Diary



February 20, 2010 =Sat=

今回の出張先であるバングラデシュとスリランカについてだが、スリランカは「地球の歩き方」といガイドブックが出ているのに、バングラデシュの方はそれすらないという違いがある。スリランカは一応リゾート地であり、欧米からの観光客も多いのだが、同じ旧英国領でありながらバングラデシュに観光に移行などと言う人は少ないと見えて、ガイドブックなど発行しても採算に乗らないのだろう。ところが今回の出張中、現地にいるT氏から、「地球の歩き方」のバングラデシュ版がいよいよ発行されることになったと聞いた。T氏はこのことを大使から聞いたそうだが、真偽のほどを確かめるため「地球の歩き方」の発行元に照会したそうだ。そうしたら担当の編集者から返事が来て、「採算に乗るかどうかは不安があるが、とにかく発行することには間違いない。」とのことだったそうだ。私たちが出張する可能性のある先、つまり会社の事務所がある先で、「地球の歩き方」が出ていないのは、たぶんバングラデシュと西アフリカくらいのものだろう。西アフリカのダカールとアビジャンには一昨年に出張の計画があったが、先方とスケジュールが合わず流れたことがある。そのときやはり「地球の歩き方」を探したのだが、南アフリカや東アフリカはあっても西アフリカはなかった。今度バングラデシュ版が発行されれば、残るのは西アフリカだけになるのかもしれない。
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February 19, 2010 =Fri=

オフィスからの眺め(手前は財務省の建物)
スリランカの新紙幣(上:表面、下:裏面)
コロンボのホテルではダッカでは見られなかった欧米の観光客の姿が多い。もちろん例によって中国人や韓国人も多いが。スリランカの面積は66千平方キロと小さいものの、人口も22珀万人、GDPは920億ドルで一人当たりは4,581ドル。バングラデシュとはだいぶ違う。それだけに街中を歩いても平気なのだが、なにせオフィスはヒルトンホテルの敷地内からエスカレーターが通じている37階建てのワールドトレードセンターにあるので、まったく外を出歩くチャンスがない。ホテルからもオフィスからも、リゾートと言っていい浜辺が見える。

スリランカと言えば昔から紅茶と相場が決まっているようだが、実際には現在、ここの輸出品は繊維製品が太宗を占める。やはり衣料品が主体であり、世界の有名ブランドもスリランカ製ということが多いらしい。

LTTEとの内戦は昨年5月に政府軍が制圧して終わり、今年1月には大統領選挙で現職のラジャバクサ氏が大差で再選された。しかし、その選挙前の昨年11月に発行された新紙幣が議論を呼んでいる。表に描かれた両手を掲げる人物は現職大統領ラジャバクサその人。これではお札が選挙ポスターになってしまったと言っても過言ではない。裏面の図柄もどこかで見たことがある。映画「硫黄島からの手紙」で硫黄島を占領した米軍が星条旗を掲げるシーンと同じだ。しかも空には軍用ヘリや戦闘機、、海上には戦艦、地上には戦車が描かれている。選挙ののちスリランカ軍は投票に不正があったと主張する野党候補を逮捕した。こんな調子ではまたいつか、何が起きるか分からない。

当初、日曜日の午前0時5分発のキャセイでシンガポールに出て、そこからJALで帰国するスケジュールになっていたが、土曜日一日いてもすることがないらしいので、1日繰り上げて土曜日の同じフライトに変更した。
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February 17, 2010 =Wed=

ダッカからコロンボに移動。スリランカ航空の直行便があるのだが、会社が用意してくれた航空券はタイ航空(TG)でバンコックに戻り、またTGでコロンボに行くというもの。昨年5月まで反政府武装組織「タミル・イーラム解放のトラ」(LTTE)との内戦が続いていたのでスリランカ航空は避けたのかもしれない。しかしそのおかげで、ダッカ→バンコック2時間半、バンコック→コロンボ3時間半のフライト時間に加え、バンコックの空港での待ち時間が5時間もあり、コロンボのバンダラナイケ国際空港に着いた時には日付が変わっていた。迎えに来た会社の運転手に聞くと、ホテルまで40分程度とのこと。途中二度検問があったがほとんどフリーパス。運転手いわく、「日本人には検問の兵士も寛容なんです。いっぱい援助をもらってるし。」市内に入るまで信号が一つもなくノーストップ。深夜ではあるが街の様子はダッカとは比べ物にならないくらい落ち着いた様子だ。ヒルトンにチェックインしたのは午前1時半近く。チェックインでクレジットカードを要求され、ダイナースを出したら"Sorry, we can not accept this card. Have you another one?"と言われマスターカードを出す。いくらスリランカとはいえ、天下のヒルトンで使えないとは、ダイナースも何やってるんだ。
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February 16, 2007 =Tue=

