Diary


.

May 31, 2009 =Sun=

Lorei遺跡 Preah Ko遺跡
Bakong遺跡 Siem ReupのOld Market
Angkor Century Hotelの中庭 Prasat Kravan遺跡
Banteay Srei遺跡 East Mebon遺跡
ソウルから大韓航空で約4時間半、カンボジアのシェムリアップ空港に着いたのは昨夜10時過ぎだった。地方空港なので、タラップを降りると歩いて空港ビルに入る。今回のツアー参加者は12名で、我々だけがホテルをランクアップしていたので他の人たちとは別のアンコール・センチュリー・ホテルにチェックイン。今朝は9時過ぎの出発となる。カンボジアの気温は一年中30度前後だが、4月からは雨季に入っている。雨に降られることを覚悟していたのだが、朝起きてみると雲はやや多いものの青空が覗いている。

アンコールの遺跡群を見るのに、まず最初にやらなければならないのは写真入りの観光パスを作ること。管理事務所で写真を撮るとものの10分ほどで出来上がる。料金は40ドルだが、3日間有効で、これを首に下げておけば別料金がかかる遺跡を除いて入場できる。

午前中はアンコール遺跡群のうちロリュオス遺跡群(Roluos group)と呼ばれる3つの遺跡を巡る。最初のロレイ寺院は893年にYasovarman一世によって先代のIndravarman一世のために建てられたヒンドゥー寺院。当時は人造湖の中に浮かぶ島に建てられたが、今は人造湖は水田となっている。

同じロリュオス遺跡群で次に訪れたプレア・コー寺院は、Indravarman一世が879年に先祖を祀って建てた、やはりヒンドゥー寺院。「聖なる牛」の寺院とも呼ばれ、寺院の前には聖牛の像が置かれている。正面から見ると3つの堂が見えるが、その後ろにも3つ、合計6つの祀堂が並んでいる。6つのうち5つは砂岩でできているが、一つだけは煉瓦の上に漆喰が塗られ、一部に漆喰に施された彫刻が残っている。

ロリュオス遺跡群の最後はバコン寺院。881年にIndravarman一世がヒンドゥーの神々に捧げたといわれる、砂岩のピラミッド式寺院。1936年にフランスの考古学者Henri Marchalによって発見され、石を一つ一つ積み上げて復元したもので、ロリュオス遺跡群のうち最も状態が良い遺跡になっている。

シェムリアップはアンコール遺跡観光のためのような街だが、その人口は15万人。15万人もいれば野菜や肉、魚、日曜雑貨などを売る市場も当然ある。そしてこの市場、オールド・マーケット自体が観光スポットになっている。マーケットでは観光客相手の土産物も売っている。

土産物と言えば、アンコールのどの遺跡に行っても、バスが止まると物売りの子供たちが集まってくる。まだ小学校1年生くらいの、時には裸足の子供たちが「1ドル、1$ドル」と言いながら絵葉書などを売りに来る。それぞれが観光客のひとりひとりに目をつけ、ずっと付き纏ってくる。可哀そうだとは思うが、いちいち相手にしていたのではきりがないから、出来るだけ目を合わさないようにして通り過ぎるしかない。現地ガイドのサムナン君に聞くと、地方では学校に行かない子供たちも多いそうだ。内戦で疲弊したこの国は、まだ貧しさから抜け出すことができずにいるのだ。

今回のアンコール遺跡ツアーは、きつい日差しを避けるために、午前の観光と昼食が終わると、一度ホテルに戻って2時間ほど休憩を取るスケジュールになっている。しかも3泊同じホテルの連泊するので、いつものようにホテルには寝るだけで翌日は次のホテルに移動するといった慌ただしい旅とは違ってホテル滞在時間が長くなりそうだ。だから一人1万円の追加料金を払ってホテルをランクアップしたのだ。1日目の今日もクメール料理の昼食が終わるとホテルに戻る。アンコール・センチュリーには大きなプールがある。昼下がり、西洋人らしい中年女性が二人いるだけのプールで、村上春樹の「羊をめぐる冒険」を読みながら休憩時間を過ごす。

午後もいくつか遺跡を巡る。1つ目はプラサット・クラヴァン寺院。ここは921年にHarshavarman 一世によりヴィシュヌ神に捧げられたヒンドゥー寺院。内部にはヴィシュヌ神を描いたレリーフがある。ヴィシュヌ(Vishnu)神は10の化身(Avatars)となって現れるといわれ、これがインターネット上の分身である「アバター」の語源となっている。

午後の2番目はバンテアイ・スレイ。967年の建設でシヴァ神とヴィシュヌ神に捧げられた、比較的小さい寺院だ。赤い砂岩で作られ、炎を表しているように見える。この遺跡の特徴は、「東洋のモナリザ」と呼ばれるデバター(女性像)の浮き彫りがあること。かつて、後にフランスの文化相を務める作家のアンドレ・マルローがこのデバターに魅せられ、盗もうとして逮捕されたという歴史がある。それにしても遺跡の盗掘をやった人間を文化相に据えるなんて、フランスという国も何を考えてるんだか。

東メボンは952年にRajendravarman二世によって建てられたヒンドゥー寺院。ここにも様々な彫刻があるが、目を引くのは周壁の四隅に建てられた象だ。この建物には砂岩、煉瓦、赤土(ラテライト)、漆喰と、クメール建築の材料がすべて使われている。

