Diary



March 23, 2010 =Tue=

リスボンのホテルはポルトと同じティアラ・パーク・アトランティック、五つ星ホテルだ。ポルトガルのホテルではインターネット接続は有料で、それも結構高い。ポルトのティアラ・パークでは1時間7ユーロ、リスボンでは1時間10ユーロで24時間だと17ユーロ。ナザレのホテルは1時間5ユーロと比較的安かったが、設定に問題があるのかどうしても繋がらなかった。今回の旅行は、成田→フランクフルト、フランクフルト→ポルト
べレンの塔 発見のモニュメント
ジェロニモス修道院
ジェロニモス修道院の中庭 サン・ジョルジェ城
焼き栗売りのおばさん エドゥワルド7世公園
、リスボン→ミュンヘン、ミュンヘン→成田と、すべてルフトハンザ。成田→フランクフルト便の座席は747の3席ー4席ー3席の並びで真ん中の4席のさらに真ん中の2席というひどいアサインだったので、添乗員に「Webチェックインは出来ないの?」と聞いてみたら、昨日になって「本当は会社からは禁じられているんですが、もしwebチェックインをやられるのでしたら・・」とe-ticketを渡してくれた。ルフトハンザのwebチェックインは23時間前。だからやるならリスボンのホテルでやる必要がある。で、17ユーロ払って24時間のアクセスを購入し、トライしてみるとリスボン→ミュンヘン、ミュンヘン→成田もちゃんと並びでとれている。とくに、ミュンヘン→成田は747ではなくてエアバス300なので、2席ー4席ー2席の右側2席だから申し分なし。ルフトハンザ側で配慮してくれたようだ。それにしても北欧ではどこのホテルもネット接続は無料だったのに、ポルトガルはやはりヨーロッパでは後進国なのか。

イベリア半島最長のテージョ川は、全長約1000km。スペインを900km流れてきて、ポルトガルを100km流れて大西洋に注ぐ。その河口付近、サンタマリア・デ・ベレン地区に船の出入りを監視する目的で、かつヴァスコ・ダ・ガマの世界一周を記念して16世紀に造られた要塞がべレンの塔。世界遺産に指定されている。

べレンの塔から800メートルほど東に「発見のモニュメント」と呼ばれるコンクリート製の記念碑がある。大航海時代のアフォンソ5世をはじめ、ガマ、マゼランなどの冒険家、学者など歴史上の有名人の像が並んでいる。フランシスコ・ザビエルもいる。1940年に万国博を記念して建造され、材質が良くなかったのか風化してきたため、エンリケ航海王子没後500年に当たる1960年に再度制作されたというが、どちらもサラザール独裁政権時代だ。

モニュメントがテージョ川に向かっていれば、その反対側に広大な庭園と噴水があり、そのさらに向こうがジェロニモス修道院。これもエンリケ航海王子とヴァスコ・ダ・ガマの偉業を称えて16世紀から300年かけて建設されたマニュエル様式の最高傑作で、リスボン全市が壊滅した1755年のリスボン大地震にも耐えたという。これも世界遺産。

ところでこの1755年11月1日午前9時20分に発生した、マグニチュード8.5ののリスボン大震災だが、これまで見て来たポルトガル各地の建築物にも爪痕を残している。40分後に襲ってきた津波の被害を含め、死者の数は6万人とも言われる。ちょうどカトリックの祭日に当たったため、各家庭で蝋燭を灯していたことから、市内のあちこちで火災が発生した。ヨーロッパには地震は少ないというが、ギリシャ、イタリア、イベリア半島など南欧では結構大きな地震が発生している。私たちがギリシャに住んでいたときにもかなり大きな地震を経験した。日本人であるわれわれにはそれほど恐怖を感じるような揺れではなかったが、ギリシャ人にとってはかなりの脅威だったらしく、向かいの3階建ての家に住む娘たちが平屋のわが家に避難してきたほどだった。われわれも、地震のすぐあとにスペインを旅行し、バルセロナの聖家族教会の建設中の塔に登った時、ここで地震が起きたらと不安を感じたものだった。