ホテルから見たダッカ市内
オンボロの二階建てバス
ダッカはお世辞にもきれいな街とは言えない。日本とバングラデシュを比べてみると次のようになる。<面積>日本:378千平方キロ、バングラ:144千平方キロ、<人口>日本:127百万人、<バングラ>152百万人、<GDP>日本:4兆3560億ドル、バングラ:2248億ドル、<一人当たりGDP>日本:34,115ドル、バングラ:1,388ドル(以上、Wikipediaより)日本の半分以下の面積に日本以上の人口が犇めいているのだから、どこに行っても人人人・・・バーレーンやシンガポールなどの島国を覗くと人口密度は世界一だそうだ。街中で車が止まると物乞いが寄ってくるのはインドと同じ。ホテルとオフィスは大通りを隔てた向かいと言ってもよい距離だが、われわれがオフィスに行くには車で15分ほどかかる。外国人が歩くには危険があるのと、交通渋滞がひどいのでUターンするのが難しいから。道路で幅を利かせているのはインドと同じオートリクシャだが、ここのはなぜか運転席も客席も金網で覆われている。旧英国領だから車は右側通行だし、ロンドンの払下げと思われる2階建てバスも走っているが、まったくボロボロの状態だ。

だがこの国の人たちのエネルギーはすごい。中国やインドの所得水準が上がってくると、次の生産拠点としてクローズアップされてきつつあるのがこの国だ。ユニクロなどの生産拠点としても注目を浴びつつある。最近、NHKで「沸騰都市」というタイトルでダッカの特集が放映されたそうだが、まさに適切なタイトルだ。

1947年にインドが独立した時に、イスラム教徒の多い地域はパキスタンとしてインドと分かれて独立したが、地域的にインドを挟んで東パキスタンと西パキスタンに分かれ、首都のある西に比べて東が冷遇されたことから東西パキスタンの内戦となり、東がバングラデシュとして独立した。だからこの国は当然イスラム教国だ。イスラムの国と言えばふつう中東諸国を思い浮かべるが、世界でイスラム人口の一番多いのはインドネシア、2番がパキスタン、3番がインド、そして4番目がバングラデシュとなる。次いでエジプト、ナイジェリア、イラン、トルコと続くが、イスラムの聖地メッカを抱えるサウディアラビアなどは人口が25百万人程度だからイスラム比率は100%でも十指にも入らない。
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February 14, 2010 =Sun=

6日にインドから帰って来たばかりだが、今日はまたJALに乗ってシンガポール経由でバングラデシュのダッカへ。今回はダッカとコロンボへの出張。同行のT君と成田空港で落ち合う。T君とは一昨年アフリカに同行出張して以来だ。ダッカには現地時間で午後7時ごろに到着。Pan Pacific Sonargaon Hotelに入る。このホテルは1977年のいわゆるダッカ空港日航機ハイジャック事件のお詫びとして日本政府が円借款を供与して建設されたとのこと。Pan Pacificグループの運営だが、確かPan Pacificグループは以前は東急観光が持っていたのを、シンガポールの会社が買収したはず。そんな経緯があってのことか、ロビーには日本の鎧兜が飾られている。
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February 9, 2010 =Tue=

アテネの現地法人に社長として赴任するY氏と国際ビルの「きくかわ」で昼食。ギリシャ現法は私のいるころには日本人が4人いたのだが、今は社長すらイスタンブール支店長が兼務する形でここ10年間はナショナルスタッフだけで運営してきたが、久しぶりにY氏が赴任することになった。私がいたのはもう30年も前のことで、いまさら新任社長と話しても彼の参考にはならないだろうが、現在現地法人を実質的に切り盛りしているナショナルスタッフは私のころからずっといる人間だし、現地法人経験者で一応現役?をやっているのは私くらいのものだから、彼の方からも一度話したいと言ってくれていた。ところがこの時期、ギリシャと言えば経済危機の真っ最中。日本の株価にも影響を与えているほどだ。仕事の関係上、ギリシャのことはよく承知している新社長も苦労の多いことだろう。
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February 6, 2010 =Sat=

