Diary


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March 27, 2009 =Fri=

エジプト旅行最終日の今日は、「一日中自由行動」となっている。帰りの飛行機は夜の11時過ぎということだし、ホテルはもちろん午前中にチェックアウトしなければならないから、こんなとこで自由行動と言われても困ってしまう。それで、30年前にも行ったのだが、アレクサンドリアへのオプショナルツアーに参加することにした。このオプショナルツアー、出発までに申し込んでくれというので出発前日に申し込んだのだが、二三日前、バスで移動中に添乗員のIさんから「アレクサンドリアへの列車は、他の人は一等車ですが、
あなたがたは申し込みが遅かったので二等車になってしまいます。」と言われた。どうやら旅行者と現地の代理店との連絡にミスがあったらしい。「そりゃないだろう。」ということで添乗員や現地ガイドがかけあってくれて、やっと前日になって一等車に空きがでたとの知らせを受けた。

乗ってみれば一等車といっても日本のレベルから言えば中古のオンボロ列車だが、二等車を覗いてみるともっとひどい。まあ、乗車時間は3時間程度だからどうということもないのだが。30年前はどうだったか思い出せない。たぶん車で行ったような気がする。30年前のアレクサンドリアもあまり記憶にない。幼い子供たちがむずかったので、観光はそこそこにして海に連れて行き、海岸で遊ばせた。個人旅行だったからこういうところは融通がきく。今回見て回ったのは、カタコンベ、ポンペイの柱、そしてアレクサンドリア国立博物館。カタコンベは撮影禁止だが、国立博物館は写真撮影OKだった。ポンペイの柱とその周辺、および国立博物館はゆっくりと時間をかけて見ることができた。

帰りの列車も来た時と同様。全席指定になっているはずだが、カイロに向かう途中駅からは指定券を持たない乗客が次々に乗ってくる。彼らと話ができれば面白いのだが、残念ながら英語は通じないようだ。私の方もアラビア語は何とか数字が読めるだけで、片言すらできない。١٢٣٤٥٦٧٨٩٠で1~0となる。バスの中で退屈な時は道を行きかう自動車のアラビア数字のナンバーを読み取る練習をしてみたりした。

帰りの大韓航空では韓国人の団体に囲まれた席になった。席に着くなり大声で話をしているので、これはうるさくて眠れないかなと覚悟したが、彼らも付かれていたらしく離陸後は静かになった。ソウル乗り換えで28日深夜に成田着。
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March 26, 2009 =Thu=

ナイルエクスプレスの寝台列車は、朝早くカイロ駅に到着。最初の日に泊まったホテルに入り、洗面と朝食。このホテルには今夜も泊まる。その後カイロ市内観光へ。ルートはお決まりのコースで、モハメッド・アリ・モスク、聖セルギウス教会、そしてエジプト考古学博物館。いずれも30年前に行ったのと同じだ。カイロ旧市街も少し歩く。博物館ではミイラ室にも入るが、もちろん撮影は禁止になっている。

30年前はまだ日本人の観光客は少なかったのだが、アブシンベルの「音と光のショー」が日本語で演じられるように、今やエジプト観光における日本人のプレゼンスは大きなものになっている。そのせいかどうか、エジプトの観光地でどこでも寄ってくる物売りたちが、
日本人とみると片言の日本語で声をかけてくる。まあ、これはどこの国に行っても見られる光景だが、どういうわけか・・・というか、誰が教えたのか、エジプトでは彼らは必ず「ヤマモトヤマ、ヤマモトヤマ」と言いながら寄ってくるのだ。「ヤマモトヤマ」が海苔屋の「山本山」を意味するのか、あるいは最近人気の幕内力士「山本山」のことなのか分からない。で、観光客が何も買う気がないと分かると、彼らは「さらばじゃ!」と言って去っていく。