ジェロニモス修道院見学ののち、リスボン市内中心部のドン・ペドロ4世広場で自由解散となったので、タクシーでサン・ジョルジェ城に登ってみる。リスボンも起伏の多い町で、坂を登るのにケーブルカーやエレベータまである。この城はリスボンでも一番古い建造物で、紀元前2世紀には要塞として使われたらしいが、13世紀になってアルカソヴァ城という名で王宮として使われた。16世紀になってマヌエル1世がテージョ川近くにリベイラ宮殿(リスボン大地震で崩壊、現在はコメルシオ広場)を建てたためこちらの城は放置されるようになった。高台にあるため、この城からはリスボン市内が一望できるし、逆に市内のあちこちからこの城を望むことができる。城からの帰り道は地元のバスでドン・ペドロ4世広場に戻る。広場では屋台のおばさんが焼き栗を売っていた。

広場から市内屈指の大通り、アベニーダ・ダ・リベルダーデを2kmほど行くとボンバル侯爵広場に行きあたる。ボンバル候は1755年のリスボン大地震ののち、市内の治安回復と復興に辣腕をふるった人物。その先には広大で手入れの行きとどいたエドゥワルド7世公園が広がっている。その公園に面してわれわれのティアラ・パーク・アトランティック・ホテルがある。いったんホテルに戻り、公園を散歩する。

今回の旅はポルトからリスボンまで、ポルトガルを縦断したわけだが、一か所に2泊ずつだったので体力的には楽だった。ヨーロッパ往復がエコノミークラスというのは少しきついが・・・

ホテルでメールを開いたら、M重工OBのSさんから、国税局出身の大物税理士A氏が亡くなったので関係者に伝えてほしいとのこと。Aさんとは私も、1980年代に移転価格税制導入に関する民間の検討会でご一緒させて頂いたことがある。「こんな税制を導入したら『XXXXに刃物』みたいなものです。」と移転価格税制反対の論陣を張っておられた。ついこの前まで国税局にいた人が、民間の立場に立ったとたんに税務当局を『XXXX』扱いするのかと驚いたものだった。移転価格税制が導入されてもう25年近くになるが、海外からの法外な移転価格認定に対して当局間の相互協議による解決を図ってきたプラス面もあるが、日本側当局による移転価格認定により二重課税など、問題点も多いようだ。Aさんは享年84歳とか。ご冥福を祈る。
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March 22, 2010 =Mon=

オビドスの小路 ボサーダ
ナザレから30分でオービドスへ。中世の城壁に囲まれた小さな町。石畳の狭い道の両側に、白い壁の可愛い家々が並ぶ。いかにも女性好みの町で、歴代の王妃に愛された町だとか。ここの名物は通りの店で売っている、ジンジャと呼ばれる酒。リカーにチェリーを漬け込んだ、甘くてかなり強い酒だ。これがチョコレート製の杯に注いで出される。もちろん杯も一緒に食べる。狭い町だから、入口の城門を入って15分くらいで反対側に着く。そこには古城が聳えているが、この城はボサーダという、城を改装した国営ホテルになっている。ホテルは9室しかなく、1年前から予約で埋まっているそうだ。中に入ってみると立派な服装をしたマネジャー兼フロント係が出てきて、「お茶を飲みたいんだけど」というと重厚な応接室に案内してくれる。そこでエスプレッソなどいただく。マネジャーはコーヒーを出すとすぐに別室に引っ込んでしまうので、中世風の応接間にはわれわれだけ。甲冑や分厚い本が並んでいる。
城門でレース編みを売るおばあさん

ボサーダを出て城壁に沿って歩いていると、向こうから同じグループで一人旅のおばさんが汗を拭きながらやってくる。「城壁を一周したいんだけど、登り口が見つからなくて・・」と。たしかに登り口は途中までちゃんとした階段になっておらず、途中からそれらしい階段があるものの、上は閉ざされているようにも見える。だが、上がってみるとこれこそ城壁への登り口だ。われわれは下の町をもう少し見たいから、「今からだと集合時間までに一週は無理だから、途中で降ります。」というおばさんと別れて下に降りる。町をぶらぶらと歩き、入口の城門に戻る。城門の角に、レース編みをしているおばあさんがいる。一日中ここに座ってレースを編み、観光客に売っているそうだ。
シントラ宮殿 宮殿の天井に描かれた鵲
ロカ岬にて ファドショー