今朝成田に着いたばかりだが、沖縄から旭川に帰る息子が羽田で降りてわが家のアパートにあるゲストハウスに一泊。このため昼は彼と我々夫婦で小田急ハルクの叙々苑で、夕食はこれに娘と双子の孫が加わって歌舞伎町の玄品ふぐで食事。北海道にもおいしいものはあるのだろうが、息子は東京に来ると焼肉とフグを食べたがる。この前食事をしたときは、髭を生やした息子を「怖いおじさん」と言っていた双子たちも、髭をそった今日のおじさんにはすっかり懐いていた。
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February 5, 2010 =Fri=

風の宮殿(ジャイプール)
まずは昨日逆光で写真映りが良くなかった「風の宮殿」に寄って写真を撮る。正式にはハワー・マハル(Hawa Mahal)といい1799年にこの地を治めていたマハラジャ、サワイ・プラパト・シンによって建てられた。5階建てのピンク色の砂岩でできている。蜂の巣のように953の小窓があり、人々の顔を見せることの許されなかった王族の女たちがこの窓から市民の日常生活を眺めたという。非常に風通しのいいことから、風の宮殿(Palace of Wind, or Palace of the Breeze)とよ呼ばれている。これもシティ・パレスの一部であり、Zenanaと呼ばれるハーレムの女たちの部屋に続いていたという。奥行きのない、何か不思議な建物だが、街のビジネス街に面していることから、この周囲は物売りや物乞いも多く、じっくり鑑賞できないのが残念だ。
アンベール城の謁見広場
アンベール城の中庭と砦の遠景

ジャイプールを出て近郊のアンベール城へ。ここはまだ世界遺産には指定されていないというのであまり期待はしていかなかったが、それだけにここの景観には感動した。城の手前でバスを降り、数人ずつジープに乗って険しい山道を登っていく。ジープ以外にも、象に乗って城まで行くこともできるようだ。丘の上の城に着くと、周りの山々に城壁がちょうど万里の長城のように続いている。外見はいかにも砦というに相応しい(事実、英語では"The Amber fort"という。)赤砂岩で造った無骨な姿だが、内部は繊細で華麗な造りになっている。1592年にムガール帝国のラージャ・マン・シンにより建築が始められ、その後150年にわたり代々の領主に依り改築が加えられた結果、特にその内部はイスラムとヒンドゥーの影響が混じり合ったものとなっている。ラージャ・マン・シンはムガール皇帝アクバル軍の司令官であり、皇帝をとりまく9廷臣(Nine Courtiers of King Akbar)の一人。

謁見の広場を見下ろす部屋には大理石の窓に実に細かい透かし彫りが施されており、こちらの姿が見えぬまま広場の様子を見下ろすことができる。中庭には幾
大理石の透かし彫りの窓
何学模様の庭園が造られている。

ここから延々と5時間半をかけてデリーに戻る。市内に入るとお決まりの交通渋滞。デリー市内で一般家庭を訪問するスケジュールになっているのだが、この「一般家庭」市内でも高級住宅地域に建つアパートに住む「中流より少し上」の家庭だという。「日本にも行ったことがある。」と称するおばさんで、メイドも一人使っている。何しろ日本でいえば3LDKの家に30人余りのツアー客が一度に押しかけるのだから、ゆっくり話をする時間もない。油で揚げたスナックと紅茶をごちそうになるのが精いっぱいといったところだ。