ところで、エジプトではもちろんイスラム教徒が圧倒的多数だが、人口の5%~10%はコプト正教、つまりキリスト教徒だと言われる。正教というとおり、コプト教会はギリシャ正教の教会と同じようにイコンが飾られている。マタイ福音書によれば、ヨゼフとマリアはヘロデ王の迫害を逃れるため、幼子のイエスを連れてエジプトに逃避し、ヘロデ王が死んでからイスラエルに戻ったと伝えられている。コプト教徒によれば、イエスがガラリア湖付近で宣教を始めるより前、エジプト滞在中にエジプト人たちはイエスに帰依しており、エジプト人こそが最初のキリスト教徒だということになる。昨年10月に出張で訪れたエチオピアの教会もエジプトとよく似ているが、エチオピア正教も20世紀になってコプト正教から分かれたものらしい。そういえば、ルクソールなどで見た遺跡にも、エジプトのファラオが征伐する敵としてエチオピア人の姿が描かれていたりして、エジプトとエチオピアの交流は昔からあったようだ。ヴェルディの歌劇「アイーダ」も、エジプトとエチオピアの戦争を背景に、エジプト軍指導者のラダメスを巡ってのエジプト王女アムネリスとエチオピア王女アイーダとの三角関係がモチーフになっている。
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March 25, 2009 =Wed=

アブシンベル大神殿は19世紀初めに発見されたが、1960年代のアスワンハイダム建設により水中に没する危機にあったのを、ユネスコが音頭を取って国際的なキャンペーンにより、元の位置から60メートル離れた今の地に移設された。移設といってもこの神殿は砂岩の岩山を繰り抜いて造られているため、岩山を1000個余りのブロックに切り分け、文字通り山を動かす作業となった。この遺跡の保護活動がきっかけになって「世界遺産」が生まれたという。今回のエジプト旅行の主目的はこのアブシンベルを見ることにあったので、昨日の午後、夜のショー、そして今朝の朝日に照らされた神殿と、3回も見ることができたのは幸いだった。

ところでここアブシンベルはアスワンハイダムによってナイル川が堰き止められたナセル湖に面しているが、エジプト最南端の地にあり、スーダンとの国境まで50キロほどしかない。私がスーダンのカルツームを訪れたのは1985年のことだったろうか。カルツーム近郊でヴィクトリア湖から下ってくる白ナイルと、エチオピアから来る青ナイルとが合流する。当時、あるいは今もそうかもしれないが、カルツームにとまる飛行機はあまりなく、帰りの飛行機を待っていたらカイロ行きのエチオピア航空に席が取れた。カイロへ向かう機上から下を眺めると、何も遮るもののない砂漠に自分の乗った飛行機の影がくっきりと映っていて、ナイルに沿ってゆっくりと北上していくのが見えたものだった。あれからもう一世紀の四分の一が過ぎたことになる。

アブシンベル観光が終わると、またバスはコンボイを組んで砂漠の道を一路アスワンに戻る。アスワンではアスワンハイダムを訪ねる。アスワンには1901年にできたアスワンダムがあるが、これだけでは毎年繰り返されるナイルの氾濫にも、周辺の灌漑用水の確保にも力不足であったため、時のナセル大統領がアスワンダムの上流に大規模ダムの建設を計画、ソ連から資金面、技術面の援助を得て1970年に完成させた。「エジプトはナイルの賜物」という言葉のとおり、ナイル川の氾濫が肥沃な農地を作り出してきたが、人口が集積してくると自然の作用だけでは必要を賄いきれなくなったのだろう。ナイルの生態系の変化とか、遺跡への影響などのマイナス面もあるが、このダムの完成により氾濫は治まり、干ばつもなくなったうえ、ナイル川に魚が増えて貴重な食料となり、ナイルの流れが穏やかになったことからナイル川クルーズなどの観光資源も生み出されるようになった。

アスワンハイダム建設による水没から救われたのはアブシンベル神殿だけではない。ナイル川沿いのヌビア地方には他にも数々の遺跡があり、それらも移築の対象となった。ナイルに浮かぶフィラエ島のイシス神殿もその一つ。フェリーに乗ってイシス神殿を見に行く。フィラエ島の神殿というものの、フィラエ島はアスワンハイダム建設で水没し、神殿が建つのは近くのアギルキア島という別の島。ここの建物群はイシス神殿の他にもローマ風の列柱回廊やトラヤヌス・キオスクと呼ばれる小さな神殿風の建物など美しいものが多い。