Pre Rup遺跡からの夕陽
東メボンのすぐ南に、同じRajendravarman二世によって961年に建立されたプレ・ループ寺院がある。東メボンと同様、ピラミッド形式の寺院だが、ここには火葬場もある。この寺院は夕陽鑑賞のスポットになっているようで、日の沈む前から大勢の観光客が遺跡に上り、夕陽を待ち受けている。われわれもその仲間に入り、西向きの一番いい場所を確保した。だが地平線付近には雲が多く、本当の夕陽は望めそうもない。雲の切れ目からの夕陽鑑賞となった。

明日はアンコールワットの朝日観賞が予定されている。日没の後、雲はますます厚みを増し、少し雨も降ってきた。朝日観賞には午前4時に起きる必要がある。この朝日ツアーは希望者のみとなっているので、今晩はマッサージも頼んでいることもあり、パスすることにした。マッサージはホテルのランクアッププランに含まれており、本当はスパのマッサージルームでやるのだが、追加料金を払って部屋でやってもらうことにした。外は雨がだいぶ激しくなっている。早朝の朝日観賞をスキップして正解だったかもしれない。

....
May 29, 2009 =Fri=

昨日「ご不幸通知」に接したMさん宅を弔問。ご自宅は私が以前住んでいたのと同じ町田市にある。むかし一度お邪魔したことがあるが、電話するとお嬢さんが玉川学園の駅に迎えに来てくれるという。ギリシャ時代にはまだ小学生だったお嬢さんも、この7月に結婚されるそうだ。お線香をあげて、奥様から最後の様子などをうかがう。数年前から体長はあまり良くなかったらしいが、亡くなられたのはかなり急だったようで、ご家族もまだ実感が湧かないとおっしゃっていた。昨夜、試しにGoogleでMさんの名前を入れて検索してみると、思いがけず町田の国際交流団体の機関誌にMさんが書かれた文章が出てきた。その頃はお元気でボランティア活動をされていたのだろう。
....
May 28, 2009 =Thu=

昼休み、同僚との昼食を断って丸の内オアゾの丸善へ。村上春樹の新作「1Q84」が昨日から大手書店に並んでいるとのニュースを見たからだ。正式の発売は明日29日だが、予約殺到で繰り上げたらしい。もしかして売り切れということもあるかと早めに丸善に急いだが、平積みどころか何と店頭で山のように積み上げて店員たちが「村上春樹の最新作です!」と声をかけている。さっそく上下巻合計3760円で購入する。ハードカバーの単行本を買うなんて久しぶりだ。ただでさえ本棚が満杯なので、このところ文庫本すら躊躇しながら買っている。愛読している逢坂剛のイベリアシリーズだって、ハードカバーが出ていることは知っていながら、何年も待って文庫版が出てからやっと買うようにしているのだ。だがこの村上春樹の新作だけは待ってはいられない。といっても実際に読むのは明後日からの海外旅行が済んでからになりそうだ。今はちょうど同じ村上春樹の「海辺のカフカ」を読み返しているところだし、何よりこの分厚いハードカバーを海外旅行に持っていくわけにはいかない。夏で、着替えも少なくて済むことから、スーツケースは持たずに出かける予定なのだから。とは言いながら、本を手にすると我慢ができず、スープストック東京で軽い昼食を食べながら数ページ読み始めてしまった。それにしても初刷が38万部、発売以前からさらに10万部が追加されたという。発行元の新潮社から、発売前に内容が一切明らかにされていない。7年前の「海辺のカフカ」のとき、発売前に概要が公開され、「何も知らされずに読みたかった。」という読者の声が多かったことに配慮したらしい。こうしたことが更に前人気を高めているようだ。

オフィスに戻った後、何気なく「ご不幸通知」の掲示板を覗いてみる。勤務先の会社は以前勤めていた商社の子会社であり、しかもこちらはその子会社の契約社員なので、親会社である商社のデータベースにはほとんどアクセス権がないが、なぜか「人事異動速報」と「ご不幸通知」だけは解放されているので、時々見るようにしている。今日、この「ご不幸通知」を開いてみてアッと驚いた。むかし、ギリシャ時代の同僚だったMさんがこの23日に肺炎で亡くなったとある。Mさんとは1977年の6月に1~2週間の差で相次いでアテネに赴任し、最初の何カ月かはお互い単身赴任だから一緒に料理を作ったりしたものだ。真面目で人柄の良い先輩だった。享年70歳。
....
May 26, 2009 =Mon=

どういう風の吹きまわしか、妻がiPodを欲しいというのでビックカメラでiPod nanoを購入。ついでに自分用にももう一台。妻の方はある実用的な理由があるのだが、私の場合は好奇心ゆえの出費。とはいえ、iPodには以前から関心を持っていたことは事実だ。音楽を聴くだけでなく、Podcastとかいろいろ面白い使い方ができそうなのだけど、これを使いこなすにはiTunesだの何だの、また新しいことを覚えなければならない。それが億劫なので今まで手を出さなかった。というより、昔ならこういう新しい機械には喜んで飛びついたものだが、億劫に感じるというのはやはり歳をとった証拠かもしれない。だが、メカに全く弱い妻が使うには、どうしてもこちらが手助けしてやる必要がある。そこでiTunesをダウンロードし、CDを何枚かぶち込み、Podcastから無料のものをいくつかゲットした。あとはこれをiPodにシンクロさせればよく、これだけでは機能の一部を使っただけなのだろうが、やってみれば使い方は案外簡単だ。
....
May 24, 2009 =Sun=