最後に、インドのインターネット事情。最初にとまったニューデリーのAshok Country Resortでは、部屋にLANケーブルもケーブルのタップも付いていないが、パソコンを開いてみるとWiFiを検出したのでレセプションに問い合わせるとパスワードを教えてくれた。接続は無料でアクセス速度もよい。流石はIT大国だと感心し、明日からも大丈夫だろうと思ったのだが、2日目は列車泊だからこの日は無理。3日目以降はすべてクラークス系のホテルだが、Clarks Varanasiではチェックインの時に部屋でインターネット接続できるか聞いたところ、「設備はありますがサーバがダウンしているのでビジネスセンターでどうぞ」とのこと。ビジネスセンターを覗いてみたら、パソコンが1台あるきりで、隣の机にはパソコンも置いてない。だが、息子に送らなければいけないファイル(デリーからバラナシへの列車の中でずっとそのエクセル・ファイルを作っていた。)があったので、「僕のラップトップを繋がせてくれる?」と聞いたら「Of course!」と。あいている机はそのためにあったらしい。ただし有料で1時間50ルピー(約100円)。次のClarks KhajurahoではWiFiが使えて料金は2時間で250ルピー。250ルピーはレストランでビールを注文する時の値段とだいたい同じ。次のアグラでのホテル(Clarks shiraz)は2連泊だが、1日目の夜がちょうど帰りの飛行機の出発72時間前になる。JALは72時間前からWeb checkinが出来るので、ネットが繋がればWeb checkinする予定でいた。ところが前日から添乗員のTさんから泣きつかれた。帰りの飛行機の座席を現地旅行会社に頼んでいるのだがどうも信頼できない。みんなの不満が溜まっているところに、帰りの飛行機まで座席が夫婦別々なんてことになったら何を言われるか分からない。本当は会社からは禁じられているのだけど、Web checkinをやりたいので協力してほしいと。で、Tさんの部屋に行ってWiFiに接続しようとしたがうまく繋がらない。そこでビジネスセンターに行って私のラップトップを繋がせてほしいと頼んだが、「それは出来ません。そこにあるPCを使ってください。」同じ系列のバラナシほホテルではできたのに・・・と言っても駄目なものは駄目と。そこでPCでYahoo!を呼び出し"jal"を検索。当然JALの英語のホームページに繋がる。だが、日本語サイトにはあるWeb checkinのページが見つからない。URLを見ると、"http://www.jal.co.jp/en/"とある。そこでバックスペースで"en/"を削除してみるとずばりJALの日本語ページにヒット。そこでまず自分の座席をeb checkinで確保し、Tさんにほかのメンバー分のheckin任せた。料金は1時間100ルピーとのことだったが、Tさんが一所懸命checkin手続をやっている間に担当者が帰ってしまったらしく、ホテルをチェックアウトする際の勘定書には私の分にもTさんの分にも付いていなかった。最後、ジャイプールのClarks Amerでは部屋にLANケーブルが付いており、1時間300ルピーとのことだったが、帰る間際なので利用せず。デリー空港のラウンジでネット接続するつもりだったが、飛行場行きのバスの中で添乗員の方から「この空港では電気製品はいっさい禁止です。携帯電話以外の電気製品はパソコンも含めすべてスーツケースに入れてください。」と言われ、それこそIT大国のインドの空港でパソコンが使えないなんて変だな、と思いつつ、トラブルを起こすのも嫌なので指示に従った。ところがラウンジに入ると案の定みんなパソコンを使っている。ビジネスクラスラウンジだけでなく、一般待合室でもWiFiが通じているらしく、ここでもかなりの人が使っている。もう!なんてミスインフォーメーションなんだ!
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February 4, 2010 =Thu=

ファテープル・シークリー
アグラを発ってジャイプールに向かう5時間半の道のりの途中、世界遺産のファテープル・シークリーに立ち寄る。世継ぎに恵まれなかったアクバル帝が預言者の導きでこの地で男子(後のジャハーンギール帝)を得たことからこの地に都を移したが、5年の歳月をかけて赤砂岩で建てられた壮大な街は、わずか14年で放棄され、廃墟となった。猛暑と水不足が原因という。使われなかった分、建物の原型がよく残り、世界遺産となったのは皮肉だろうか。

ジャイプールの城壁の門
シティ・パレス(ジャイプール)のムバーラク・マハル
旅もそろそろ終わりに近づいてきたが、ツアー客の中に添乗員のTさんに対する不満が出てきたようだ。私から見れば、確かに少し気の利かないところはあるものの、一所懸命やっているようなのだが、大理石や宝石など一般の客があまり買わないような土産物店ではなく、隣近所や同僚への土産に適当なものを売っている土産物屋に連れて行けという声が多い。そんなこと言っても、ツアー自体は現地の旅行会社が設定するもので、その料金には指定の土産物店からのキックバックも織り込まれているのだろうから、添乗員の一存で大きく変更できるものではないし、第一、インドにそのような土産物屋があるのかどうか。私自身も出張で辺鄙なところに行くと、適当な土産物が見つからず、トランジット空港で出張先とは関係ない国のチョコレートか何かで誤魔化すことはしばしばだ。しかし、日本のツアー客には、世界中どこに行っても自分たちの希望する土産物屋があるものと信じ込んでいる人たちも結構いるらしい。