アスワンからカイロへは、ナイルエクスプレスという寝台特急で戻る。二人ずつのコンパートメントになっており、車掌がトレイに乗せた食事を配ってくる。食事が終るとベッドメーキング。といっても、座席がそのまま二段ベッドに変わるだけの話。列車の揺れであまり良く眠れない夜が続く。
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March 24, 2009 =Tue=

アスワンからアブシンベルへ行く観光バスは一台では行けない。朝10時にバスが集合し、警察の車に伴われてコンボイ(隊列)を組んで280キロを3時間半かけて走る。これもテロを警戒してのことだ。アブシンベルへの道は砂漠、というより土漠の中をただひた走るだけ。途中みるべきものはほとんどない。ホテルに到着してチェックインするが、ここのホテルは平屋建ての長屋形式のが何棟か並んでいるという粗末なもの。もちろんシャワーだけでバスタブもないのだが、シャワーどころか手洗いの水栓をひねっても水が出てこない。フロントのある建物に行ってみると添乗員のIさんがいたので、水が出ないからホテルの人をよこしてもらうよう頼む。部屋に戻るとIさんから電話がかかってきて、「どうやら水道局の工事で断水しているらしいです。」とのこと。ちなみにこのIさん、カイロのホテルにチェックインしたとき、ツアー客の一人からトイレの場所を聞かれ、咄嗟にホテルの従業員に向かって「Donde esta bano?」とスペイン語で問いかけた。翌日私が、「昨日、ドンデ・エスタ・バーント?って言ってなかった?」と聞くと、「そうなんです。実は南米が専門で。」とのこと。

ホテルで昼食を済ませ、アブシンベルに向かう。ホテルから神殿までは歩いても行ける距離だ。アブシンベル大神殿を建設したラムセス2世は紀元前13世紀の第19王朝のファラオ。自己顕示欲の強いラムセス2世は、神殿の前に4体の巨大な自身の像を建てさせた。もっとも、当時のエジプト人の身長が160~165cmだったのに対して、カイロの考古学博物館に眠る彼自身のミイラは身長183cmというから、実際に巨体の持ち主だったのだろう。隣には最愛の王妃ネフェルタリのために建てた小神殿があり、ここにもラムセス2世の像4体とネフェルタリの像2体が並んでいる。神殿の中は撮影禁止だし、外は夕方は逆光になるので、明日の朝、日の出のアブシンベル神殿を写した方がいい写真が撮れそうだ。

ホテルに帰って夕食の後、神殿に戻って音と光のショーを観る。今日は日本人が一番数が多いらしく、ショーはすべて日本語で行われ、他の環境客はヘッドフォンで英語やフランス語の同時通訳を聞いていた。ここはもうスーダンとの国境に近いのだが、内陸性気候のせいか夜はかなり冷え込む。

ホテルに帰ると、断水は直っていたものの、電気工事のせいで停電が予告され、しばらく蝋燭の光で過ごすことになった。
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March 23, 2008 =Mon=

ルクソールからナイルにそって南にさかのぼり、エドフへ。この町のホルス神殿は比較的新しく、プトレマイオス王朝のころの建設であり、エジプトの遺跡の中でも最も良く保存されている。ホルス神というのはギリシ
ャ語で、隼の形をした神であり、イシス女神の子にあたるそうだ。ホルス神殿の入口(第二塔門)にはホルス神の大きなレリーフが描かれているほか、ホルス神の像も据えられている。

エドフからさらにナイルを上流へ、アスワンの手前にコム・オンボ神殿がある。これもプトレマイオス朝からローマ時代に建てられた神殿。ここにはホルス神に加えてワニの神も祭られている。そういえばナイル川にはワニもいるらしい。建てられたのがプトレマイオス朝末期であることから、クレオパトラのレリーフもある。もっともクレオパトラといってもプトレマイオス朝最後の女王クレオパトラはクレオパトラ7世であって、彼女の母や祖母もクレオパトラと称した。
また、この神殿のレリーフには、医療器具などを描いたものと並んで、妊娠中の女性が膝を立てて椅子の上に座っている絵もある。椅子の座る部分が窪みになっており、ここに赤ちゃんを産み落とすという仕組み。仰向けに寝て出産するより重力の法則に適っていて、妊婦の負担が少なくて済むそうだ。神殿の外にはナイロメーターといってナイル川の水位を測る井戸もある。