オビドスから1時間半ちかく走ってシントラへ。ここまで来るとリスボンはもうすぐだ。

15世紀から建設が行われたシントラ宮も世界遺産に登録されている。この宮殿、異様に大きな円錐形の煙突が二本突き出しているのが特徴だ。これは炊事場の煙突。天井にハクチョウが描かれた部屋や、鵲(かささぎ)が描かれた部屋などがある。この宮殿を建設したジョアン一世は英国ランカスター家からフィリパを王妃に迎えていたが、ある日、女官の一人とキスを交わしているところをフィリパに目撃される。王は悪意はないと弁明し、王妃も不問に付したが、その噂はたちまち女官たちの間に広まった。そこで王はおしゃべりを禁ずる意味で女官の数と同じ数の鵲を天井に描かせ、またその嘴にはランカスター家の紋章であるバラを咥えさせた。ジョアン一世とフィリパの結婚は、
ユーラシア大陸最西端到達証明書
フランスとカスティーリャ王国との連携に対抗してイギリスとポルトガルとの関係を深めるための政略的な意味があったから、ランカスター家への配慮を考えたものらしい。このフィリパ王妃はあまり美人とはいえなかったらしい。彼女は表向きには「妻が夫の仕事に口出しするのはみっともないこと。」と言いながら、実際にはポルトガル王室だけでなくイギリス王室にもいろいろと口を出し、影響力を持っていたそうだ。

シントラ宮を出た広場の横町にピリキータというカフェがある。ここで売っているケイジャーダという、チーズを使った菓子が有名だという。観光客でごった返した店内で食べてみると結構いけるので、お土産はこれにした。

次にユーラシア大陸最西端のロカ岬を訪れる。岬には記念碑が建っていて、ポルトガル最高の詩人ルイス・デ・カモンイスの叙事詩「ウズ・ルジアダス」の一節が刻まれている。"Onde a terra acaba e o mar comesa (ここに地終わり、海始まる。)"最西端とか最南端とかの観光地の常として、到着証明書を発行してくれる。名前と日付を花文字で記入して発行する。小が5ユーロ、大が10ユーロ。

夕食はファドのディナーショー。ファドは日本の演歌にも似た、ポルトガルの民族音楽。物悲しい調べが多い。トリを取ったのは写真の黒マントの男性歌手。名前は分からない。
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March 21, 2010 =Sun=

サンタマリア修道院 礼拝堂のステンドグラスと回廊
バターリャのサンタマリア修道院
バターリャ・サンタマリア修道院の中庭
アルコバサ・サンタマリア修道院の中庭
昨日まではポルトガルの空は雲に覆われ、時に雨に降られたが、今日は青空が広がった。やはり南北に長いポルトガルでは、北の方が雨が多いようだ。

ナザレから30kmほど離れたバターりャへ。バターリャ(Batalha)はスペイン語のBatallaと同じで「戦闘」の意味。バターりャのサンタマリア修道院は、1385年にこの近くで行われた戦いでジョアン一世軍がカスティーリャ王国軍を破り、ポルトガルの独立を勝ち取ったことを感謝して建築された。正式には「勝利のサンタマリア修道院」という。ポルトガルのゴシック建築の傑作として世界遺産に登録されている。建設には130年を要し、この間にポルトガル国王は7人が代った。1755年のリスボン大震災、1810年代のナポレオン軍との半島戦争により破壊され、一時期は廃墟と化していたが1840年、フェルナンド2世が修復に着手し、20世紀までにようやく現在の姿に復元された。

バターリャのサンタマリア修道院には無名戦士を祀った部屋があり、そこには二人の儀仗兵が立ち、われわれは毎正時に行われる交代の儀式に遭遇した。。

バターリャの次はアルコバサ。今日は移動時間も比較的短い。アルコバサと聞いて、サウディアラビアのアルコバルを連想したのだが、この町の名の由来はムーア人とは関係なく、アルコア川とバサ川の交流点にあるからという単純なものだ。ここがアルコア川、ここがバサ川と説明を受けたが、Googleの地図を拡大してみてもどこに川があるのか分からない。そんな小さな川だ。
アルコバサのサンタマリア修道院
サンタマリア修道院の日曜ミサ


