走る。そんな状態だから、スポーツジムに行ってもマシンを使っての運動は控えていて、専らプールだ。プールといってもクロールで泳ぐと右肩をまわすので痛みを感じるから、泳ぎは二の次で、屋外にあるジャグジーに浸かって本を読む。これではスポーツジムに来ている意味は余りないのだが、冬の太陽を浴びながらのジャグジーは結構気に入っている。冬だというのにデッキチェアを持ち出して日光浴をしている人もいるが、そんなことをしてそんなことで風邪をひくのも馬鹿げているから、ジャグジーでの半身浴での読書が私のスタイルだ。

で、その読書の中身だが、依然として村上春樹にはまっている。村上作品でも、「ノルウェイの森」は青春恋愛小説だし、「アフターダーク」なんかはどうみても風俗小説としか思えない。村上作品は最近になって読み始めたばかりなので偉そうなことも言えないが、やはりその真骨頂は黙示録的な作品、つまり「海辺のカフカ」「ねじまき鳥クロニクル」などだろう。今読んでいる「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」もこの系列に属する。これらの作品に共通するのは、複数の視点でのストーリーが捻じれ合って、一つの結末に流れ込んでいくという手法だ。「世界の終り・・・」も、まったく関係のなさそうな二つの物語が交互にフラッシュバックしていくのだが、下巻の半分まで読み進めた今、どうやらその二つのストーリーの行き先の見当がついてきた。

小説といえば、先日、丸の内オアゾの丸善に寄った時、待ちわびていた文庫本が発刊されたのを知り、即座に購入した。逢坂剛の「暗い国境線(上)(下)」がそれだ。「イベリアの雷鳴」「遠ざかる祖国」「燃える蜃気楼」と続いてきたイベリアシリーズの第4巻目。ハードカバーではすでに第5巻の「鎖された海峡」まで出ているのに、文庫版では第3巻の「燃える蜃気楼」が2006年9月に出て以来、2年以上も間が開いてしまっている。まあ早く読みたいならハードカバーを買えばいいのだが、ただでさえ本棚のスペースがなくなっているのにハードカバーはきつい。作者得意のスペインものだが、英米と独伊の間で微妙なバランスを取る1940年代のフランコ政権下の同国を舞台に諜報戦を繰り広げる各国の思惑と、それに振り回されるスパイたちの人間的愛憎を描く、スケールの大きな作品。さて、この本をいつ読むか。本来は飛行機の中などで読みたいのだが、1月下旬に予定していたアフリカ出張が延びそうなので、やはり今読んでいる村上春樹が終わったらスポーツジムのジャグジーで読むことになりそうだ。
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December 26, 2008 =Fri=

私の勤務する会社は今日が今年の仕事納めだが、私は昨日で仕事を終え、今日から来年1月4日まで10連休に入る。このところ、休みの日には娘のところから双子の世話を頼まれることが多いが、クリスマス明けの今日も呼び出しがあり、市ヶ谷へ向かう。二人とも1歳と8カ月になるが、言葉こそまだしゃべれないものの、「赤ちゃん」というイメージから脱却し、すっかり「子供」のイメージになっている。今日は二人ともこれまで1カ月近く続いていた風邪の症状も治まり、ご機嫌良好で、昼食もあまりてこずらされずに完食、お昼寝もすぐに寝付いてくれた。だが、手が掛らなくなったかといえばとんでもなく、椅子によじ登ってテーブルの上の携帯電話を取ったり、閉めてあるドアの開け方を覚えてほかの部屋を探検したりと目が離せない。
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December 24, 2008 =Wed=

これほど大変な作業になるとは思ってもいなかった。何かというと、亡くなった父が集めていた切手の整理。この切手は、父の死後、母から甥っ子が貰ったのだが、額面だけで80万円ほどになり、自分では換金できないと私に頼んできたのだ。父は、記念切手が出るたびに近くの郵便局へ行ってシート単位で買い集めていた。私も中学生の頃、切手の収集をやっていたが、一時、切手収集がブームになった頃は、発売の翌年には50%くらい値上がりしていたから、余り投資には興味を持たなかった父も、趣味としての収集とともに、子供や孫に多少の資産を残してやろうと思って買っていたのだろうと思う。大阪にいる甥っ子から宅配便で送られてきたのは、記念切手のシートを収納するアルバムが13冊。発行年は1974年くらいからだ。その頃は封書が20円、葉書が10円の郵便料金だったようだ。