切りかけのオベリスク(古代の石切り場で、製作中のオペリスクが残されている。)を見て、アスワンの町に入る。今日の泊まりはこの旅行で唯一の五つ星ホテルで、ナイル川に浮かぶ島が一つまるまるホテルになっている。一昨夜、昨夜と二連泊のホテルもピラミサという、今夜と同じ系列のホテルだが、ルクソールの方は四つ星。従ってホテルへは船で行くのだが、普通なら10分でいくところを遠回りしながら船に乗ったヌビア人が民族音楽を演奏し、それに合わせて乗客たち(われわれグループのみ)が踊りだすという趣向。いったんホテルにチェックインした後、希望者だけもう一度町に戻り、馬車でアスワンの市内を観光しながら夜のマーケットを散策した。
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March 22, 2008 =Sun=

ルクソールはナイル川西岸と東岸に古代遺跡が広がっており、今回のツアーは西岸がメインで東岸はオプション。もちろん我々はオプションを申し込んでいる。西岸でまず出会うのがメムノンの巨像。メムノンの名は後にギリシャ時代に付けられたもので、本来は2体ともアメンホテップ3世のものだという。巨像の後ろには石造りの神殿があったのだが、後のファラオが自分の神殿を建設するために石を運びだし、破壊してしまったとか。

このあたりは古代遺跡があちこちに散在しているが、次に向かうのが「王家の谷」。例の黄金のマスクで知られるツタンカーメンの墓をはじめとして、古代王朝の歴代の王や女王の墓が集積し、多くは今も発掘が続けられている。残念ながらこれらはどれも撮影禁止。ツタンカーメンの墓では入口でカメラをガイドに預けなければならない。と、ここで尾籠ながら猛烈な便意に襲われる。ツタンカーメンの墓から王家の谷の入り口まで走ってもどり、1ポンド(=17円)のチップを渡して簡易トイレに駆け込む。今朝のビュッフェスタイルの朝食で生野菜を少し食べたのが原因だろうか。やっと一息ついてツタンカーメンの墓に戻り、そそくさと中を覗く。ここから先は、三つの墓が観光できるチケットなので、どれでも好きな墓をみることができる。といってもそれぞれの王の墓は広大な地域に点在しているし、結局はガイドのお薦めの墓、確か4番、7番、11番だったかを巡る。どれも遺跡としては素晴らしいのだが、同じようなのをいくつも見ると印象が薄くなる。続いてハトシェプスト女王の葬祭殿。砂漠
の中の立派な建物だ。エジプトの小学生だろうか、先生の引率で見学に来ている子どもたちも多い。そういえば今日は日曜日だった。そういえばといえば、ってのも変な言い方だが、そういえばハトシェプスト女王というのは、映画「十戒」ではナイル川に流された幼子を拾って育てた女王で、その幼子が後に、エジプトで奴隷にされていたイスラエルの民を率いてエジプトを脱出するモーゼとなるのだった。

もう、記憶から遠ざかってしまったが、1997年11月にこのハトシェプスト女王葬祭殿でイスラム原理主義者のテロリスト数名が外国人観光客に向けて発砲し、日本人10名を含む観光客60人余りが殺害されるという事件があった。

午後からのオプショナルツアーはナイル東岸のカルナック神殿とルクソール神殿。
カルナック神殿はいくつもの神殿の総称だが、中心となるのはアムン大神殿。石造の列柱群に圧倒される。紀元前16世紀から紀元後のローマ帝国時代に至るまで、歴代のファラオや王が拡張や建て替えを繰り返してきて現在ある姿になったという。権力者たちの力の大きさと建設に従事した奴隷たちの血と汗が結集したものというべきだろうか。