さて、このアルコバサで見るのもバターリャと同じ名前のサンタマリア修道院。これもバターリャと同様、世界遺産に指定されている。ポルトガルの世界遺産は文化遺産が12、自然遺産が1で合計13ある。面積で4倍、人口で12倍の日本が文化遺産11の自然遺産3で14だから、比率からするとかなり多い。ユネスコによる世界遺産認定というにはどうしてもヨーロッパに比重が置かれるのだろうが、各国の観光政策とも関連しているのだろう。日本だって石見銀山なんて良く分からないものもあるけど。今度の旅行ではポルトガルの文化遺産のうち半分の6つを見ることになる。

8世紀から15世紀にかけて、モスレムに征服されたイベリア半島をキリスト教徒が奪回する、レコンキスタ(国土回復運動)が行われた。この修道院はレコンキスタに協力したシトー派修道会に感謝して、ポルトガル建国の父・アフォンソ・エンリケス1世が12世紀に建造を命じたもの。質素を重んずるシトー派の教義に沿ってシンプルな造りとなっている。食堂の壁には人がやっと入れる程度の窪みが切ってあり、ここに入れない場合はシトー派の教義に反するほど飽食していると判断された、いわばメタボ測定装置となっていた。

さて、このアルコバサのサンタマリア修道院には悲恋の物語がある。第7代ポルトガル王アフォンソ4世の息子・ペドロ(1320-1367)は、政略結婚により隣国カスティーリャ王国の王族の娘コンスタンスと結婚させられるが、彼はコンスタンスの侍女であるイネスと恋に落ちる。怒ったアフォンソ4世により二人の仲は引き裂かれるが、1345年にコンスタンスが亡くなるとイネスとの仲は公然のものとなり子供も生まれる。しかしカスティーリャ王国への配慮からアフォンソ4世とその側近たちは1355年、イネスをコインブラで暗殺してしまう。1357年にアフォンソ4世が亡くなり跡をついで即位したペドロ1世はイネスを王妃として認めさせ、イネス暗殺にかかわった重臣たちを処刑、イネスの遺体を掘り起こしてここアルコバサの修道院に移した。ペドロ1世は1367年に死去し、二人の遺体は彫刻を施した石棺に収められ、ミサが行われる祭壇の左右に向かい合うように安置されている。

ペドロ1世はコンスタンスとの間に2男1女を、イネスとの間に3男1女をもうけた
展望台から見たナザレの海岸
が、悲恋物語とは裏腹にイネスの死後愛妾テレサ・ロレンソとの間にも1男をもうけている。ペドロ1世の跡を継いだのはコンスタンスとの間の子・フェルナンド1世だが、フェルナンド1世が嫡出男子をもうけないまま亡くなった後、条約に基づいてカスティーリャ王国出身のベアトリス王妃が王位に就いた。これに不満を持ち、カスティーリャ軍と戦って王位に就き、ポルトガル最盛期の基礎を築いたのがペドロ1世と愛妾テレサとの間に生まれたジョアン1世である。

今日の昼食はいわしの炭火焼。レストランにはなぜか柚子ポン酢が置いてある。昼食後は比較的早い時間に観光を終えてナザレに戻り、丘の上から町を一望するオ・シティオ展望台に上った後、自由解散となる。いったんホテルに戻るがすぐに散策に出る。昨日は人の少ない海辺の寒村と思ったが、今日は日曜日のせいか結構人が出ている。こんな漁村でも道はすべて石畳だ。民家の前のベンチに黒い未亡人服のおばあさんが二人座って毛糸を編んでいる。そばに
ナッツ売りのおばさん
行って写真を撮らせてもらったら中年の女性が出てきて英語で話しかけてくる。普段はカナダに住んでいて、今は里帰りだという。おばあさんは彼女の母親とその妹らしい。さっきは展望台までバスで登ったのだが、自由時間に地元の人たちとともにケーブルカーで登ってみた。頂上の展望台では、これがこの土地の制服なのだが、短めのスカートをはいたおばさんがナッツを売っている。ケーブルカーで下に戻り、散歩を続けていると、地元の人で満員の居酒屋がある。あさりの酒蒸しのようなのをつまみにジョッキを傾けている。どういうわけか、同じものを売っているほかの店は閑散としているのに、"Casa o Santo"というこの店だけが満員なのだ。テーブルが一つ空いたのでさっそく座って注文する。あさりとタマネギをトマトソースで煮込んでいる。食事の前にちょっと一杯というのにちょうどいい。
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March 20, 2010 =Sat=