切手が送られてきたのはもう2年前くらいになるだろうか。当初は簡単に考えていた。神田あたりには郵趣用の切手ショップがいくつもある。そうしたところに持ち込めば、古いものは少しプレミアをつけて、新しいものでも少なくとも額面では買ってくれるだろうと。ところが、目を付けていた切手ショップはいつもシャッターが下りている。そこで、新宿の金券ショップでも「切手買い入れ」の表示が出ているので聞いてみた。「額面なんてとんでもない。額面の*割引になります。」との答え。これで馬鹿馬鹿しくなってしばらく放っておいた。父がせっかく孫たちのために集めたのが額面にもならないなんて・・・確かに今は切手を集めている人なんてあまり聞かないが、ひょっとすると外国では多少プレミアムを付けて売れるのではないだろうか・・・などと考えたのだ。だが、外国への販売ルートなんて知ってるわけもないし。

そうこうしているうちに、甥っ子に少しお金がいる事情が出来たらしく、処分を急ぐ必要が出てきた。そこで丸の内の高架下にある切手ショップを訪ねてみた。「だいたい30%から35%引きですね。」「じゃあ少しずつ持ってきますので買い取ってくれますか?」「少しずつって、纏めて持ってらっしゃいよ。」「だってアルバムに整理してあるので、結構な嵩になるし・・」「いや、そんなアルバムからは出して、束にして持ってきてください。端の方が折れたり切れたりしていても構いませんから。」「・・・・」

なぜ「・・・・」かというと、切手収集の世界では保存状態が非常に大切なはずだったのだ。そのため、切手を扱うのに素手で触るのはもっての外で、切手専用の先端が薄べったくなっているピンセットで扱うのが常識だった。この店は金券ショップではなく、郵趣用の切手専門店だ。それがこんな雑なことを言うとは。ということは、これらの記念切手は収集用ではなく、切手の実用的な機能にしか価値のないものとして扱われているに違いない。

それにしても額面の30%~35%引きとは。もう少しましなレートで買ってくれるところはないかと、ネットで探したら、額面によって25%~35%引きという金券ショップが見つかったので、ここで買ってもらうことにした。ところが、買い取りの条件として、シートをすべてアルバムから外し、額面とシート構成別に束ねることとある。そこで今日の作業が始まった。13冊のアルバムからすべての切手シートを外し、80円×20枚シートのもの、60円×10枚シートのものなどと集め、クリップで留め、それらを買い取りフォームに書き込んでいくという作業だ。これが思ったより大変で、というか、作業をしていくうちにこれら収集品に対する父の思いが伝わってきてしまい、文字通り二束三文でのたたき売りのための作業がむなしくなってくるのだ。たとえば、父は記念切手の1シートごとに、その切手の説明を書いた郵政省(当時)のリーフレットを合わせてファイルしている。こうしたものは当然買取業者にとっては不必要なものだ。

そもそも、かつてはブームをも巻き起こした切手収集という趣味が廃れてしまったのだろうか。一番大きな理由は、ブームに乗じた郵政省が記念切手の大量発行を行ったことだろう。一時は、毎月のように数種類の記念切手を、1000万枚とか1500万枚という単位で発行していた。これを父のような収集家(兼投資家?)がせっせと買い込んでいたのだ。しかし、こんな大量発行が続けば、記念切手の希少価値なんて消え失せてしまい、収集家も大量発行に辟易して遠ざかって行ったのだろう。もう一つは、インターネットの普及による手紙からe-mailへの移行だ。切手を貼っての手紙は年々減少し、郵送物お言えば料金別納のダイレクトメールばかりになってきている。そしてこれに止めをさしたのが郵政民営化だろう。民営化によって郵便料金の数量割引などが常態化し、従来なら切手を貼って出していた商業郵送物なども、料金別納や宅配便に移行していったのだ。