友達の結婚式に出席するという娘に頼まれて、妻と二人で双子を自由が丘まで連れて行く。に際の誕生日を過ぎて、このところ少しずつ言葉に意味が感じられる二人は、最近「電車」に異常なまでの興味を示しているので、市ヶ谷から代々木、山手線に乗り換えて渋谷、東横線で自由が丘という往復道中は興奮しまくりだった。
....
May 20, 2009 =Wed=

一昨年の10月まで一緒に仕事をしたKさんと、神田の鮨屋「磯はな」で。Kさんは埼玉県熊谷市にあったN社の社長をやっており、私はそこの経理を手伝いに行ったのだが、この会社が親会社を同じくする同職種の会社と合併させられ、Kさんは合併後の会社の副社長となり、この6月の株主総会で退任する。「磯はな」は、N社の本社を熊谷から神田に移したとき、Nさんが見つけた店で、以来贔屓にしている。店は小さいものの、鮪は大間の本マグロを使うなど、ネタはしっかりした店だ。私は今日は会社は休みだが、午前中、娘が体調が悪く、双子を保育園に迎えに行ってくれないかとのSOSが入ったので、飯田橋駅近くの保育園に迎えに行き、市ヶ谷まで二人用のベビーカーを押して帰り、その足で神田に来たのだが、Kさんは最近、その飯田橋駅前に新しく建った38階建て高層マンションの25階に引っ越したとのこと。そう言えば今日もそのマンションの前を通って市ヶ谷に向かったのだった。
....
May 19, 2009 =Tue=

旅行会社に電話して確認すると、北欧旅行の方は今日の5時半までならペナルティなしで解約可能と言うので、とりあえず解約することにした。北欧には前から行きたいと思っていながら機会がなかったので、キャンセルするのは残念だが、やはり今のこの時期に2ヶ月に3回海外旅行に行くというのは白い目で見られそうだ。
....
May 18, 2009 =Mon=

会社へ出勤したらエレベータを降りたところでマスクを渡され、執務室の入り口で消毒液で手を消毒するよう言われた。執務室に入ると全員がマスク姿。異様な感じだ。マスクはサージカルマスクというやつで、上の部分にフレクシブルな金属が入っていて鼻の形に合わせて折り曲げられる。そのため顔にフィットし、息で眼鏡が曇ることもない。先週の金曜日は休みだったが、その間のメールを開いてみると不急不要の海外出張の自粛に加え、プライベートであっても海外旅行は控えること、もし以前からの計画でキャンセルが難しい場合は旅行予定を届け出ること、とある。今月は30日からカンボジアへアンコールワットを見に行く予定だし、来月19日からは北欧旅行を計画している。とりあえずこの二つを届け出たが、どうやら雰囲気としては自粛しろということらしい。カンボジアの方は今からキャンセルは難しいが、北欧の方はまだ出発まで1か月あるのでキャンセルを交渉できるかもしれない。退社する際、マスクをさらに10枚ほど渡される。明日からは毎日マスクを換えて出社しろということ。
....
May 17, 2009 =Sun=

兵庫県の神戸高校生3人が豚インフルエンザと確認された。この高校は妻の母校だ。一昨日、妻は神戸高校の同級生たちのゴルフコンペに参加した。患者は現役の高校生だし、ゴルフコンペの方は60代後半の連中だからインフルエンザとは関係ないが、マスコミの報道では神戸高校とスポーツの親善試合をやった別の高校でもインフルエンザが発生したとか、大阪の高校でもインフルエンザが確認されたが、その高校のある部の生徒が神戸高校と親善試合をやったがインフルエンザの認定者はその部の生徒ではなかったとか、何か神戸高校が悪者になっているような感じだ。もっともそう言えば、先日国会議員パスを使って熱海へ不倫旅行に行き、官房副長官をクビになった鴻池某も神戸高校の出身とか。
....
May 16, 2009 =Sat=

民主党代表に鳩山由紀夫を選出。小沢一郎の秘書逮捕・起訴はいかにも明白で意図的な検察の民主党つぶしだが、それはそれとして小沢一郎のキャラクター自体がどうも好きになれなかったので、ここで代表が変わることは良しとしたい。鳩山と代表選を争った岡田克也は、会ったことはないもののその昔彼の父上と一緒に仕事をしたことがある、というかその直属の部下だったことがあって、克也氏の無愛想な性格の割には親近感を持っていたが、ここはやはり鳩山が順当なところだろう。
....
May 14, 2009 =Thu=

3月に一緒に北アフリカへ出張したO君が挨拶に来て、「明日、ドバイへ発ちます。」と。ちょうど北アフリカ出張に出る前日にドバイ転勤の内示を受けていて、成田空港のラウンジで待ち合わせたときに「実は・・」と深刻そうな顔で内示を打ち明けられた。初めての転勤がドバイというのは良いかもしれない。私が初めての転勤でアテネに発った時より7年か8年は若いし、帰国子女で英語は母国語に近いし、大いに活躍してくれるだろう。
....
May 12, 2009 =Tue=

帰国の日である今日、昨日までの天気が嘘のような晴天。13時発の飛行機なので、午前中は自由行動となっているが、昨夜寝るのが遅かったので朝はゆっくりしてチェックアウト。むかし大連にいたという長老は今朝早くタクシーでかつて住んでいた旅順近くへ行ってみたが、あたりはハイテク工業団地に変わっていて、住んでいた頃の面影は見いだせなかったとのこと。