ツアーの一行と言えば、ほとんどは60代か70代のカップルや友人同士だが、一人旅の人も数人いた。その一人旅の中で、とても感じのいい40代の独身女性がいた。公務員だったが、疲れたので最近辞めたという。海外旅行はと聞くと、学生時
民族舞踊の踊り子
代にヨーロッパを回ったほか、公務員時代に仕事でオランダに行ったことがあるという。公務員ってどんな方面?と聞いても、「まあ、国家公務員です。」というだけで、仕事の中身は話したがらない。しかし、どうも只者ではない、と思い、比較的珍しい名字なので帰ってからググってみると、すぐにヒットして、思いがけない方であることが判明した。(それ以上は憚られるのでここには記さない。)

さて、長い時間をかけて到着したジャイプールは、ピンク・シティとも呼ばれ、城壁で囲まれた旧市街の街並みがピンクで統一されている。この点はモロッコのマラケシュに似ている。アラビア風の城壁と門もモロッコの風景を思い出させる。してぃ・パレスは18世紀に当時のマハラジャ(領主)によって造られたもので、現在もマハラジャが住んでいる。写真には撮り損ねたが、謁見の間の入り口に巨大な銀のつぼが二つ置かれている。これらは1902年に当時のマハラジャがエドワード七世の戴冠式に出席するため英国に旅行したが、その際、沐浴のため(飲料用との説もある)ガンガーの水を詰めて運んだものだそうだ。

夜はインド民族舞踊を見ながらの食事。今度の旅行ではずっとインド料理が続くのかと思っていたが、必ずしもそうではなく、インド料理の場合も日本のインド料理店で食べるような激辛カレーなどは余りお目にかからなかった。本場とはそういうものなのか、あるいは日本人向けに味を変えているのだろうか。
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February 3, 2010 =Wed=

ヤムナー川越しに見るタージ・マハル タージ・マハル全景
朝5時に起きてヤムナー川越しのタージ・マハルを見に行く。途中ガイドが何度も、「霧で見えないこともありますから。」と予防線を張っていたが、到着すると朝靄のなかに幻想的に浮かび上がるタージ・マハルを目にすることができた。ただ、タリバン系テロリストの侵入を防ぐためとかで有刺鉄線が張られているのは少し興ざめ。有刺鉄線の間に門があって鍵の掛かっていない扉が付いているが、この門は近くで警備にあたっている兵士が河原で用を足すときには入れるものの、観光客が立ち入ることは許されないらしい。左右対称のシンメトリー建築なので分かりにくいが、ここから見るタージ・マハルはちょうど裏から見ることになる。

真っ赤な盆のような朝日が昇るのを見ながらいったんホテルに戻り、朝食ののちふたたびタージ・マハルへ。バスの駐車場からは電気自動車で、今度は正面から入る。16世紀半ばにアグラに都を移したのはムガール帝国三代目のアクバル帝。それから二代後のシャー・ジャハーンが先だった愛妃ムムターズ・マハルを偲んで建設した白大理石の墓がタージ・マハル。建設には22年の歳月を要し、1653年に完成した。シャー・ジャハーンはヤムナー川の対岸に黒大理石による自身の墓を建て、二つを結ぶ橋を架ける予定だったが、息子である六代皇帝アウラングゼーブ帝によりアグラ城に幽閉され、白から見えるタージ・マハルに涙しながら余生を送ったという。シャー・ジャハーンの死後、遺体はムムターズ・マハルとともにタージ・マハルに眠っている。写真ではこれまでもよく見て来た建物だが、まわりに何もないその場所でみると、さすがにその荘厳さは印象的だ。

午後からはアグラ城へ行く。幽閉されたシャー・ジャハーンが失意のうちにタージ・マハルを眺めていた城だ。大理石のタージ・マハルとは対照的に、インドの遺跡に多くつかわれる砂岩の城。上からは遠くヤムナー川の流れとタージ・マハルが見える。