ルクソール神殿の方はルクソール市内にある。カルナックのアムン大神殿の付属神殿という位置づけであり、もともとは3キロほど離れたカルナック神殿とはスフィンクス参道で結ばれていた。入口に一対のラムセス2世の座像があり、向って左の座像の前にはオベリスクが一本立っている。このオベリスクは本来2本で一対のものだったが、もう一本はパリのコンコルド広場に立っている。私は先月の21日にシャンゼリゼをコンコルド広場まで歩き、広場の真ん中に立つオベリスクを眺めたので、ちょうど1か月を隔ててかつては一対であったオベリスクの両方を目にしたことになる。
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March 21, 2009 =Sat=

昨夜はカイロ空港へは時間どおりに到着したものの、そこからギザのJoser Partner Hotelまでが深夜なのに交通渋滞で、ホテルの部屋に入ったのは夜中の12時をまわっていた。それにしてもカイロ市内は夜中でも商店は開いており、自動車の運転の乱暴さも含めて、車窓から眺める街の様子は29年前とほとんど変わっていないようだ。

当初のスケジュールでは、今日は午前中にクフ王のピラミッドなどギザのピラミッド群を見に行き、午後からオプションで郊外のメンフィス、サッカーラ、ダハシュールなどに行く予定だったが、なぜか順序が逆になり、まず「赤のピラミッド(写真左)」などがあるダハシュールへ向かう。ホテルはギザにあるので、ホテルの廊下からギザのピラミッドも見えるし、ダハシュールへの途次にも見える。ギザのピラミッドはまさに市街地のすぐそばなのだ。それを横目に見ながら向かう「赤のピラミッド」は、近くの「屈折ピラミッド」とともに、何か未完成なイメージだが、それだけにピラミッドの原型を見る感じがする。

ダハシュールからはメンフィスへ。ここの博物館にはラムセス2世の巨大な石像が横たわっている。博物館の外にはこれも有名なアラバスタ製のスフィンクスが鎮座しているが、広場の奥に立つ、右足を前に踏み出した男性像は、ギリシャのクーロスを思い起こさせる。

次に訪れたのはサッカーラの階段ピラミッド。ここは懐かしい。29年前に来た時、アテネの旅行会社を通じて雇ったガイドでなく、たまたまカイロでアラビア語の研修をやっていた同僚のY君に案内してもらったのだ。その頃、階段ピラミッドの周りの砂漠には野犬が多く、小さい子供連れのわれわれは少し不安を感じたのだが、今もこのあたりには野犬が多い。そういえば、あの頃、予約したギザのホテルは、ピラミッドには近いものの、小さな二つ星程度のホテルの、しかも屋根裏部屋だった。小さなホテルのくせにどこかでショーをやっているらしく、その騒音が屋根裏部屋に響いていた。このホテルには語研生のY君もさすがに驚いていた。Y君はいまどうしているのだろう。

昼食はシャクシューカという煮込み料理。味はまずまずだが、パンと一緒にでてくる胡麻ペーストがなかなかいける。この胡麻ペーストは、今回の旅行中何度も出てくる。

で、午後からはギザのピラミッド群。クフ王のピラミッド、カフラー王のピラミッド、そしてネンカウラー王のピラミッドと三つ並んでいるうちのカフラー王のピラミッドの中に入る。29年前は、子供たちをガイドに見てもらって、親だけが中に入ったのだが、あれはどのピラミッドだっただろうか。ちょうどアテネでめったにない地震があったばかりだったので、地震でピラミッドが崩れて狭い通路が埋まったら、子供たちはどうなるだろうと変な心配をしたものだった。

パノラマポイントから三つのピラミッドとそれに並ぶ小さな三つのピラミッドを眺め、一部の人たちはラクダに乗る。むかしは私も子供を抱えてラクダに乗った。

むかし、カイロで撮った写真は右のようなもの。今回はパック旅行だったので、このような現地の人たちと密着した写真を撮る機会がなかったが、エジプトの一般庶民の貧しさとエネルギーは昔からほとんど変わっていないようだ。エジプト人の中にはForbesのランクで100位以内に入る資産家もいるのだが、30年たっても富が底辺にまで回ってくることはないのだろう。