成田に着いたあと、海外旅行帰りのいつものコースなのだが、リムジンバスで新宿駅まで行き、バス停のすぐそばの地下にある「沼津港」で鮨をつまむ。
....
May 11, 2009 =Mon=

ロシア人街
大連港
中国銀行(旧・横浜正金銀行)
日本人街
ようやく雨が上がった。大連観光も実質的に今日が最終日なので、一昨日、昨日と雨でスキップしたところを含めて忙しく回ることになる。といっても今回の旅行は全体的にスケジュールがゆったりできているので、それほどばたばたした感じはない。

まず、以前の繁華街であったという天津街を歩く。道路の真ん中に露店が並んでいる、特にこれと言った特徴
路面電車
大連賓館(旧ヤマトホテル)
旧・満鉄本社ビル
もない商店街だ。以前の繁華街ということは、現在では繁華街は駅の近くに移っているということらしい。次はロシア人街。「大連小景集」にも描かれているが、大連を含む遼東半島は日清戦争で日本がいったん租借権を得たものの、ロシア、イギリス、フランスによる三国干渉の結果、日本は租借権を返上、代わってロシアが租借した。ロシアにとっては念願の不凍港を建設するとともに、「遠いところ」という意味のロシア語で「ダーリニ」と名付けた町、つまり今の大連を、パリをモデルにした西欧型の都会にすべく都市計画を行った。現在の中山広場はロシア皇帝ニコライ二世の名を取ってニコライエフスカヤ広場と呼ばれる予定だった。しかし建設が始まった段階で日露戦争により大連は無血開城され、日本の植民地となり、日本にとって傀儡国家「満州国」建設の足掛かりとなった。日本はロシアの作成した都市計画をそのまま採用し、これに従って道路や建物を建設した。ロシア(露西亜)人街は当時の名残だが、今は広い道の両側に露店が並ぶ露店街になっている。だが、露店の後ろの建物は確かにロシア風であり、ロシア語の看板も見かけられる。露天ではマトリョーシカ人形も売られている。

ロシア人街の次は路面電車に乗る。大連市内には一路線だが路面電車が走っている。冷暖房完備の新型車両と昔ながらのチンチン電車が交互に来る。新型車両が出た当時は新型は2元、旧型は1元の乗車賃だったので、誰も新型車両に乗らなかったが、今は一律1元になったそうだ。ちなみに現在の相場で1元は約15円。観光客に人気のあるのは旧型車両で、われわれも旧型に乗る。ウィークディの昼間だがけっこう混んでいる。ワンマンカーで運転手は女性だった。

次は大連港。これもまずロシアによって建設され、日本の植民地になってからは運営や新埠頭の建設が満鉄の管理下に置かれた。現在は大連港集団有限公司が運営している。港の向かいにある大連港集団有限公司のビルの屋上に上がると港が一望でき、大連港集団の女性職員が解説をしてくれる。そしてなぜか売店では鮑から採れる真珠を売っている。

大連港から再び市の中心である中山広場に戻る。市内のどこにいくにもいったんいったんこの中山広場を通ることが多いので、これまでも何度も通っているのだが、広場でバスを降り、なかなか途切れない車のサークルを横切って広場の中心に入る。「大連小景集」の記述どおり、広場を取り囲んでルネッサンス様式の建物が並んでいる。もっとも目を引くのが初日に中を見学した旧ヤマトホテル(現大連賓館→)と、広場を隔ててその反対側に建っている旧横浜正金銀行(現中国銀行←)の建物だ。だが、1982年に書かれた「大連小景集」とくらべ、それから27年を隔てた現在では建物の用途がだいぶ違ってきているのも事実。当時は解放軍の倉庫として使われていた旧大連警察署の建物が現在はシティバンクになっているなど、銀行として使われているものが増えているようだ。ほかにも、大連市文化局に使われていた旧東洋拓殖ビルは現在は交通銀行、大連市財政局に使われていた旧大連市役所の建物は中国商工銀行になっている。

次に訪れたのは中山広場からほど近い旧満鉄本社ビル(→)。ロシアが建設した東清鉄道を日露戦争により獲得した満鉄こと南満州鉄道は1906年に東京で設立され、翌年に本社を大連に移した。満鉄は鉄道だけでなく炭鉱やホテル(ヤマトホテルもその一つ)の経営まで手を広げ、日本の満州支配の象徴だった。今はその鉄道を引き継いだ大連鉄道の本社として、また、一部は大連共産党本部として使われている。

次はむかしの日本人居住地区。いまも整備された一戸建て中心の高級住宅地だが、開発業者が建て替えた新しい建物のなかに、かつての日本人が住んでいたままの古い建物に現地の人が住みついたまま廃屋のようになっている建物も見受けられる。

「アカシヤの大連」という本の題名にもあるように、大連はアカシア並木で有名であり、5月下旬から6月にかけてアカシアの花が咲くころには「アカシア祭り」が行われれる。しかし今の時期はそれには少し早く、アカシアの木はまだ花をつけていない。また、中山広場やホテルの近くにある並木はアカシアではないようだ。ガイドの郎さんに「これは何という木?」と聞いたが「すみません。私は植物の名前には弱くて。」とのこと。今回泊まったホテルは中山広場からも近い「大連新世界酒店(Dalian New World Hotel)」という五つ星ホテル。3泊とも同じホテルだし、旅程がゆっくりしていてホテルで過ごす時間も長そうなので、追加料金を払ってホテルをランクアップしてもらった。これは正解だったらしく、約20名のツアー参加者のうち新世界ホテルには4組8名が泊まったが、ランクアップしなかった人たちはロケーションや設備などホテルの落差で不満が噴出し、それを抑えるのにガイドが苦労していた。