だったら、25%引きなり35%引きなりで買い取った業者は、買った切手をどう使うのだろうか。業者のホームページを見ると、面白いことが書いてあった。シート単位ではない、バラの切手は、普通なら買い取りレートはシートと比べて格段に下がるのだが、A3の台紙に貼り付ければシートと同じ割引率で買ってくれるという。それも台紙から剥がしやすいように貼るのではなく、裏面に水を付けてしっかりと糊で貼るというのだ。収集用の切手なら裏面の糊がちゃんと付いていることが必要なのは常識だし、切手を郵便に使うとしても台紙に貼り付けてしまっていたら使うときに剥がすのが大変だ。なぜ台紙に糊づけした切手がシート単位のものと同じ扱いになるのか。

これは私が考えた仮説だが、こういうことではないだろうか。記念切手を郵便局に持って行けば、額面に関係なく1枚当たり5円の手数料で通常切手に交換してくれる。郵政省時代に大量発行され、収集家(兼投資家?)のもとに眠っている記念切手は、民営化された郵便事業会社(日本郵便)にとっては、旧郵政省、郵政公社から引き継いだ債務である。昔の記念切手を貼った郵便物が出されれば、日本郵便には新たな収入はないのに郵便配達の役務は果たさなければならない。それで日本郵便は、切手業者や金券ショップを通じて、過去債務である記念切手の回収を図っているのではないだろうか。過去に大量発行され、希少価値もない切手を、企業が社債を買い入れ償却するのと同様に、市場から買い入れて償却する。この償却が進めば、大量発行された記念切手もいつかは希少価値が出てくる。そうした環境が整えば、再び切手ブームを巻き起こすことも可能かもしれない。と、日本郵便では遠大な計画を立てているのではないだろうか。
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December 23, 2008 =Tue=

先日の丸の内イルミネーションに続いて、休日の今日は六本木のイルミネーション見物に出かける。大江戸線で新宿西口からいったん都庁前に行き、そこで反対回りに乗り換えて六本木まで、乗り換えを含めて15分余りで着くのだが、何しろ大江戸線は地底の一番深いところを走っているので、降りてから地上に出るまでが時間がかかる。最初のエスカレータには「地上からの深さ40m」と書いてあるほどだ。まずは駅から直結の東京ミッドタウンへ。ここでのイルミネーションはやはりガーデンテラスに敷き詰められたLEDの海。いや、海ではなく空に見立てたのか、星座が映し出されていたが、二階のデッキに上らないと何が映っているのかわからない。去年もたしか同様のイベントをやっていた。

ミッドタウンから六本木通りに行き、ヒルズの向いあたりにあるオイスターバーに入る。予約は6時半で、入った時はお客はちらほらだったが、すぐに満席となる。気がつくとみんな20代か30代のカップルばかりで、60代はわれわれだけ。年寄りがオイスターを食べないという訳でゃなく、若者が多いのはやはり六本木という土地柄のせいなのだろう。日本やアメリカ・ワシントン州、ニュージーランドなどから空輸されたオイスターを1ダース、アソートしてもらう。それにワシントン州産の「KUMAMOTO」を追加。あと、焼きオイスターとオイスター入りパスタなど。ワインは店員のお勧めによりオーストラリア産のシャルドネ。この店の店員、注文を取るウエイターと産地などの説明をしながらオイスターをサーブするソムリエとがはっきり分かれており、接客態度がとてもいい。

食事を終え、気持ちよく送り出されて信号を渡り、六本木ヒルズへ。ここでは毛利庭園とけやき坂のイルミネーション。けやき坂から眺める東京タワーは、今日がちょうど開設50周年の記念日。イルミネーションに「50」の文字が浮き上がる。

少し散歩をして六本木交差点のアマンドへ。おそらく日本で一番有名な喫茶店だが、妻が前を通るだけで入ったことがない(私もないが)というので、入ってみる。二階の窓際席からは街を行く人たちや交差点の様子がよく見える。妻は紅茶とケーキが美味しかったというが、私のコーヒーはまずまずの味。

夜、ベッドに入ってもなかなか寝付けない。よく考えたら、オイスターバーでデザートにダブルエスプレッソ、それにアマンドでブレンドコーヒーと、夜にコーヒーを二杯も飲んだせいだと気が付く。
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December 20, 2008 =Sat=