観光ののち、パッケージツアーつきもののショッピングタイム。アグラではタージ・マハルにちなむ大理石店だ。入り口で老若の職人たちが貴石を磨いて大理石に埋め込む作業をしている。普通ならここで日本語をしゃべる店員が出てきて解説をし、売り場に導くのだが、この店には日本語を話す店員がいないらしい。「誰か英語の分かる人いませんか?」と呼びかける。あいにく添乗員もガイドもスケジュールについて旅行会社と打合せがあるらしく姿を消している。誰も手を上げないし、私も知らん顔をしていたら、昨日の列車の中で私が向かいのインド人と話をしていたのを見ていたおばさんが、「あなた英語分かるんでしょ」と言い出し、結局インスタント通訳を務める羽目に。「この職人たちはタージ・マハルが出来た時から4世紀にわたり、親から子へ、子から孫へと技術を伝えてきました。大理石を4ミリの深さに切り込み、そこへ青や赤の貴石を削って埋め込んでいきます。青いラピスラズリはチリからの輸入で・・・」なんてことを通訳したら、お礼にとタージ・マハルのミニチュアをプレゼントされた。

アグラのクラークスホテルはこの旅で唯一の連泊で、今日は4時前にホテルに帰ったのでプールへでも行ってみようと出かけたが、別棟のところにある屋外プールは西洋人の年寄りが数人デッキで日光浴をしているだけで誰も泳いでおらず、なにやら水も濁っている様子だ。そのうち陽も傾き、急に寒くなってきたので早々に引き揚げる。
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February 2, 2010 =Tue=
カジュラホ 西の寺院群

昨日に続いてカジュラホの西群の寺院を巡る。西と南の寺院はヒンドゥー教だが、東の寺院はジャイナ教とのこと。ヒンドゥーとジャイナの違いはよく分からないが、どうやらどちらもインダス文明のころからインドの土着宗教であったバラモン教から紀元5世紀頃に分かれたらしい。その意味では仏教だってこのバラモン教から分かれたものだという。ヒンドゥーはギリシャ・ローマの神々と同様多神教であり、最も重要な神はブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの3神で、それぞれ宇宙の創造、維持、破壊を司る。仏教を開いた釈迦はヴィシュヌ神の化身とされる。ヴィシュヌ神の妻ラクシュミーは日本では吉祥天となる。ヴィシュヌ神の乗り物はガルーダという鳥だが、ガルーダはインドネシアの国章となり、国営航空会社の名前ともなっている。ブラフマー神は仏教の守護神・梵天となり、その妻サラスヴァティは日本の弁財天に相当する。シヴァ神は日本では大国主の命と合体して大黒天となる。またヤクシャ族の王クーベラ神は仏教では多聞天となり、日本に入ると毘沙門天となった。ヤクシャとは鬼人のことであり、日本では夜叉と呼ばれる。

以上は帰ってきてからWikipediaなどで調べた知識にすぎないが、こうしてみると、われわれには遠い世界に思えるヒンドゥー教も、日本人の日常性格や考え方、芸術文化に大きな影響を及ぼしていることが分かる。細かいことは分からないが、輪廻の思想もヒンドゥーと仏教で共通しているようだ。

ヒンドゥー教にしてもジャイナ教にしても、殺生を禁じ菜食を旨とするなど、かなり
カジュラホ 西寺院群のレリーフ
カジュラホ 西寺院群のレリーフ
禁欲的な宗教のように思えるが、その宗教の世界でなぜ寺院の壁面に現代のアダルトビデオも顔色ないようなエロチック・レリーフが並んでいるのだろうか。これもWikipediaからの推論だが、どうやらヒンドゥー独特の四住期という概念にあるらしい。解脱を最終目標とするヒンドゥー教徒の人生は、学生期、家住期、林住期、遊行期の四つに分けられる。学生期は文字通り学業に専念する時期。家住期は結婚し、一家の長として仕事に励み、子孫を設けて家族の繁栄をもたらす時期。林住期は孫の誕生により家系の継続を見届けて家を離れ、林の中の家で禁欲的な生活を送る時期。遊行期はその林の家も捨て、遍歴行者となって最終解脱をめざす。われわれはさしずめ林住期にいるのだろうが、家住期には子孫繁栄が大きな任務なので、セックスが重要な意味を持つ。そこで「カーマ・スートラ」のよう
ジャンシー駅で
な性愛経典やカジュラホ寺院群のレリーフが生まれたのかも知れない。インドの人口が2040年には一人っ子政策の中国を抜くと言われているのも、このあたりに理由があるのではないだろうか。