中国なのだから食事は当然中華料理となる。20人が二卓くらいに分かれて回転テーブルに次々と料理が出されるのだが、食べるペースより出てくるペースが速いのでテーブルの上には皿に皿が重なるほどだ。だが、東北地方の中華料理は日本人の口によく合うようだ。

食事の後、オプションで「雑技団」を見に行く。あまり期待はしていなかったが、飲み放題がついているというのに釣られた。だが、「雑技団」の演技も「飲み放題」の紹興酒もいま一つ。帰ってから少し時間が遅いもののマッサージを頼む。妻は三日続けてのマッサージだが、私は余りマッサージが好きではない。だが、妻が昨日頼んだマッサージ師がとても上手かったというので、今日は同じマッサージ師を指名する。妻が先にやってもらい、私はその後20分だけ頼むことにする。五十肩で右肩が痛いので、そこを外してもらうよう頼んだのだが、言葉がうまく伝わらず、彼は右肩を集中的にマッサージ。それもかなりの力を入れて。どうやら右肩の痛いのを治してやろうという意気込みらしい。マッサージでの痛みが、いつもの肩の痛みとは少し違うようだし、もしかしてこれで治れば儲けものと。痛さは我慢して彼の腕に託すことにした。20分が過ぎ、「まだ痛いか?」というので「痛い」と顔を顰めるとさらに10分ほど追加してくれた。終わった後、気のせいか五十肩の痛みが取れているような。だが、痛みを無理やり押し込めていて、時間がたつと復活してきそうな気もする。
....
May 10, 2009 =Sun=

朝か
ら本格的な雨。今日は午前中は旅順へ、午後からは星海公園と自然博物館を訪ねる予定だが、まず自然博物館に行く。日曜日で本来は休館なのだが、どういうコネがあったのか館長がみずから案内してくれる。この自然博物館のことも「大連小景集」に出てくるのだが、そこに描かれているのはロシア時代にダーリニ(ロシア時代の大連の名)市庁舎を改造したもので、1998年にいまの場所に移転している。一階でいきなりアフリカゾウの剥製が出迎えるのには驚かされる。別に大連に象がいたわけではなく、アフリカからの寄贈らしいが、なぜ大連の自然博物館に象がいるのか、と思ったら恐竜の部屋なんてのもあるし、巨大な鯨の剥製も展示されている。

旅順まではバスで約1時間。まずは水師営会見所。1905年1月に日露戦争に勝利した乃木大将とロシアのステッセル将軍がここで会見を行った。当時の民家(農家)で、草ぶきの屋根にはいまも雑草が伸びている。周囲の民家が激戦で破壊しつくされたのにこの建物だけが残っていたのは、日本軍が野戦病院として使い、赤十字の旗を立てていたからと言われる。203高地など旅順要塞をめぐる攻防で、単細胞で下手な攻撃により自分の二人の息子を含め多くの将兵を死に追いやり、愚将と言われた乃木大将だが、この水師営の会見で敗軍の将に対して紳士的な態度をとったことが伝わり、俄かに英雄視されることとなった。その203高地は、名の通り標高203メートルの丘だが、かなり急な坂を歩いて登る。高齢者のためには専用のタクシーも出ている。頂上には砲弾の破片を集めて作った慰霊塔が建っており、203をもじった「爾霊山」の文字が浮き彫りにされている。

塔の横に設置された看板には次のような文章が中国語、英語、日本語で書かれている。

「二百三高地は1904年日露戦争時の主戦場の一つであった。日露両軍はこの高地を争奪するため、殺し合っていた。その結果、ロシア軍は5000人以上、日本軍は一万人以上死傷した。戦後、旧日本第三軍司令官である乃木希典は死亡将士を記念するため、砲弾の破片から10.3m高さの銃弾のような形の塔を建造し、自らが「爾霊山」という名を書いた。これは日本軍国主義が外国を新楽した犯罪の証拠と恥辱柱となっている。」

当時の日本にも、「旅順の城はほろぶとも ほろびずとても何事ぞ 君は知らじなあきびとの 家のおきてに無かりけり」と詠った詩人がいた。だが、その詩人も満州事変から第二次世界大戦へと事態が進むにつれて戦争賛美へと転向してしまうのであるが。

ところで、日曜日の今日、あちこちで左のような祝賀アーチを見かける。アーチには「恭賀 ○○先生 △△小姐 新婚」という文字が見える。写真は水師営会見所の隣のレストランに飾られていたものだが、大連市内のホテルなどでも同じようなアーチが数多く掲げられている。結婚披露宴が行われているのだ。中国の結婚披露宴は朝早くから夜まで、一日がかりで行われる。
....
May 9, 2009 =Sat=

成田からJALで約3時間。大連は小雨だった。昨日まで東京は天気が悪く、今日から晴天になったのに、大連は昨日まで好天で、今日から雨だ。天気予報ではわれわれが滞在する3日間はずっと雨で、帰国する
12日に晴れるという。東京は逆にその日からまた崩れそうだ。