アヴェイロの駅舎 運河に浮かぶモリセイロ
ポルトのティアラ・パーク・アトランティックという五つ星のホテルに2泊して、今日は約1時間南下してアヴェイロに到着。ここのアヴェイロ駅も駅舎がアズレージョで飾られている。だがアズレージョのあるのは旧駅舎で、実際に駅として使われているのは右の方に隣接している新駅舎のほう。写真は駅舎の正面だが、裏のプラットフォーム側にも立派なアズレージョが並んでいる。

ポルトガルのヴェニスといわれるこの町は、運河が流れていて舳先のとがった船が上り下りしている。この船はモリセイロと呼ばれる。ここは昔から製塩業と海藻の採取が主要産業である。海藻は肥料にされ、牧草を育てるので、この地方は酪農も盛んだという。モリセイロは今は観光用だが、もともとは海藻を採取するための船だったようだ。人口7万人足らずの小さな町を少し歩いてみたら、やはり大西洋に面した港町だけあってすぐに魚市場に出くわした。小さな魚はまだぴちぴちと跳ねまわっている。この町も例外でないが、ポルトガルの町はどこも石畳で覆
コインブラ大学の建物
われている。そして魚市場の近くの石畳には魚の絵が描かれている。

アヴェイロから60kmほど南に下がると学生の町コインブラに着く。コインブラの歴史も古く、初代ポルトガル王アフォンソ・エンリケはここを王国の首都とし、13世紀半ばまでポルトガルの中心だった。1290年創立のコインブラ大学はヨーロッパでも最古の歴史を持つ。雨が少し強まってきたので大学の建物の中に入る。学食の入り口にはポルトガルらしく鱈料理のメニューが。うっかり開けた扉は授業中の教室だった。叱られるかと思ったら、教授が「どうぞ、良かったら中に入って。」と。ポルトガル語での講義を聞いても分かるわけがないので遠慮した。
コインブラの旧カテドラル アルメディーナ門
ファティマの広場 バジリカでのミサ

雨上がりのコインブラの町を散策。モンデゴ川に近い丘の上に築かれたこの町も、石畳に覆われた坂の多い町だ。散策していて妙な事に気がついた。大学の町、学生の町だというのに、表通りに本屋が一軒も見当たらないのだ。その代わりというか、緑十字のマークがついた薬局ばかりがやたらに多い。ガイドをつかまえて聞いてみたが、「そういえば、そうですね。」

コインブラから1時間余り、ファティマに着く。1917年まで寒村にすぎなかったファティマは、20世紀に入って初めての聖母出現の奇跡で世界に知られる聖地となった。5月13日、ファティマ近くの山中で、羊飼いの子供たち、ルシア、フランシスコ、ジャシンタの前に聖母マリアと称する婦人が現れる。マリアは毎月13日にここに来るよう子供たちに告げる。子供たちは村に帰って親にこのことを告げる。村人たちは「悪魔のしわざ」と、子供たちを牢に入れるが、子供たちは信念を曲げず、噂を聞いた人々は毎月13日に指定の場所に集まるようになる。聖母は毎月13日にあらわれるが、その姿は子供たちにしか見えない。そして10月の13日、集まった10万人の人々の前で奇跡が起こる。太陽がぐるぐると回転し、不思議な光を放ちながら人々の上に落ちようとする。驚いた人々の祈りの声とともに、太陽は落ちる寸前で動きを止める。この様子はファティマから数十キロ離れた地でも目撃されたという。

マリアは子供たちに3つの予言を残した。第一と第二の予言は第一次大戦の終結と第二次大戦に関するもので、核兵器の出現を予告するものであったという。第三の予言は余りに衝撃的な内容から、バチカンはこれを封印したが、1981年のローマ法王暗殺未遂事件(同年5月13日)を予言したものとも言われる。

ファティマの予言のおかげで、かつての寒村はヨーロッパからの巡礼者が集う聖地となった。人口1万人の町には数万人を収容する広場が造られ、立派なバジリカではミサが行われていた。