勤務先のオフィスのある丸の内仲通りは、この季節になると華やかなイルミネーションで彩られる。東京駅が改装中の今年は、以前のようなミレナリオという名のイルミネーションは行われないが、歩道に臨時の花壇が設けられ、街路樹と花壇にイルミネーションが施される。「光都東京 LIGHTPIA 2008」という名で、今月28日までの催し。不況で暗い世の中を少しでも明るくしようとの試みだろうか。私がこの頃オフィスを出るのは5時前なので、まだイルミネーションには早い。そこで今日は妻とこのイルミネーションを見に出かけた。土曜の夜というのに東京駅南口は結構人が多い。やはりみなイルミネーションを見に来ているらしい。仲通りに行ってみると、ミレナリオの時のように身動きできないほどではないものの、やはり多くの人出だ。仲通りを一通り歩いてから皇居側に出る。皇居の濠も「雪月花」と名付けられたイルミネーションが施されている。遠くに東京タワーもライトアップされている。和田倉門の交差点から見ると、噴水公園のあたりの木々がライトアップされている。公園に入ると、池に数多くの灯籠が浮かべられている。小学生たちが作ったらしいが、中には人気取りを狙った政治家が作ったとされるものもあある。

そこからまた仲通りに戻り、国際フォーラムの方を周ってから三菱ビルの「かこいや」でディナー。この店はランチによく訪れるのだが、個室があって落ち着いて食事ができる。昨日予約したときは「戸のない半個室なら空いてますが・・・」とのことだったが、店に行くといつも使う完全な個室を用意してくれていた。
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December 12, 2008 =Fri=

今日は娘のところで双子の孫の世話を手伝った後、いったん家に戻り、築地の治作へ。以前勤めていた美容会社の会長であるYさんからご招待をいただいた。出席者は同じ美容会社の先輩のSaさん、それにYさんと慶応の同期であるSuさん。SaさんもSuさんも、もともとは私と同じ商社の出身で、私は商社を定年で辞めた後、Suさんからの依頼で美容会社を手伝うことになった経緯がある。先日、ハワイでこの美容会社の現地店に立ち寄った話をすると、Yさんはヒルトンのタイムシェアの話を持ち出した。私はすっかり忘れていたのだが、私がその美容会社にいたころ、当時社長だったYさんが副社長の奥さんと一緒にハワイに出張し、その際ヒルトンのタイムシェアを衝動買いして帰ってきたことがあった。Yさんには現社長である長男をはじめ3人の男の子があり、それぞれ家庭を築いているが、各家族が毎年順番に使っているのだそうだ。

ところで、この美容会社だが、近く本社を銀座から茅場町へ移すことになったらしい。どうやら私の生まれたところの近くらしい。

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December 11, 2008 =Thu=

いま勤務している会社が毎年行っている、クライアントを集めての講演会兼懇親会。講演会の講師は国連環境計画・金融イニシアティブの特別顧問をやっている末吉竹二郎氏で、TBSのニュースショーのレギュラーコメンテーターでもある。講演内容は「温暖化時代と企業経営」要は、世界的規模の緊急課題であるCO2削減をビジネスの制約要因と考えるのではなく、今やそれ自体がビジネスとなる時代にきているというもの。

この種の会合では、目的は講演よりもその後の懇親会。クライアントといってもみんな同じ親会社の関連会社だから、この会に出ると昔の同僚たちが大勢来ていて、OB会のようなもの。参加者の中では年齢順で行けば五指に入るのだが、昔の仲間と話していると歳を忘れる・・・てなことはないか。
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December 8, 2008 =Mon=

日本からインターネットで申し込んでおいたゴルフ業者が迎えにきた。今日はストレッチリムジンではなく、8人乗りのワゴン車。同乗者は今月14日に行われるホノルルマラソンに参加するため滞在している埼玉在住の団体職員、愛知県の中小企業の社長、サンフランシスコ在住で70歳を超えている日系一世とその奥さん。一時間ほどのドライブで着いたのはオアフ島西部のマカハ・ヴァレー・カントリークラブ。腰を痛めてからもう6-7年はゴルフをやっていないのだが、このところ妻がゴルフに凝っていることもあって付き合った。長いブランクの後、日本のゴルフ場ではコースに出てプレーする自信はないが、ハワイでならまあいいだろうという気持ちでやってきた。このゴルフ場ではツーサムで回らせてくれるのもありがたい。日系一世氏夫婦が最初に、団体職員と社長が次、最後にわれわれがティーオフ。あとにはやはり同じゴルフ業者が連れてきたらしい若いカップルが二三組続いた。一番ホールのティーショットは空振りをするかと思ったが、スライスはしたもののなんとかクリア。だが、その後のスコアは書かない方が無難だろう。まあ、プレー代と貸クラブ、それに往復の送迎がついて一人115㌦だから値段も気楽だ。