カジュラホからはあタージ・マハルのあるアグラへ移動するのだが、近くの飛行場でも鉄道のカジュラホ駅でもなく、なんとバスで5時間近くかけてジャンシー(JANSI)駅に向かう。ホームには遠くの実家に戻るのだろうか、家族単位のインド人たちがホームに座り込んで列車を待っている。ここからはシャタブディ・エクスプレスという急行列車に乗るのだが、列車は当然のように30分以上遅れて到着した。われわれの乗った車両は全席指定で、通路を挟んで2列と3列の5人掛け。後ろ半分が進行方向へ向かい、前半分が逆方向を向いたその中間、3列席のテーブルをはさんで向かい合わせの席がわれわれに与えられた。向かいにはインド人が一人で座っている。水道管の商売をしていて、ジャンシーの近くの取引先からアグラに帰るところとか。この列車の車中で出る「軽食」がかなりのボリュームだ。ミネラルウォータも1リットルのボトルを一人一本。
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February 1, 2010 =Mon=
未明のガンガーで沐浴する人たち 早朝のバラナシの路地

昨夜はホテルの部屋が満室で、一部がデラックスルームにアップされたが、たまたまそれに当たったこともあって、三日ぶりによく眠れた。だが、朝のモーニングコールは5時。ガンガーの朝の沐浴場面を見に行くためだ。昨夜はサイクルリクシャで行ったダシャーシュワメード・ガートの近くまで、今日はバスで行く。さすがに早朝はバスが走れるほど道が空いているのだ。ガートの階段には、茣蓙を敷いて花を売る人たちがすでに商売を始めている。

インドへ来てからいつもだが、昼はともかく朝晩は思いのほか寒い。今朝も上着が必要なほど冷え込んでいる。まだ周囲は暗いが、すでにガンガーに入って沐浴をする人たちが見られる。ガイドのシェルマ君によれば、写真の女性たちは南インドから来た巡礼者とのこと。

今朝も昨夜と同じように船に乗り、今度は下流に向かい火葬場のあるマニカル二カー・ガートに上陸。この時間でも火葬の火は燃えているが、ここでは写真撮影は厳禁。遠藤周作の「深い河」でも、ツアーに新婚旅行で参加した軽薄なカメラマンが忠告を無視して写真を撮影したことでトラブルが起き、これが原因で大津が命を落とす場面で終わっている。ガートから人気の少ない狭い道を上っていくと黄金寺院というのがある。このあたりにはイスラムの寺院もあってヒンドゥー教徒とトラブルが絶えないため、狭い道のあちこちに小銃を持った兵士が警備に就いている。黄金寺院の入り口ではカメラ、ビデオは持ち込み禁止の上、男女別に分かれて厳重なボディチェックを受けるのだが、中へ入っても外国人、というか異教徒は寺院には入れず、黄金色の寺院の屋根を遠くから望むだけ。何のためのボディチェックなのだか・・・。
カジュラホ 東の寺院 カジュラホ 南の寺院のレリーフ

ホテルに戻って昼食を済ませ、バラナシの空港へ。ここから国内線でカジュラホへ。航空会社はKingfisher Airlineという。Kingfisherというブランドのミネラルウォーターがあるが、同じ系列なのだろうか。カジュラホまでの飛行時間は45分。ほぼ定刻に出て定刻に着いた。

カジュラホの遺跡は村の西、東、南にあるが、一番規模が大きく有名なのは西の寺院群。これは明日にまわし、今日は東と南の寺院群を巡る。この村にはバックパックで訪れる日本人も多いと見えて、「レンタサイクル」と日本語で書いた看板も見える。この村ではガイドのシェルマ君のほかにローカルガイドが付くが、彼も日本語を話す。

カジュラホのヒンドゥー寺院といえば、エロチックなレリーフで有名だが、建物の全体像も美しい。左の写真のレリーフなどアクロバットのような体位だ。ローカルガイドによれば、日本では四十八手だが、インドでは八十四手あるという。インドの人口が多い理由はここにあるとか・・・。

3時過ぎにチェックインしたカジュラホのホテルは、低層ののどかな感じで、中庭にはきれいなプールがあり、ここにも入りたかったのだが、息子から今度始めようとしている事業の計画書の見直しを求めるメールが入ってきて、夕食までの時間はその作業に追われていた。
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