ファティマから40分。大西洋に面した漁村・ナザレの「プライア(浜辺)」という名のホテルで宿泊。海まで数十メートルで、夏のシーズンには海水浴客で溢れるというが、さすがに大西洋の波は荒い。
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March 19, 2010 =Fri=

サン・ベント駅のアズレージョ ボルサ宮
ルフトハンザの乗り継ぎでポルトに着いたのは昨夜の11時過ぎ。ポルトガル第二の都市といっても人口26万人の町(周辺を入れると160万人)だから、空港からホテルまでは20分で着く。それでも空港で荷物を受け取ったりホテルで部屋割をしたり、風呂に入ったりしていると昨夜寝たのは2時になっていた。

で、今朝は時折雨が降る中を遅めにホテルを出て、まずはサン・ベント駅へ。この駅舎はポルトガル独特の絵タイル(アズレージョ)で飾られている。アズレージョはもともとはムーア人の技術を導入したもので、ポルトガルでも初期(15世紀)のものはスペインのアンダルシア地方で生産したものを輸入していたが、後にルネッサンスのころから神話や歴史の場面、町の風景や人々の生活が描かれるようになった。アズレージョにはこのポルトの町ばかりでなく、ポルトガルの行く先々で出会うことになる。

ポルトはその旧市街全体が「ポルト歴史地区」として世界遺産に指定されているが、その中心がボルサ宮という建物。火災で焼失したサンフランシスコ修道院の跡に、1834年に建てられた。ポルトガル初の大規模鉄筋建築でもある。宮といっても王宮ではなく、最近までは証券取引所として使われていて(ボルサとは「株式」の意味)、今はレセプションなどに貸し出されているというが、そのくせ内部は撮影禁止。なぜ撮影禁止かと言うと絵葉書を買ってほしいかららしい。ガイドブックによれば「アラブの間」が有名らしいが、あまり印象に残っていない。

サンフランシスコ教会 ドン・ルイス一世橋
ボルサ宮と接して建っているゴシック様式の建物がサンフランシスコ教会。13世紀ごろに建てられた小さな教会が、信者たちの手によって徐々に拡張されて今日の姿になった。17世紀から18世紀にかけては、内部の礼拝堂が金箔を張った木造彫刻で覆われた。その金は植民地であったブラジルからもたらされた。時間があるので希望者は自分で料金を払って入場してもよいと言われたが、ここも内部は撮影禁止なので中には入らず、路上を通り過ぎていくクラシックでかわいらしい市電を眺めていた。

ポルトの町を蛇行しながら流れ、大西洋に注ぐドウロ川。そこにかかる橋の中で
サンデマンのワイナリー
最も有名なのがドン・ルイス一世橋。この橋はエッフェル塔を設計したエッフェルの弟子、テオフィロ・セイリグの設計による。エッフェル自身も同じドウロ川の別の橋の設計にかかわ
ヴィンテージ・ポートワイン
っているが、弟子の橋の方が有名なのだ。橋はアーチの上と下にあり、上にはメトロが走っている。

そのドウロ川に面して、黒いコルドバ帽、黒い学生マントの後ろ姿の男性がシルエットを見せる。言わずと知れたポートワインの名門、サンデマンのワイナリーだ。1790年に創業したスコットランド人サンデマンは、スペインのへレスにシェリー工場を、ポルトガルのポルトにポートワイン工場を設けた。自社のマークを商標登録したり、ワインの瓶にラベルを貼ったりという、今では当たり前の商法はサンデマンが始めたものという。ワイナリーに入るとトレードマークと同じ衣装の女性が案内してくれて、ビンテージもののポートワインを試飲させてくれる。私はいま、シェリーにはまっているがポートワインはこれまであまり飲んだことがない。試飲してみると案外美味しい。21世紀に入ってからでは2002年ものが一番良いらしく、70ユーロほどするが、それより少し安い2003年ものを45ユーロで一本買った。