夕方の飛行機でルクソールに向かう。ルクソールでのホテルはこの旅行で唯一連泊となる。
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March 20, 2009 =Fri=

北アフリカ出張から帰ってきてまだ2週間たったばかりだが、また早朝の成田に来ている。今度はソウル経由の大韓航空便でエジプトへ。またしても北アフリカだ。今度は仕事ではなく純粋に観光のパッケージツアーだ。エジプトには29年前に、駐在していたアテネから、現地の旅行社にアレンジしてもらって行ったことがあるが、まだ子供も小さかったので、カイロとアレクサンドリアだけだった。それで今回は、カイロ、アレクサンドリアに加えて、ルクソールやアスワン、アブシンベルにまで足を延ばす予定だ。
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March 14, 2009 =Sat=

いま話題の映画「おくりびと」を、新宿ピカデリーで観る。この映画館は全席指定だが、朝一番、10時半の回なので比較的すいている。昨年度アカデミー賞の外国語映画部門賞を獲得した作品。納棺師というかなり特異な職業を映画化したものだが、アメリカでも死者に化粧を施したりする職業は存在する。キャストの中では、納棺会社の秘書役の余貴美子の演技が良かった。たしか、日本アカデミーでは最優秀助演女優賞を獲得していたと思う。
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March 13, 2009 =Fri=

昨日、丸ビルの一階で北海道の花畑牧場が「生キャラメル」の直売をやっていて、ホワイトデーを前にして会社帰りの人たちが大勢並んでいた。この生キャラメル、噂だけは聞いているが、どんなものか食べたことはない。娘がほしがっていたのを思い出したが、先日、小田急百貨店でやはり即売をやった時には整理券が朝一番で瞬間蒸発してしまう人気だった。ホワイトデーは明日だし、今日のオフィスアワー中に行けば空いているかも知れないと思い、丸ビルまで出かけてみた。11時頃だが予想通り昨日のような混雑はなく、3箱入りのをゲットした。2箱は娘のところに渡すことにして、1箱を妻と食べてみた。確かに美味しいことは美味しいが、1箱650円で8粒入りということは、1粒いくらかと、つい貧乏くさいことを考えてしまう。
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March 12, 2009 =Thu=

丸ビル5階のCITA-CITAで昔の同僚やらその同僚のかつての同僚やらと飲み会。
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February 29-March 5, 2009

カサブランカからチュニスには、これも直行便が取れず、エールフランスでパリに出てから再びエールフランスで入る。そのため、直行便ならおそらく3時間程度の距離を、カサブランカからパリまで3時間、パリのシャルル・ド・ゴール空港で4時間の待ち時間を経て、チュニスまで2時間半と、合計10時間近くをかけて移動することになる。で、チュニスに着いたのは土曜日の夕方。ホテルはチュニス市内というより遺跡のカルタゴ(フラン
ス読みではカルタージュ)に近いGolden Tulip Hotel。昔から馴染みの駐在員K氏がホテルに来てくれて、まずはLe Golfeというレストランでディナー。Le Golfeといってもゴルフとは関係なく、フランス語でThe Gulfの意味だそうだ。

アルジェのように土日に仕事をするわけではないので、チュニスでの日曜がこの出張中初めての休みとなる。さっそく駐在員K氏の社宅へ行く。彼はわれわれがカサブランカを発つ前日に電話してきて、尿路結石になってしまったという。私ももう40年近く前になるが、腎臓結石を患ったことがあるので、その痛みはよく知っている。われわれに構わず、治療に専念しろと言ったのだが、彼は鎮痛剤か何かを使って押さえているようだ。今は結石も超音波を使って砕いて治す方法もあるはずだから、チュニスでだめならパリにでも出て治すよう言うのだが、このあと南アフリカで会議があるなど、なかなか治療に専念するのも難しいらしい。で、その社宅だが、これがまた海を一望する素晴らしいところにある。小さいながらプールもあり、素敵な家だ。