大連へのツアー参加者は、想像していたように高齢者がほとんどだ。20名くらいの参加者のうち、我々を含めて4組8名の夫婦が同じホテルだったが、そのうち男性では私が3番目の高齢者で、一番の年長者は小学生時代に大連に住んでいた人。1948年に帰国して以来初めての大連だそうだ。

大連への旅行に際して、清岡卓行の芥川賞受賞作「アカシヤの大連」(講談社文芸文庫)を読んでいった。清岡氏は大連で生まれ育ち、東大仏文の学生時代に大連に帰郷して終戦を迎え、1948年に引き揚げ船で舞鶴に帰国している。「アカシヤの大連」は、大連への帰郷から終戦、現地に残留した日本人仲間である最初の妻との出会いを描いている。(その妻は後に病死し、彼女への思いが同じ文庫に収録されている「朝の悲しみ」の題材となっている。)「アカシヤの大連」で芥川賞を受賞したのは、彼が40代半ばになっていた1969年だから、この賞の受賞者としてはかなり遅い。同じ東大仏文で、同じく渡辺一夫に師事した後輩である大江健三郎は1958年に23歳で芥川賞作家となっている。清岡はもともとは作家と言うより詩人であり、「アカシヤの大連」の文章も詩的な美しさに満ちているが、芥川賞選考会で一部の選考委員からは「甘い詠嘆と感傷だけ」という手厳しい意見が出されたという。文庫本にはこのほかに「大連小景集」という短編紀行文がいくつか収められており、彼が1982年に日中文化交流協会の訪問団の一員として訪中した際、大連を再訪したときの情景が詳しく描かれており、これが今回の旅行の参考資料として役立った。

空港から市内に向かううちに雨が本降りとなってきたので、今日の観光は中山広場にある大連賓館(旧ヤマトホテル)の見学だけとなった。「大連小景集」の中にも「中山広場」という短編があり、ここでは中国側の交流協会の人が清岡に、広場を取り囲む建物を一つ一つ説明し、それに対して清岡が「その建物は昔は○○でした。」というように回想するのだが、パリのシャルル・ドゴール広場のように中山広場からは10本の道路が放射状に広がり、その10本の道路の間に広場を囲んで10の建物が建っているのだが、広場の中心からそれらの建物を眺めるのは雨が止んでからにしようと、まずは旧ヤマトホテルに入る。日本の植民地時代に満鉄が造ったというこのホテルは、今や老朽化して三ツ星クラスに格落ちしているが、今でもちゃんとホテルとして営業している。昔大連に住んでいたという方とエレベータで最上階の5階まで登ってみたが5階は改装中なのか工事が行われていたので1階下の4階で降りてみる。宿泊客が少ないためか、省エネのためか、廊下の電気が半分消されていて暗かったが、現代のホテルと比べて廊下の幅が広く、往時の格式が偲ばれた。
....
May 7, 2009 =Thu=

連休中に引っ越し作業が行われ、今日から新しいオフィスに出勤。旧三菱商事ビル、古川ビル、八重洲ビルの3つを取り壊した後に建てられた丸の内パークビルが新しいオフィス。まだ低層階の商業ゾーンや復元されて美術館となる三菱一号館は未開業だし、オフィスの中でもまだ内装工事が行われているところもあってまだ落ち着かないが、さすがに丸の内地区のフラッグシップビルだけあって住み心地は良さそうだ。

三菱東京UFJ銀行向かいの、旧八重洲ビル側の入り口から入ったが、この一角は八重洲ビルの外壁を復元している。八重洲ビルにもかつて勤務したことがあるので懐かしいが、あのビルは外壁の美しさもさることながら天井の高さや重厚な階段などビル内部が素晴らしかった。もちろん復元したのは外壁だけで、内側は超近代的なものだが、古いビルの一部を外壁だけ復元する手法と言うのはいかがなものだろうか。この近くでも最近建てられた日本工業倶楽部、銀行倶楽部、丸ビルなど、昔の建物の外観を一部復元し、その上で高層化しているビルが多い。現在取り壊しが行われている中央郵便教区の建物も、総務大臣が横やりを入れて復元部分を増やすようだ。だが、昔の建物に馴染んでいる現在の人たちが見れば意味があろうが、30年、40年後の人たちの目にはどのように映るのだろうか。むしろ現代の感覚と技術で今の時代の建物を建てた方がすっきりするように思う。

四時過ぎにオフィスを出たところに、大学の同窓会幹事役のY君から電話。今近くに来ているので会えないかと。5時過ぎに新橋で用事があるのだが、彼とも話がしたいのでオフィスの近くで待ち合わせ、近くの喫茶店で短時間ながら話すことができた。
....
May 5, 2009 =Tue=

新宿ピカデリーで「Red Cliff Part-2」を観る。Part-1を観ていないので最初は誰がどちらの陣営か分からず、早いテンポについていけなかったが、途中からやっと登場人物が判別できるようになってきた。三国志の赤壁の戦いを描いたものだが、映画では、呉の智将である周喩は魏の曹操に対して一時的に共同戦線を張る蜀の参謀諸葛孔明との関係について、一定の距離を置きながらも赤壁の戦いの勝利ののち深い友情に結ばれたように描かれている。だが、三国志では孔明と周喩は互いに牽制し合い、嫉妬しあって時には相手を暗殺しようとさえする関係にあったはずだ。