ギマランイス城 プラガのカテドラル
昼食のあと、ポルトから35Km離れたギマランイスへ。ここは初代ポルトガル国王アフォンソ一世が生まれた土地であり、「ポルトガル発祥の地」とされ、また、「ギマランイス歴史地区」として世界遺産に指定されている。アフォンソは1109年にこのギマランイス城で生まれた。父はブルゴーニュ家出身のポルトカーレ伯エンリケ、母はカスティーリャ・レオン王アルフォンソ6世の娘テレサ。3歳で父が亡くなり伯爵家を継ぐが実権は母が握っていた。11歳の時に母と対立して追放されるが14歳で母とその愛人に対して戦を挑み勝利する。さらに宗主国であるカスティーリャ・レオン王国と戦って独立し、その後この地を占領していたイスラム勢力にも勝利、1139年に初代ポルトガル王となった。

ギマランイスから北西に25Km。リスボンは楽しみ、コインブラは学び、ポルトは働き、そしてブラガは祈る。古代ローマ時代からの歴史を持つブラガは「祈りの町」といわれる。写真の大聖堂は、初代国王アフォンソ一世の父・エンリケ伯の手で12世紀初めに建設に着手し、その工事は18世紀まで続いたという。大聖堂には「セマナ・サンタ(聖週間=復活祭)の垂れ幕が下がっていた。今年はカトリックのイースターは4月4日。めずらしく正教のイースターも同日になるらしい。むかしギリシャにいたころ、ギリシャ正教のイースターはカトリックなどのイースターと1ヶ月くらいずれていることもあった。
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March 18, 2010 =Thu=

メキシコ・ユカタン半島のマヤ遺跡・チチェンイッツアには、毎年春分と秋分の日に蛇神ククルカンが降臨する。実際には、階段状のピラミッドの角に春分と秋分の陽光が射すと、これが蛇に見えるのだ。チチェンイッツアにはむかし行ったことがあるが、妻はメキシコに行ったことがないので、このククルカンの降臨を見るツアーを申し込んでいた。ところがツアーの参加人数が集まらず、キャンセルになってしまった。そこでこのツ
レーマー広場
アーの申込金を振り替えて適当なツアーを探したところ、出発日が同じ今日で、ポルトガルへの8日間ツアーが見つかったのでこれに参加することにした。ポルトガルのポルト、ナザレ、リスボンにそれぞれ2泊ずつするので旅程も楽そうだ。というわけで、朝11時40分発のルフトハンザで出発。

ルフトハンザだから当然フランクフルトでポルト行きに乗り継ぐことになる。だがフランクフルトに14時5分に着いてポルト行きの乗り継ぎ便が出るのが21時35分。なんと乗り継ぎ時間が7時間半もある。で、このツアーには途中フランクフルト観光がオプションで付いている。オプションと言ってもトランジットルームで7時間過ごすよりはと全員が参加。

フランクフルトは30年前にアテネから家族旅行で来たことがあるが、そのあともう
ゲーテハウス
一度来ている。例の9.11の時だ。当時、サンパウロに出張していて、ロス経由で帰る予定が、アメリカの空港がすべて閉鎖されたため、フランクフルト経由で帰国したのだ。行きはニューヨーク経由だったから地球を一周したことになる。その時も乗り継ぎにだいぶ時間があり、同行したS君がアメリカ駐在の経験はあるもののヨーロッパには行ったことがないというので、空港からタクシーで市内まで行ってみたのだった。

9.11のときは突然の訪問でガイドブックもなく、タクシー運転手の英語も怪しかったので、どこにいるのかよく分からなかったが、今回、アルトシュタットのレーマー広場に立ってみて、やはり30年前の記憶が蘇ってきた。左の写真の建物は観光写真の定番だが、それよりも広場の角にある右の写真のアーチは、デジャ・ヴの記憶を蘇らせた。デジャ・ヴは広場からすぐ近いゲーテハウスもそうだ。ゲーテハウスは右隣のげーて美術館から入るのだが、30年前はこんな美術館があったのだろうか・・あったとしても全く記憶にない。美術館では、ゲーテや家族たちの肖像画のほかに、Rintaro Mori(森鴎外)が書いた自筆のドイツ語の手紙が展示されていた。美術館の中庭に出て、そこから隣のゲーテハウスに入るのだが、なかなか記憶が蘇らない。だが、最上階の部屋に入ったとたんに思い出した。そう、私の記憶にあるのはこのシルエットのような絵がかかった部屋だ。
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March 11, 2010 =Thu=