社宅を出てしばらく車を走らせると、シディ・ブ・サイドという町に着く。石畳に白い壁と青い窓や扉が特徴の町。何かギリシャの島にいるような感覚に襲われる。観光都市だが、ここに住む芸術家たちも多いとのこと。路地の突き当りにある、この町で一番古いカフェテラスからはチュニス湾が一望できる。ここでのんびりとコーヒーを飲んでいると、浮世の面倒なことはすべて頭から蒸発していきそうだ。

さらに車を進めてカルタゴの遺跡に向かう。紀元前9世紀、フェニキア人によって建てられた都市国家カルタゴは、紀元前3世紀末の、ローマとの第二次ポエニ戦争、そしてその指揮をとったハンニバル将軍で有名な町だ。カルタゴ、ポエニ戦役、ハンニバル将軍という固有名詞は知っていたが、ハンニバルの象によるアルプス越えの逸話から、「この辺に象はいるの?」と頓珍漢な質問をしてK氏から変な顔をされた。知らなかったのだが、ハンニバルはカルタゴから象に乗ってアルプスまで行ったわけではなく、当時、ハンニバルはカルタゴのイベリア植民地の支配者だったのだそうだ。従って彼はイベリア半島からピレネー、アルプスを越えてローマに進軍したわけで、そもそもその頃もカルタゴに象なんかいなかったのだ。でも、スペインにだって象なんかいなかったはずだから、どこから連れて行ったんだろう?

カルタゴ(カルタージュ)といえば、同じようなスペルの町(カルタヘナ)がパナマの隣国である南米コロンビアにあることを思い出す。チュニジアのカルタゴとコロンビアのカルタヘナとでは一見何の関連もなさそうだが、どうやらこういうことらしい。イベリア半島に渡り、カルタゴの植民地を建設していた父の死後、ハンニバルは義兄であるハスドルバルに育てられたが、そのハスドルバルが建設したのがイベリア半島東南の地中海に面したカルト・ハダシュト(新しい町)であり、この街はのちにローマの支配下でカウタゴ・ノヴァと呼ばれ、それが現在のスペイン・カルタヘナ市(人口約20万人)となった。一方、16世紀になってスペイン人が南米大陸を侵略し、カリブ海岸に建設したのが現在のコロンビア・カルタヘナ市(人口100万人)であり、この名前はおそらくスペインのカルタヘナからとったものだろう。従って、チュニスのカルタゴとコロンビアのカルタヘナはスペイン人を間に挟んでつながっていると考えていいのだと思う。

カルタゴ遺跡の主なものに公衆浴場があり、男女別の浴室やサウナ、マッサージルームなども備えていたらしい。また、神に犠牲として捧げられた幼児たちの墓などというのもある。いずれにせよ、これらの遺跡群はカルタゴ全盛時代のものではなく、三次にわたるポエニ戦役の末、カルタゴがローマに支配されてからのものだ。遺跡に隣接する博物館には見事なモザイクも展示されているが、市内のバルドー美術館に行けばもっと素晴らしいモザイクが見られるという。午後からそのバルドー美術館に行こうと誘われたが、今回の出張の最初のころからジェットラグで睡眠がとれないことと、風邪が重なって調子があまり良くないので、午後は失礼させてもらうことにした。

最終日、仕事を終えてからK氏と市内の"chez nous"という店で昼食。ここは値段は安いが、ちゃんと前菜と魚と肉のコースが出てきて、また、ずいぶん古くからの店らしく、壁には訪れた有名人の写真が貼られている。目の前にはパントマイムのマルセル・マルソーの写真があった。昼食の後、K氏が旧市街(メディナ)を案内するという。彼はメディナにも精通しているらしく、かなりやばい所まで平然と入っていく。おかげで、アルジェのカスバもこうかと思うような情景を目のあたりにすることができた。

帰路は、またもパリのシャルル・ド・ゴールで日本行のJALに乗りつぎ。北アフリカ行の便も、日本行の便も同じFターミナルなので、ここのビジネスクラスラウンジはすっかりお馴染みになってしまった。
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