それにしても連休で雨のせいか、映画館は人であふれている。この新宿ピカデリーは10スクリーンのシネマコンプレックスだが、「何時何分の何番スクリーンはただいま満席となりました。」というアナウンスがひっきりなしに流れている。「レッドクリフ2」も、昨夜ネットでチェックすると「残席わずか」の表示が出ていたのですぐさまネット予約で席を確保した。普通ならかなり人気の高い映画であっても朝一番の回はガラ空きなのが普通だが、今日は普通ではないようだ。
....
May 4, 2009 =Mon=

昨日のDiaryでもちょっと触れたように、逢坂剛の「イベリア・シリーズ」を読み返している、というか、読み返し終わった。このシリーズについてはこれまでもDiaryで触れたことがあったと思うが、「イベリアの雷鳴」に始まって「遠ざかる祖国」「燃える蜃気楼」「暗い国境線」と続くシリーズもので、「イベリアの雷鳴」は文庫本で700ページ余り、その後の3作は上下巻に分かれているからこれだけでもかなりの分量になる。だが読み始めたら最後、途中で一息つくのも憚られるほど面白く、飛行機の中やスポーツジムのプールサイドで読みふけっていると時間のたつのを忘れてしまう。シリーズはこれで終わりではなく、単行本ではすでに次の「鎖された海峡」も出ている。

舞台は第二次大戦前から戦中にかけての中立国スペイン。内戦の傷跡が残るスペインで枢軸側につくと見せながらヒトラーの参戦要求をのらりくらりとかわし続ける権力者フランコ。その政治的立場からスペインは連合国、枢軸国入り乱れての情報戦の渦中にある。主人公は陸軍中野学校出身の日本人諜報員だが、ペルー国籍の日系人宝石商という隠れ蓑であくまで民間人を装っている。というか、彼の立場は陸軍の中でも良識派の某高級軍人の命により、公使館とも駐在武官とも無関係の立場で戦時ヨーロッパの正確な情報を収集することである。日本政府や軍の好戦論が優位を占める中で、彼は祖国を戦争から回避させること、開戦後にはできるだけ早く戦争終結に導くことを自らの使命としつつ、対立する立場にいる英国諜報組織MI6の女性諜報員バージニア・クレイトンとの愛を深めていく。

この小説の面白いところは、逢坂剛の抜群のストーリーテリングのうまさと、史実に裏付けられた時代背景や登場人物にある。驚くのは、主人公を何彼となく助けるドイツ軍諜報組織アプブェアの長官ヴィルヘルム・フランツ・カナリス提督やその部下のハンス・オスター大佐、在西日本公使須磨弥吉郎、MI6の中で独自の動きをするキム・フィルビーなど、準主役級の登場人物たちがすべて歴史上実在することである。ネットで検索してみると分かるのだが、小説の中でゲシュタボと対立してまで主人公を救うカナリス提督は、終戦間際にヒトラー暗殺計画への関与でナチスドイツによって処刑されている。須磨公使は着任早々からスペインの画家たちの絵を買い集め、それを諜報作戦の裏金にも利用しているらしいのだが、戦後は衆議院議員も務めた現実の須磨弥吉郎も、公使在任中に絵を収集し、その須磨コレクションは長崎県立美術館に収蔵されている。その中には「遠ざかる祖国」の冒頭で須磨公使がロマニージョス伯爵夫人(流石にこの人物は架空らしいが)に勧められて買ったホセ・グティエレス・ソラナの「軽業師たち」と「アスファルト舗装をする男たち」の2点も含まれている。小説の中で、カナリス提督によるヒットラー排除を前提とした和平提案に強硬に反対したキム・フィルビーは、英国情報局秘密情報部(M6)の諜報員として頭角を現し、一時はMI6の長官候補になった人物だが、実はソ連の二重スパイであったことが発覚、ソ連に亡命し、KGBのために働き、後にレーニン勲章を受けている。こうした歴史上の人物(といってもおそらくは余程の専門家でないと名前を知らないような)を、小説の中であたかもフィクションの人物であるかのように生き生きと活躍させるのは、作家によるこれら実在の人物についての調査が十分に行き届いていないとできることではないと思われる。次作の「鎖された海峡」が早く文庫本で発売されることを切に希望する。
....
May 3, 2009 =Sun=

今日も日中はYちゃんのお相手を頼まれ、一昨日と同じ北の丸公園に連れて行く。今日は憲法記念日だが、靖国神社には右翼の街宣車が集結していて、周囲には戦闘服を着た右翼連中がうようよしている。彼らはこうやって一般市民を威圧しているつもりらしい。傍から見て滑稽なだけなのだが。

来週の日曜は妻の誕生日と母の日が重なるのだが、その日は妻も私も日本にいない。それで今晩は娘がわれわれを家の近くにできたタブラオに招待してくれることになった。双子の孫は娘の夫が面倒をみてくれるという。娘の家から5分くらいのところにセルバンテス文化センターという建物がある。セルバンテス文化センターはスペイン政府がスペイン語やスペイン文化の普及のため世界各地に設けているもので、70以上の支部があるが、東京センターは最大のもの。2007年9月から業務を開始しているが、正式オープンは2008年11月で、オープニングセレモニーには名誉会長のファン・カルロス国王も出席したという。