Tは生まれてすぐアトピー性皮膚炎を発症した。物心もつかないうちから、夜中でも痒みで火がついたように泣きだす毎日が続いた。物心がついてくると、皮膚炎で爛れた顔に人目を気にするようになった。中学生のころ、皮膚炎の傷口から細菌が入ったのか、ギラン・バレー症候群という難病に冒された。最近、この病が原因で亡くなった有名女優がいたが、これも原因不明の奇病である。Tも肺機能が冒され、呼吸困難に陥った。当時、父親は海外に単身赴任中だったが、幸い、母親が早く気付いて自分の運転する車で病院に直行したため、1ヶ月ほどの入院で後遺症もなく完治した。しかしアトピーの症状は依然変わりがなかった。アトピーという名は、ギリシャ語で「場所が不特定」という意味らしいが、「原因不明の」というニュアンスもある。人間が月に行く時代に、発症のメカニズムも根本的な治療方法も分かっていない。患者数の実態さえ掴み切れていないらしく、30万人とも70万人とも言われるが、年々増加傾向にあり、かつ成人して発症する例も増えているらしい。Tが通学したのは中高一貫の受験校だが、高校2年のとき、耐えられなくなってアトピー治療のため1ヶ月ほど休学させてほしいと学校側に申し入れた。大学受験を控えた大事な時期であり、学校の性格からみて申し入れが拒否されるかと思ったが、学校は意外にもすんなりと許可を出した。思春期の高校生にとって、いくら痒くとも顔をかきむしるのは避けたい。それで顔の痒い部分を指で叩く。これで少しは痒みが治まるのだが、この叩く行為による振動が原因で網膜剥離になった生徒がいるという。つまりアトピーに悩むには、この学校でもTだけではなく、もっと重症な生徒もいることを、学校側も把握していたのだ。Tは、小学生のころから親に連れられて鍼灸院やら漢方薬局やらに通ってアトピー治療を試したが、目覚ましい効果は得られなかった。最も熱心に続けたのは温泉治療だった。箱根で汲み上げた温泉水をポリタンクに詰めたものを宅配してもらい、これを風呂に入れて沸かして入る。この治療を通じてアトピーの仲間もできた。高校を卒業するとTは横浜で一人暮らしを始めた。医学部への受験勉強をするためだが、二年間は受験を見送った。3年目になって沖縄の大学を受けた。私大の医学部へ行くのは経済的に難しかったので国立を選んだこともあるが、中学生のころ父親が単身赴任していたパナマに遊びに行って、その湿気の多い海洋性気候がアトピーの症状軽減に良いと感じたことが沖縄を選んだ理由だった。大学生活を通じて沖縄の海に親しんでいるうちにアトピーはほぼ完治した。以前に知り合ったアトピー仲間を沖縄に呼び、海で遊んでいると彼らも症状が良くなった。科学的根拠ははっきりしないが、経験的に沖縄の海がアトピーに良いことを知った。8年かけて大学を卒業し、医師免許を取ると、Tは北海道に渡った。医師の足りない北海道では、健康診断をする医師の需要が高く、検診車で広い北海道のあちこちを巡る仕事は、金を貯めるのに有利だった。ある程度まとまった金を手にしたTは、これをもとに沖縄にアトピー患者のための療養施設を建てる夢の実現に踏み出した。Tの夢を理解し、力を貸してくれる伴侶も得た。これから沖縄で海の近くに土地を探し、施設を建設する。今日、Tは沖縄に向けて旅立った。
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March 2, 2010 =Tue=

私が連絡役の幹事を務めている「松戸会」に出席。前回は11月下旬に早めの忘年会を兼ねてやったのだが、ちょうどテヘランに出張していて欠席した。その時は他にも都合のつかない人が多かったらしく、参加者は10人だったようだが、今回は登録メンバーのちょうど半分の17人が出席した。しかし、最長老だったKさんが昨年12月に亡くなられたので、その訃報をつたえる場ともなった。むかし、税務関係の仕事をしていた商社やメーカー、銀行・証券などの仲間が集まる会で、新規メンバーは増えようがないので、これからも人数は少なくなる一方だろう。
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