日系一世氏は日本語はほとんど話せないが、奥さんは関西弁。第二次大戦中は強制収容所に入れられたそうだ。今は悠々自適で日本やハワイには毎年のように来ているという。団体職員氏はもともと家族で来るつもりだったが、安いホテルが取れず、妻子に申し訳ないと思いながらYMCAに泊まりマラソンの日に備えているという。

ホテルに戻り、少しビーチに出てから、同じヒルトンのラグーン・タワーに行く。ここでヒルトンがやっているタイムシェアシステムの説明会に出る。以前、新宿の東京ヒルトンで説明を聞き、少し興味があったので、現地でモデルルームを見せてもらうことにした。ヒルトンのタワーにあるスイートの所有権を週単位で区分所有し、自分の所有する週に滞在するか、あるいはその権利を譲って他のヒルトンに泊まることもできる。モデルルームはなかなか素晴らしいのだけれど、タイムシェア購入代金8万数千ドルは、株価が暴落する前だったら楽に支払うことができたのだが・・・・。
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December 7, 2008 =Sun=

オアフ島一周ツアーにヒルトンへ迎えにきた車はまたしてもストレッチ・リムジン。ガイド兼運転手はハワイにきて40年になるという日本人のサワダさん。ホテルをいくつか回って、ツアー参加者は5組10名となる。ダイヤモンド・ヘッドから始まり、エルビス・プレスリーの「ブルー・ハワイ」の舞台となったハナウマ湾などオアフ島の東側の海岸線を走り、サーファーの聖地であるノースショアに行き当たる。そこから今度は島の中央部を南下し、パールハーバーを通ってホノルルに戻るというのが一周ツアーのコースだ。

で、今日は12月7日。まさに67年前、つまり私の誕生日から1か月後に、日本軍がパールハーバーを奇襲し、日米開戦となったその記念日だ。実は勘違いしていて、パールハーバー記念日は明日、12月8日だとばかり思い込んでいたのだが、よく考えてみるとそれは日本時間であり、ハワイ時間では今日、7日であることに気がついたのは、朝のCNNで記念式典があるとのニュースを見たときだった。

そのパールハーバーに着いたのはツアーも終わりに近い午後3時ごろ。メインの式典は終わっていたが、まだ多くの人たちがアリゾナ・メモリアルを眺める現場に集まっていた。退役軍人が若い海兵隊員に守られるような形で"Pearl Harbor Attack 67 years"の横断幕を掲げていた。当時の敵国人として、恐る恐る「写真撮っていい?」と聞くと、案外フレンドリーに「どうぞ」との答えが返ってきた。

パールハーバーの海底には今なお戦艦アリゾナが沈んでおり、燃料油が少しずつ流出している。引き揚げも試みられたが船内で爆発が起き、潜水夫が亡くなる事故が起きたため、遺族の了解を得て1000人余りの遺骨を抱えたまま海底に残されることになったそうだ。あの戦争では、日本も兵士たちだけでなく、東京大空襲や広島・長崎の原爆、沖縄での日本軍による強制自決などなど多くの悲劇を生んだが、勝った側のアメリカでも大きな傷跡が残った。しかし60年の時を経て、良い意味でも悪い意味でも、その傷跡は風化しつつある。

今晩は、プリンスホテルに「プリンス・コート」で食事の予約をしていたので、ツアーから戻ると少し早めだが出かけることにした。ヒルトンからプリンスまで、歩いて10分くらいの距離だ。早めに出たのは、このプリンスホテルに私が以前勤めていた美容会社のサロンがあるから。1階にあるサロンに寄ってみると、店長は帰ったあとだったが、顔見知りの副店長がまだ残っていた。彼もすでに帰国の辞令が出ていて、後任者のビザ待ちということだった。美容の方もエステの方も競争が激しくなかなか大変そうだ。だが昔の仲間が元気で頑張っているのを見て安心した。帰国したらその美容会社の会長(私のいた当時は社長)と忘年会を約束している。
December 6, 2008 =Sat=