センターの最上階である7階にタブラオレストラン「Meson Cervantes」がある。毎週日曜日にフラメンコショーがある。このところ、逢坂剛のイベリアシリーズを読み返していることもあって、シェリーを飲みたいと思うのだが、近所の酒屋では「ここ、シェリー置いてます?」「シェリーって?」てな会話でいらいらしていたのだが、この店では6~7種類のシェリーがグラスで600円で飲める。とりあえずフィノを注文。タパスはイワシの酢漬け、からすみ盛り合わせ、それに24年熟成のハモン・イベリコにした。あと、パエリャ、骨付き子羊のグリル、本日の魚料理を一皿ずつ。ハモン・イベリコはさすがに美味しい。

7時半にショーが始まる。ダンサーは男性一人と女性二人、三人とも30歳前後のようだ。床がよく響くせいかタップの音が激しい。ギターはこれも30歳前後だがカンテだけが60代くらい。なかなか味のある歌い手だ。隣のテーブルに赤ちゃん連れのおばさんがいた。このおばさん、赤ちゃんを抱いたまま立ち上がると、踊りの合間に実にタイミングよく「オーレ!」の声をかける。そのタイミングと発音から、これは只者ではないと見当がつく。若い女性、年上の女性、男性、そして三人と踊りが終わると、若いほうのダンサーが隣の席に来て赤ちゃんを抱いている。どうやらおばさんはこのダンサーの母親らしい。とすればおばさんもフラメンコダンサーなのか。45分の休憩ののち、もう一度ダンスが始まる。新宿のエル・フラメンコあたりだと、一回目のショータイムが終わるとお客を入れ替えていたと思ったが、ここではお客は一人も席を立たない。衣装を替えた出演者は、今度は年上の女性、男性、若い女性の順。一通り踊りが終わるとカンテに促さされてギタリストが全員を紹介、最後にギタリストをカンテが紹介する。カンテは明らかな関西訛りだ。

今日は基本的には娘のおごりだが、料理やお酒、それにショーチャージを含めても3人で18000円弱。なかなかリーズナブルだ。これからも娘の家に行った帰りなど、時々利用したい店だ。それにセルバンテス文化センターではスペイン語の講習も行っている。パナマに住んでいた時に習わなかったスペイン語だが、今ごろになって習いたくなってきた。

家に帰ってから、娘から電話で、さっきのダンサーたちについて伝えてきた。ネットで調べたらしい。客席から「オレ!」を連発していたおばさんは、鈴木真澄さんといってフラメンコの本も出している大御所。ダンサーの男性と若い方の女性は真澄さんの長男と長女で、三枝雄輔、三枝麻衣といってこちらも本場仕込みの名手とのこと。高円寺でフラメンコ教室を開いているが、われわれが以前住んでいた東高円寺のマンションのすぐ近くだ。私も気になっていたカンタオールを検索してみたところ、瀧本正信という、こちらも一流の人だった。ただ、年齢はいくつくらいなのだろうか。
....
May 1, 2009 =Fri=

久しぶりに娘のところの双子の面倒を見に行く。双子のうちSちゃんが高熱を出し、二人の面倒をみるのが大変なので、Sちゃんを病院に連れて行くあいだ、元気な方のYちゃんを散歩に連れて行ってほしいとのリクエスト。市ヶ谷駅まで二人用のベビーカーで行き、Yちゃんを下ろして駅前の公園に行ったのだが、ママから置き去りにされたと思ったのか「ママ、ママ」とむずかる。それで気分を変えさせようと靖国通りに出て手をつないで歩く。Yちゃんの方はSちゃんより単純に出来ていて、気分が変わるのも早い。長い距離をベビーカーでなく歩いていくのは初めてだが、結構機嫌よく歩いてくれる。靖国神社の塀に沿った道端にタンポポが咲いているのを見つけ、その隣の茎には花が咲いた後の綿毛が残っていたので、フーッと吹いて綿毛を飛ばすと一緒になってフーッと吹くのが可愛らしい。靖国神社を通りぬけて北の丸公園まで、抱っこしたのは四分の一くらいで、あとは自分の足で歩く。だが流石に帰りは疲れたのか、逆に四分の三くらいは抱っこさせられた。病院に行っていたSちゃんの方は、ただの風邪との診断だった。
....
過去の日記 当月の日記へ
Apr 2009 Mar 2009
Feb 2009 Jan 2009 Dec. 2008 Nov. 2008
Oct. 2008 Sept 2008 Aug 2008 July 2008
June 2008 May 2008 Apr 2008 Mar 2008
Feb 2008 Jan 2008 Dec 2007 Nov 2007
Oct 2007 Sept 2007 Aug 2007 July 2007
June 2007 May 2007 April 2007 Mar 2007
Feb 2007 Jan 2007 Antarctica 2006/7
Dec 2006
Nov 2006 Oct 2006 Sept 2006
Aug 2006 July 2006 June 2006 May 2006
Apr 2006 Mar 2006 Feb 2006 Jan 2006
Dec 2005 Nov 2005 Oct 2005 Sept. 2005
Aug 2005 Jul 2005 Jun 2005 May 2005
Apr. 2005 Mar 2005 Feb 2005 Jan. 2005
Dec 2004 Nov 2004

Oct. 2004

Sept 2004
August 2004 July 2004 Jun 2004 May 2004
Apr 2004 Mar 2004 Feb 2004 Jan 2004
Dec. 2003 Nov. 2003 Oct. 2003 Sept. 2003
August 2003 July 2003 June 2003 May 2003
過去の日記は一番下です。