ハワイに来たのは38年前。ショッピングセンター開発会社に出向していたとき、アメリカ西海岸のショッピングセンター見学ツアーに参加した帰りに立ち寄って以来だ。その頃はまだ1㌦360円の時代。アラモアナショッピングセンターがオープンしたのが1966年で、当時、全米最大のSCだったアラモアナも見学対象だった。

今回はH.I.S.の格安航空券とヒルトンでの宿泊がセットになったツアーだ。ツアーといってもH.I.S.の場合は航空券、ホテル、空港との送迎だけだから個人旅行とあまり変わらない。3日目にゴルフをセットしたが、これも現地のゴルフ代理店にネットで直接アレンジを依頼した。成田を夕方出発のチャイナエアーで発って、ホノルル空港には早朝に到着。だがホテルのチェックインタイムは午後なので、荷物はいったんH.I.S.が預かり、それぞれのホテルに夕方に配送するという。その間、ロイヤル・ハワイアン・センターにあるH.I.S.の事務所で今晩のディナークルーズ、明日のオアフ島一周観光を予約する。センターの中でしばらく時間をつぶし、15分置きに出ているホテルへのシャトルサービスのところへ行くと、大型のストレッチ・リムジンが待っている。側面をバーカウンタにした内装で、6人くらい楽に乗れる座席にわれわれ二人だけというのは何となくいい気分になる。ホテルに着いたのはまだ11時くらいだったが、あっさりとチェックインさせてくれた。部屋はカリアタワーの海側の8階。ヒルトン・ハワイアン・ビレッジにはいくつかのタワーがあり、われわれがチェックインしたのはカリアタワーで、ビーチからは一番遠いが、それでも5分も歩けばビーチに出る。海の手前には海水をパイプで引いて循環させているラグーンがあり、ラグーン越しに対岸の高層ビル群や椰子の木がいかにもハワイらしい景観を作り出している。

私が初めてハワイにきたのはまだ結婚前だったが、妻も独身時代のその頃、ひとりでハワイに来ている。当時泊まったのがシェラトンで、ゆったりしたビーチからダイヤモンド・ヘッドがよく見えたという。ヒルトンのビーチからもダイヤモンド・ヘッドは見えるのだが、シェラトンの方がダイヤモンド・ヘッドに近いだけ眺めも素晴らしいというので、水着のままビーチをシェラトンの方に歩いて行く。砂の上は歩きにくい上にかなりの距離があり、軍人専用ホテルなどいくつかのホテルのビーチを経て、やっとワイキキ・シェラトンにたどり着くと、そこはヒルトンに比べてビーチが狭い上に人も多く、あまり優雅な感じではない。妻も昔のイメージとはだいぶ違っているようだ。一休みしてヒルトンに戻り、ビーチで時間を過ごす。

サンセットディナークルーズにはヒルトンからの参加者もかなり多いようだ。バスが2台分くらい埋まる。港から船に乗ると、われわれのフロアは4階だ。私の隣と向かいのテーブルは白人が10人余りいるが、あとはすべて日本人。白人の方はカナダ人のグループで、隣のテーブルが結婚1年目の若手が二組、向かい側の丸テーブルは銀婚式の一組を含む中年カップルが数組。反対側の隣は日本人の新婚カップル。料理は、ひとり一匹のロブスターで最後かと思うと、その後でフィレステーキが出てくるなど、量がなかなか豪快だ。陽はあっという間に水平線に沈んでいく。
December 3, 2008 =Wed=

むかし、各企業で税務関係を担当していた人たちで、まとめ役のHさんを中心に集まる「松戸会」の恒例の忘年会。私が連絡役を引き受けているので、アフリカ出張の前から案内を出し、出欠のメールを出張先のホテルで受け取ったものもある。今年の出席者は17名。去年の忘年会はたしか19名だった。基本的に新しいメンバーが入ってくることはほとんどなく、郷里に引退する人、病気がちで今後の案内は不要との回答が来る人など、寂しいことだがだんだん減っていくのはやむを得ないことなのだろう。
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